はじめに
今週の日曜日、フリブール・リバイバル福音教会(Église Évangélique de Réveil Fribourg)は、ホセア書を扱ってきた連続メッセージ「言葉にできない愛」の最終回を迎えます。最後のメッセージの題は、わずか二つの言葉に集約されます。取り消されることのない約束、です。
ホセアの物語は、「屈辱、裏切り、引き裂かれる思いが入り混じった」家庭へと私たちを招き入れます。神は預言者に、遊女ゴメルを妻に迎えるよう命じます。彼女は他の男のもとへ去り、神はホセアを遣わしてその心を取り戻させます。「今日のリアリティ番組もこれにはかないません」と説教者は語ります。しかしこの物語は、神が不真実な民をどれほど愛し、ご自分の心へ引き寄せようとしておられるかを示しています。
説教者はホセア書2章14〜23節(説教者が読む聖書の節番号では16〜25節)から、二つのポイントでメッセージを語ります。「神があなたを呼んでおられます。聞こえますか」、そして「心臓移植」です。私たちには新しい心が必要だからです。
メッセージの流れ
1. 背景:不真実な民と、愛される神
- ホセアは、民の霊的な堕落のゆえにさばきを告げるため、イスラエルに遣わされました。イスラエルは神に逆らい、神を否み、神に背を向けます。
- イスラエルについて言えることは、神に出会う前のすべての人にも当てはまります。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、ただキリスト・イエスにあるあがないによって、神の恵みにより、価なしに義とされるのである」(ローマ人への手紙3章23〜24節)。
- 「罪は死を生み、罪は腐敗を生み、罪は混乱を生みます」。日曜の朝にはつらい現実ですが、神は御子を遣わし、信じる者がひとりも滅びることのないようにされました(ヨハネによる福音書3章16節)。
- 前回のメッセージは悔い改めについてでした。古めかしく聞こえる言葉かもしれませんが、実は「贈り物」です。イエスに罪を告白することで、私たちは罪責感から解放され、人間関係も回復されます。十字架のようにです。縦の木は神との関係、横の木は人との関係を表しています。
- 説教者がイスラエルについて語るとき、それは「政府のこと」でも政治のことでもなく、ご自分の民を選ばれた神の主権のことです(申命記7章7節)。教会がイスラエルに取って代わったのではありません。私たちはオリーブの木に接ぎ木されたのです(ローマ人への手紙11章)。本文は「来たるべき日」について語っています。すでに実現していることと、まだ実現していないことがあり、それはイエスが再び来られる日まで続きます。
2. 神はあなたを荒野へ呼んでおられます。聞こえますか
- 「それゆえ、見よ、わたしは彼女を誘って、荒野に導き、ねんごろに彼女に語ろう」(ホセア書2章14節)。説教者が読む訳では「誘惑する」と訳されています。ここで誘惑するとは、愛する人の心に語りかけ、魅了し、励ましの言葉を贈ることです。婚約者が恋人に語りかけるのと同じです。
- イスラエルは、アッシリアに攻められて連れ去られたとき、現実の荒野を経験しました。けれども本文では「見事な逆転」が起こります。3節では、荒野は脅威です。神が民を渇きで死なせる、乾ききった地です。それは罪が心の中に生み出すものでもあります。そこには悪のほか何も育ちません。14節では、荒野は民が心を尽くして主のもとへ帰る場所になります。
- 神はときに荒野をお許しになります。孤独、失業、うつ、死別、裏切りなどです。「神が悪をお許しになると言っているのではありません。神は、私たちが神の御心に近づけるように、ある試練が来ることをお許しになるのです」。
- 繁栄の神学は、信じる者に富と健康と問題のない人生を約束します。ダビデの詩篇が語るのは別のことです。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23篇4節)。「そう書いたのは、彼自身がそこを通ったからです」。
- 説教者は、いちばん暗い時期が、神が特別な仕方で自分の心にご自身を現してくださった時期と重なっていると打ち明けます。「荒野が特別に好きなわけではありません」が、荒野は私たちを大切なものへと連れ戻してくれます。
3. 自分でまく荒野と、そうでない荒野
- 荒野の中には、私たち自身の罪や誤った選択が原因のものがあります。まいたものを刈り取るのです。不誠実な配偶者は愛を返してもらえるとは期待できませんし、飲酒の乱用は健康をむしばみます。
- 説教者は若いころの話をします。アルザスで育ち、オルレアンで仕事を見つけました。父親は「その仕事はおまえに合っていないと思う」と言いました。けれども「若いときは何でも知っているつもりです」。数か月後、父親の言うとおりだったと認めざるをえませんでした。「ズッキーニの種をまいたのですから、小麦は収穫できません」。
- 私たちに落ち度がないのに起こる状況もあります。その場合、霊的な理由を探し、「悪魔のいないところで悪魔と戦い始める」のは危険です。私たちの役割は、待ち、神のうちに休み、神の御顔を求めることです。
- 「荒野はそれ自体が目的ではなく、通過点です」。そして荒野の特徴は、と説教者は微笑みながら言います。荒野には神のほか何もないということです。神は私たちの心を引き寄せ、初めの日のようにもう一度ご自分を愛させようとしておられるのです。
4. 神は偶像の名を取り除かれる
- 「主は言われる、その日には、あなたはわたしを『わが夫』と呼び、もはや『わがバアル』とは呼ばない」(ホセア書2章16節)。バアルという語はもともと、主、主人、夫を意味しました。イスラエルは主について語るときにこの語を使うこともできました。しかしバアルはカナンの豊穣と収穫と雨の神でもあり、すべてが混ざり合って、礼拝の中に偶像崇拝的な習慣まで入り込みました。
- 民の口から偶像の名を取り除かれるのは、神ご自身です。それがイエスのなさることです。古きものは過ぎ去り、すべてが新しくなりました(コリント人への第二の手紙5章17節)。説教者はエゼキエル書36章25〜27節を読みます。「わたしはあなたがたに新しい心を与え、新しい霊をあなたがたのうちに置く」。
- 最近、ある人がこう言ったそうです。「そんなに悪いことはしていません。うそもつかないし、だましたこともないし、人を殺したこともありません。私は天国にふさわしいと思います」。説教者の答えはこうでした。「いいえ、私たちにはイエスが必要です。救いはイエスだけから来るからです」。
- ホセアが語りかけているのは、アッシリアやエジプトやペリシテ人ではなく、神の戒めを知っていた神の民です。ですからこの本文は教会にも語りかけています。みことばを知り、教会に通っていても、神から遠く離れていることがありえます。
- 私たちはバアルを知りませんが、別の名が代わりにその座に着きます。自分の義、救いを得ようとする努力、自己満足、高ぶり、ねたみ、お金です。「善い行いで神の愛を得るのがそれほど簡単なら、イエスの犠牲は何のためにあったのでしょうか」。
5. 心臓移植:永遠の婚約
- 「わたしは永遠にあなたとちぎりを結ぶ。すなわち正義と公道と、いつくしみとあわれみとをもって、あなたとちぎりを結ぶ。わたしは誠実をもって、あなたとちぎりを結ぶ。あなたは主を知るようになる」(ホセア書2章19〜20節)。神は三度、ご自分の民と婚約すると宣言しておられます。
- 神は「関係をつぎはぎして直そう」となさっているのではありません。正しい土台、すなわち神おひとりの上に、関係を新しくやり直させてくださるのです。
- 今日の婚約は、交際期間のようなものです。試してみて、うまくいかなければ他へ行きます。当時の婚約は、はるかに拘束力の強いものでした。花婿になる人は、花嫁の父に決められた額を納めました。結納が支払われると、結婚は成立したのです(出エジプト記22章16〜17節、サムエル記第二3章14節)。
- 説教者は少し脇道にそれます。スイスでは、結婚は戸籍役場の前でのみ有効です。説教者と奥さまもその手続きを踏みました。ふたりにとっては神の前での祝福のほうが大切ですが、ローマ人への手紙13章1節が権威に従うよう呼びかけているからです。そのあとで初めて、教会へ行き、主にふたりの結びつきを祝福してくださるよう願いました。
- 正義、公道、いつくしみ、あわれみ、誠実は、「神がご自分の民のために携えてこられる結納金のようなもの」です。このたとえは完全ではありません。贈り物を受け取る父親はおらず、受け取るのは花嫁自身であり、イエスを受け入れるのは私たちだからです。
- 「神が約束されるとき、神は取り消すことのない仕方で約束されます」。神はこれらの資質を恵みによって携えてこられ、私たちに「接ぎ木」して、実を結ばせてくださいます。世はそれらを弱さと見なしますが、神は世の弱い者を選んで強い者をはずかしめられました(コリント人への第一の手紙1章27節)。
6. 正義と公道
- 多くの人は、クリスチャン生活は規則ばかりだと考えています。「日曜日には教会へ行き、あとの時間は退屈している」というわけです。義は冷たい清廉さのように見えます。しかし聖書の中で義は、「もっとずっと温かいもの」を持っています。神の義は創造的です。人の心のいちばんゆがんだところをまっすぐにします。
- 義は賜物であり、私たちの救いです。「神は、罪を知らないかたを、わたしたちのために罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(コリント人への第二の手紙5章21節)。神なしには、人は死に値します。けれどもイエスの血を通して、神は「私たちを義と見てくださり、清いと見てくださいます」。
- 公道もまた神から来るもので、その実は「それを育てるなら」私たちのうちに現れます。それは私たちの社会がいちばんに重んじる資質ではありません。新聞を開けばわかります。それでもイザヤ書33章15〜16節は、正義を行って歩み、わいろを退け、悪から目をそむける人に、パンと水と避け所を約束しています。
- ひとつの証しがあります。セルフレジで、説教者は一、二フランの品物をスキャンし忘れました。店を出てから気づき、その品物を持って店の受付に戻り、事情を説明しました。自分が「宇宙人のように」見えている気がしました。レジの女性は言葉に詰まり、やがて目に涙を浮かべて礼を言いました。「そんなことをする人はいません」。同じことが奥さまにもパンのことで起こり、その正直さに花束を受け取って帰ったそうです。
- 「公道は育てるものです」。神は私たちのうちに正義と公道への渇きを置いてくださいます。それを育てるのは私たちの務めです。
7. いつくしみ、あわれみ、誠実、そして私たちの応答
- いつくしみとは忠実さです。赦された罪人に対して神が抱いておられる、全き取り消されることのない愛です。結婚でも友情でも、裏切りだけでできた関係を望む人はいません。
- 説教者は、「植物の吸血鬼」ともいわれるネナシカズラを紹介します。葉緑素を持たず、他の植物に巻きつき、その養分を吸い、ついには窒息させてしまう植物です。「いつくしみ、忠実さとは、そういうものではありません」。
- あわれみについて。書の初めで、神はもう民にあわれみを注がないと言われます。しかしご自分の性質に忠実に、神はあわれみ深いままであられます。強い者が勝つ論理で生きる人々は、これを弱さと見なします。「あわれみとは、私たちの惨めさの中に神が垂らしてくださる綱だ、と言った人がいます」。
- 誠実は、おそらくイスラエルにもっとも欠けていた資質であり、私たちにもしばしば欠けているものかもしれません。「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」(テモテへの第二の手紙2章13節)。神はそれを私たちに接ぎ木し、私たちが神に誠実であり続けるようにしたいと願っておられます。
- 23節はこう結ばれます。「ロ・アンミに向かって『あなたはわが民』と言い、彼は『あなたはわが神』と言う」。今朝もまた、神は言われます。「あなたはわたしの子、あなたはわたしの民」。「どんな答えをするかは、私たちが決めることです。わが神、と言うか、言わないか」。
- これが、教会が聖餐で示す応答です。パンはイエスの裂かれた体、ぶどうの実は罪の赦しのために流された血を表します。この食卓は、自分が罪人であると知り、イエスを救い主、また主と告白するすべての人のためのものです。説教者は、意図的にほかの神々に仕えている人には控えるよう勧めます。けれども「イエス様、あなたは私の人生の主です。赦してください」と言う人に、神は真実をもって赦し、導いてくださいます。
心に留めたいこと
- 神は荒野を用いて、あなたの心に語りかけることができます。荒野はそれ自体が目的ではなく、大切なものへと連れ戻してくれる通過点です。
- すべての試練が過ちの結果とは限りません。刈り取るものもあれば、神のうちに休みながら通り抜けるものもあり、どこにでも悪魔を探す必要はありません。
- 自分の義が偶像になることもあります。救いはイエスだけから来るのであり、悪いことをしていないからではありません。
- 神は正義、公道、いつくしみ、あわれみ、誠実をもってご自分の民と婚約されます。神はそれらを与えて私たちに接ぎ木してくださり、育てるのは私たちの務めです。
- 神が約束されるなら、それは取り消されることがありません。神は「あなたはわが民」と言い、あなたの答えを待っておられます。「わが神」と。
私たちの生活への適用
- 今、荒野を通っていますか。その場所で、神はあなたの心に何を語ろうとしておられるでしょうか。
- 誤った選択によって、自分でまいてしまった荒野はありますか。オルレアンへ発ったあとの説教者のように、あなたも立ち返るよう招かれていないでしょうか。
- あなたの口の中で、神に代わって座を占めている「名」は何ですか。自分の義、高ぶり、お金、ねたみでしょうか。
- 今週、どんな具体的な場面で公道を育てられますか。たとえ一、二フランの品物のことであっても。
- 「あなたはわが民」という呼びかけに、今日あなたはどう答えますか。
引用された聖句
- ホセア書2章14〜23節
- ホセア書2章3節
- ローマ人への手紙3章23〜24節
- ヨハネによる福音書3章16節
- 申命記7章7節
- ローマ人への手紙11章17〜24節
- 詩篇23篇4節
- コリント人への第二の手紙5章17節
- エゼキエル書36章25〜27節
- 出エジプト記22章16〜17節
- サムエル記第二3章14節
- ローマ人への手紙13章1節
- コリント人への第一の手紙1章27節
- コリント人への第二の手紙5章21節
- イザヤ書33章15〜16節
- テモテへの第二の手紙2章13節
よくある質問
ホセア書2章で、神はなぜご自分の民を荒野へ導かれるのですか
3節では、荒野は脅威であり、罪が生み出すものの象徴である乾いた地です。14節では、荒野は神が民の心に語りかける出会いの場所になります。荒野には神のほか何もありません。説教者は、神が悪をお許しになると言っているのではなく、神が御心に近づけるために、ある試練をお許しになるのだと述べています。
「あなたはわたしを『わが夫』と呼び、もはや『わがバアル』とは呼ばない」とはどういう意味ですか
バアルという語はもともと、主、主人、夫を意味しました。イスラエルはこの語を主に対して用いていましたが、バアルはカナンの豊穣と雨の神でもあり、礼拝の中に混乱が生じました。16節と17節で、神はご自身で民の口から偶像の名を取り除くと告げておられます。
ホセア書2章で、神はどんな資質によってご自分の民と婚約されますか
19節と20節で、神は正義、公道、いつくしみ、あわれみ、誠実をもってご自分の民と婚約されます。説教者はそれらを、昔、花婿が携えてきた結納金にたとえています。神はそれらを恵みによって携えてこられ、私たちの心に接ぎ木して、実を結ばせてくださいます。