はじめに
あなたは教会を愛していますか。もし今朝、理由を一つだけ挙げてと言われたら、あなたは何と答えますか。理由はたくさんあります。イエスが迎えに来てくださるから、兄弟姉妹とともにいることが良いことだから、教会が私たちを教え導いてくれるから、教会は花嫁だから。これらはどれも本当です。しかし、マタイ16章13〜18節に基づくこのメッセージの中で、レアンドル・キフーマ牧師は、時代を超えて揺るがない三つの理由を取り上げます。それは私たちの気分にも、日曜礼拝の内容にも、雰囲気の良し悪しにも左右されません。聖書に根ざした理由であり、あなたの生き方そのものに関わるものです。
メッセージの構成
1. 教会はイエスのものであり、イエスお一人のものだから、私は教会を愛する
- 出発点となる箇所はマタイ16章13〜18節です。イエスは弟子たちに問います。「人々は人の子をだれと言っているか」。シモン・ペテロは答えます。「あなたは生ける神の御子キリストです」。そしてイエスはこう宣言されます。「この岩の上にわたしの教会を建てよう。よみの門もそれに打ち勝つことはない」。
- 主が建てられる教会は、牧師のものではありません。特定の教団のものでもありません。ある兄弟や姉妹個人のものでもありません。教会はイエスのものです。この言い回しに注目してください。イエスは「わたしは」と一人称で語り、続けて「わたしの」と所有を表す言葉を用いています。この二つの表現は何の曖昧さも残しません。教会は主のものなのです。
- 牧師でさえ、教会を自分のものだと宣言することはできません。なぜなら、その宣言をしたのは牧師ではないからです。仕える者たちは、群れを牧するために教会に置かれています。彼らは所有者ではありません。
- イエスは建設者です。建設者とは、建てる者、設計する者、建物を組み上げる者、土台を据える者のことです。教会は聖霊が注がれたペンテコステの日に誕生しました。ペテロは聖霊に満たされて立ち上がり、福音を宣べ伝え、三千人の魂が主にささげられました(使徒2章)。しかしペテロは決して教会を自分のものだと主張しませんでした。彼は、まずユダヤ人と改宗者たちへ、そしてコルネリオの家で異邦人たちへと(使徒10章)、福音の門を開かせてくださったお方に教会が属していることを知っていたのです。
- 教会がイエスのものである以上、教会を愛するとは、繰り返す敬虔な決まり文句ではありません。それは具体的な実践です。礼拝があれば、あなたはそこにいます。祈祷会があれば、あなたはそこにいます。断食の時があれば、あなたはそこにいます。教会が何かを企画すれば、あなたは参加します。それこそが教会を愛するということ、すなわち主の臨在のうちにとどまり、主のからだの活動に加わることです。神のことへの無関心について、イエスはすでにこう告げていました。「不法がはびこるので、多くの人の愛は冷える」(マタイ24章12節)。
2. 教会は地上におけるキリストのからだだから、私は教会を愛する
- 「神はまた、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、教会にかしらとしてお与えになった。教会はキリストのからだであり」(エペソ1章22〜23節)。教会は地上における目に見えるキリストのからだであり、キリストがそのかしらです。
- 肉体には、目に見える部分。あなたを特徴づけ、この世で生きることを可能にする部分。と、目に見えない部分、すなわち魂、霊、神がアダムの鼻に吹き込まれたいのちの息(創世記2章7節)とがあります。この息がなければ、からだはいのちのない亡骸にすぎません。
- 教会も同じです。イエスはもはや肉体をもって地上にはおられませんが、この地上でご自身のからだを象徴する教会という制度を私たちに残してくださいました。そしてこの目に見えるからだは、聖霊によって生かされています。聖霊がなければ、教会はいのちのない空っぽのからだにすぎません。聖霊は教会を生かす息そのものです。
- このからだは多くの肢体から成り立っています。パウロはこう記します。「からだが一つでも肢体は多く、からだの肢体はみな多くても一つのからだであるように、キリストもそれと同様である」(第一コリント12章12節)。私たちは数多くいて、互いに違っています。それでも皆、キリストをかしらとする一つのからだに属しているのです。
- からだが健全に生きるためには、肢体が一つに結ばれていなければなりません。これは死活問題です。分裂したからだは死につつあるからだです。結ばれたからだは生きているからだです。
- ここで、ヨハネ21章15〜17節の問いが、あなた自身への問いとなります。イエスは三度、ペテロに尋ねられます。「わたしを愛するか」。三度、ペテロは「はい」と答えます。そして三度、イエスは「わたしの小羊を養いなさい……わたしの羊を養いなさい」と言われます。イエスへの愛は、主が委ねられる民への愛として表れます。主のからだを世話しないのに、主を愛していると言うことはできません。あなたの愛が本物かどうかは、そこに現れるのです。
3. 教会は主との永遠の再会を待ち望んでいるから、私は教会を愛する
- 三つ目の理由は、携挙の希望です。「生き残っている私たちが彼らと共に、雲の中に一気に引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります」(第一テサロニケ4章17節)。
- この約束は、三つの揺るがない真理の上に立っています。
- ご自分の民に与えられた約束であること。 約束には二種類あります。人間の約束は、私たちが不完全である以上、常に疑いの余地を残します。しかし神の約束は決して誤ることがありません。「神は人ではないから、偽りを言うことはない。人の子ではないから、悔いることはない。神は言ったことを行わないだろうか。語ったことを成就しないだろうか」(民数記23章19節)。「わたしはわたしの契約を破ることなく、わたしのくちびるから出たことを変えることはない」(詩篇89篇34〜35節)。
- 誰一人取り残さない約束であること。 キリストにあって死んだ者も、主にとどまり続けた生きている者も、誰も置き去りにされません。携挙はからだ全体を集めるのです。
- 約束の主との永遠の近さ。 その行き着く先は明確です。「いつまでも主と共にいる」。教会の歴史全体が行き着く先はここにあります。主は、ご自分のからだが永遠にご自分とともにあるために、この方法をお選びになったのです。
- この約束を、主は取り消すことも、ご自分を裏切ることもできません。それは主の口から出たことだからです。主は真実なお方です。主はご自分のくちびるから出たことを変えることはありません。
覚えておきたいポイント
- 教会はイエスのものであり、イエスお一人のものです。牧師も、教団も、どのグループも、それを自分のものだと主張することはできません。
- 教会を愛するとは、言葉の宣言ではなく、存在そのものです。礼拝に、祈りに、断食に、奉仕に、そこにいること。なぜなら、あなたは具体的な一つのからだに属しているからです。
- 教会は地上における目に見えるキリストのからだであり、聖霊によって生かされています。聖霊の息がなければ、教会にいのちはありません。
- イエスへの愛は、主が委ねられる民への愛によって証しされます。「わたしを愛するか。わたしの羊を養いなさい」。
- 教会の携挙は単なる一つの見解ではありません。それは、偽ることも前言を翻すこともできない神によって与えられた、揺るがない約束です。
自分自身への問いかけ
- あなたは自分の地元教会のことを、自分のものとして扱っていますか、それともイエスのものとして扱っていますか。その違いは、あなたの姿勢にどんな変化をもたらすでしょうか。
- 先週の予定を振り返ってみてください。礼拝、祈祷会、奉仕など、教会での集まりへのあなたの出席は、あなたが口にする教会への愛を本当に映し出していますか。
- もし今日、イエスがペテロに尋ねたのと同じ問い。「わたしを愛するか」。をあなたに投げかけたら、その答えはどこに現れるでしょうか。あなたの言葉にでしょうか、それとも主が委ねられた人々をあなたが世話する姿にでしょうか。
- あなたがつい軽んじたり、裁いたり、避けたりしてしまうからだの肢体は誰ですか。今週、イエスは彼らについてあなたに何を求めておられるでしょうか。
- 「いつまでも主と共にいる」という約束は、あなたの日々の希望を養っていますか。それとも、生き方を何も変えないまま繰り返すだけの決まり文句になっていませんか。
引用聖句
- マタイ16章13〜18節 ·、「この岩の上にわたしの教会を建てよう」
- マタイ24章12節 ·、「多くの人の愛は冷える」
- 使徒2章 ·、ペンテコステと三千人の回心
- 使徒10章 ·、コルネリオの家でのペテロ
- 創世記2章7節 ·、アダムの鼻に吹き込まれたいのちの息
- エペソ1章22〜23節 ·、教会、キリストをかしらとするからだ
- 第一コリント12章12節 ·、一つのからだ、多くの肢体
- ヨハネ21章15〜17節 ·、「ペテロよ、わたしを愛するか。わたしの羊を養いなさい」
- 第一テサロニケ4章17節 ·、空中で主と会う携挙
- 民数記23章19節 ·、神は人のように偽ることはない
- 詩篇89篇34〜35節 ·、「わたしのくちびるから出たことを変えることはない」
よくある質問
「教会を愛する」とは、具体的にどういうことですか。
教会を愛するとは、ただ「愛している」と口で言うことではありません。そこにいることです。日曜礼拝があれば、あなたはそこにいます。祈祷会があれば、あなたはそこにいます。断食の時があれば、あなたはそこにいます。教会が何かを企画すれば、あなたは参加します。教会を愛するとは、その歩みに、分かち合いの時に、奉仕に加わることです。なぜなら、あなたは一つのからだに属する、具体的な一員だからです。
教会は牧師や教団のものになり得るのでしょうか。
いいえ。マタイ16章18節でイエスはこう言われます。「わたしはわたしの教会を建てよう」。この「わたしの」は所有を表す言葉です。教会は主お一人のものです。牧師は所有者ではなく、仕える者です。教団も所有者ではなく、同じ主に仕える一つの家族です。イエス以外の誰も、教会を自分のものだと主張することはできません。
教会の携挙とは何ですか。なぜそれが良い知らせなのですか。
教会の携挙とは、第一テサロニケ4章17節に告げられている約束です。残っている信者たちは、よみがえった者たちとともに雲の中に引き上げられ、空中で主と出会い、こうしていつまでも主とともにいることになります。これが良い知らせなのは、この約束が神から出ているからです。民数記23章19節にあるとおり、神は人間のように偽ることのないお方です。神が語られたことは、必ず成し遂げられます。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。