詩篇42篇:神への渇きは健康な信仰のしるし

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はじめに

「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」(詩篇42篇1節、口語訳)。2026年9月24日、日本の油山シャローム教会(Aburayama Shalom Church)の祈祷会で、横田法路師は詩篇42篇を開き、一つの素朴な問いを投げかけます。この言葉を書いた人は、弱い信仰の持ち主なのでしょうか。それとも、健康な信仰の持ち主なのでしょうか。

牧師は、四国の徳島で開かれた聖会から戻ったばかりです。そこには70人以上が主を求めて集まりました。その前の週には松江を訪れ、宣教師バックストンの足跡をたどっています。そこで受け取ったことが、このメッセージ全体の土台になっています。日本で福音を前進させることができる唯一の力は聖霊であり、聖霊は内側から湧き上がる喜びを与えてくださる、ということです。

そこから牧師は、世の考え方とは逆の確信を語ります。神に渇くことは、欠けているしるしではありません。あなたが神を知っているしるしです。そして十字架は、その渇きが満たされるための道を開いてくださいました。

メッセージの流れ

1. 聖霊から来る喜び

  • 横田法路師は、バックストンの確信を思い起こします。日本の宣教には戦略もプログラムも必要ですが、本当に大切なのは聖霊です。
  • そして聖霊が与えてくださるのは喜びです。神から来る喜びは、私たちの内側に与えられなければなりません。
  • それがなければ、エジプトを出た民のようになってしまいます。荒野で試練に遭うと、エジプトのほうがよかったと言い始め、モーセとは別の指導者を立ててでも戻ろうとしました。そこでの生活がどれほど過酷だったかを忘れてしまったのです。
  • 「エジプトを出るだけでは十分ではありません。」約束の地に入るところまで、つまり聖霊が与える喜びを味わうところまで進まなければなりません。そうすれば、もう後戻りを口にすることはなくなります。

2. 過ぎ去る喜びと、とどまる喜び

  • おいしい食事は喜びです。働けることも喜びです。しかしそれらは過ぎ去る喜びです。翌日にはまたお腹がすきます。
  • 私たちに必要なのは、内側から湧き出て、変わることのない喜びです。
  • パウロは、喜びの書と呼ばれるピリピ人への手紙を書きました。それは「高級ホテルのプールサイドで」書かれたものではなく、獄中で、不安と恐れに囲まれ、自分がどうなるかも分からない中で書かれました。
  • それでもパウロは繰り返します。喜びなさい、と。これは聖霊が与える喜びであり、牧師は教会にそれを求めるよう勧めています。

3. 詩篇42篇の渇き、健康な信仰のしるし

  • 「わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。」(詩篇42篇2節、口語訳)詩篇の作者は、表面的な信者、まだ信じていない人なのでしょうか。そうではありません。「この人は神を知っています。神を知り、信じているからこそ渇くのです。」
  • 牧師は、思春期の娘さんの信仰に浮き沈みがあることを打ち明けます。祝福されていると感じられない、と口にすることもあり、それが心に響くといいます。しかしよく考えてみると、そこに美しいものを見るのだそうです。
  • 逆に、「もう満たされています」と言うほうが、かえって健全ではないのかもしれません。神に「分かりました、もう十分です」と言う人は、実は分かっていないのです。
  • 霊的に健康な人は神を知っています。それでもなお、「渇いています。もっとあなたを知らなければなりません。もっとあなたを知りたいのです」と言います。
  • 牧師はこの問いを自分自身にも向けます。私は十分に渇いているだろうか、と。そしてあなたを安心させます。物足りなさを感じ、渇いているなら、それは良いことです。神を求めるよう促されているのですから、喜ぶ理由にさえなります。

4. パウロ、前に身を乗り出す信仰者

  • ピリピ人への手紙3章7-8節で、パウロはかつて誇りだったものを損と見なし、ふん土のようにさえ思っています。熱心さ、努力、家柄など、人から「なんと立派な人だ」と言われたすべてのものです。イエスと比べれば、そのすべてが取るに足りません。価値観が完全にひっくり返ったのです。
  • それなのに、そのすぐ後でこう書いています。「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ人への手紙3章13-14節、口語訳)
  • パウロはイエスが素晴らしい方だと分かっていますが、すべてを手に入れたとは言いません。「前傾姿勢」で生きています。より速く走ろうと身を乗り出す競技者のようにです。
  • 牧師は問いかけます。あなたのクリスチャン生活は、「これで十分」と言って座り込む安楽椅子のようでしょうか。それとも、もっとイエスを知りたいと願って走る競走のようでしょうか。パウロは生涯をかけて、詩篇42篇の渇きとともに歩みました。
  • この神は宇宙の創造者であり、無いものを有るものとして呼び出される方であり、ご自分のいのちを惜しまず人となって来てくださった方です。「あの方を知っている、それで終わり」とは言えません。求め、知り、体験することが大切で、頭で理解するだけでは足りないのです。

5. 裂けた幕、神が道を開いてくださった

  • なぜ私たちは救われたのでしょうか。たましいの救いのためです。バックストンもそのことを強調しました。しかし中心にはこれがあります。私たちは神を体験するために救われたのです。
  • エデンで、神はアダムとエバとともに住まわれ、その臨在が彼らとともにありました。罪は二人を園から追い出しましたが、神は彼らを見捨てられませんでした。
  • 旧約聖書の転換点は幕屋です。将来の神殿の原型であり、そこで聖なる神がご自分の民の中に臨在を現されます。しかしこの臨在は守られなければなりませんでした。罪びとは、滅ぼされることなく聖なる神に近づくことができないからです。動物の血、清め、祭司が必要でした。
  • 幕が至聖所を隔てており、大祭司でも年に一度しか入れませんでした。この幕は、牧師によれば手のひらほどの厚さがあり、動物が引っ張っても裂けなかっただろうといいます。
  • マタイによる福音書27章50-51節で、イエスが息を引き取られたとき、「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」のです(口語訳)。十字架の場所と神殿は離れており、衝撃波ではありません。幕は人の手によって下から裂けたのではなく、上から裂けました。裂いたのは神ご自身です。
  • イエスの血によってきよめられた私たちは、今、神の臨在の中に入り、神との交わりに生きることができます。神がすべてを備え、道を開き、あなたを招いておられます。

6. 肉の幕、今も神と私たちの間に

  • 問題は私たちの側にある、と牧師は言います。神は道を開いてくださったのに、私たちは外庭を「ぐるぐる回って」いて、ほかのことで忙しく、急いでいて、神が差し出してくださる交わりに入ろうとしません。
  • 私たちには、そこに入ろうとする渇きがあるでしょうか。それとも、ほかのもので間に合うと思っているでしょうか。そこで私たちの霊的な渇きは止まってしまいます。
  • 神殿の幕は裂かれましたが、もう一つの幕が間に入り込むことがあります。それが肉の幕、自己中心です。そこには、自己正当化、自己憐憫、自己過信、自分だけでやっていけるという思い、自己愛が伴います。
  • この自分が新しい幕となって、神との交わりを私たちから隠してしまいます。神はすでに、もう一方の幕を取り除いてくださったというのに。
  • 答えは、自分に死ぬことです。「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ人への手紙2章19-20節、口語訳)自分をゆだねるとき、キリストがあなたのうちに生き、肉の幕が落ちて、イエスとのより親密な交わりが開かれます。

7. 今から祈って、渇きを受け取る

  • 「今の霊的な状態で十分です」とか「これ以上は進みません」と思わないでください。パウロのような渇きがあなたのうちに生まれるよう祈りましょう。「わたしはすでに捕えたとは思っていない。」
  • 1か月もしないうちに聖会が近づいています。ただ迎えるだけでは意味がありません。会場の準備も大切ですが、何よりも今から、この渇きを受け取るために祈り始めることが大切です。神はそれを満たし、ご臨在の喜びを体験させたいと願っておられます。
  • 牧師は一つの祈りを提案します。「しかが谷川を慕いあえぐように、あなたへの渇き、あなたのみことばへの渇きをください。あなたをこれまでにないほど知り、また自分自身を知ることができますように。」
  • また、一人ひとりが抱えている困難もあります。自分のこと、家族のこと、将来への不安などです。牧師は、神がそこに光をもたらしたいと願っておられると信じ、期待をもって祈りの中で備えるよう勧めています。
  • 最後の祈りで牧師は、教会のために、神を愛する心を求めます。神を愛する人は、いつももっと神を慕い求めるからです。さらに、神をもっと知りたいという渇きと、へりくだった心も求めました。

要点

  • 聖霊が与える喜びは、「エジプト」を振り返ることをやめさせ、約束の地へと導きます。
  • 神への渇きは、弱い信仰のしるしではありません。神を知っている人は、もっと神を知りたいと渇きます。
  • パウロのように、信仰者は前傾姿勢で生きます。すべてをすでに捕えたとは言いません。
  • 十字架で、神ご自身が幕を裂いてくださいました。神の臨在への道は開かれています。
  • 残っている幕は肉の幕であり、自分に死んでキリストに生きていただくとき、それは落ちます。

個人への適用

  1. 今のあなたの生活で、最も大きな場所を占めている過ぎ去る喜びは何ですか。聖霊から来る喜びを、どこに求めていますか。
  2. 霊的な生活に物足りなさを感じていますか。その物足りなさを、失敗ではなく、神にもっていく渇きとして見ることができますか。
  3. あなたのクリスチャン生活は、心地よい安楽椅子に近いですか。それとも前傾姿勢の競走に近いですか。
  4. 神の臨在への道は開かれているのに、忙しく急いで「外庭」にとどまらせているものは何ですか。
  5. 自己正当化、自己憐憫、自己過信、自己愛のうち、あなたの生活で幕となっているものはどれですか。

引用された聖句

よくある質問

神に渇くことは、弱い信仰のしるしですか。

いいえ。横田法路師によれば、詩篇42篇の作者は神を知っている信仰者であり、神を知っているからこそ渇いています。「分かりました、もう十分です」と言うほうが、まだ分かっていないしるしといえるでしょう。霊的に健康な人は神を知っていて、なおもっと神を知りたいと渇きます。

マタイによる福音書27章51節の、裂けた神殿の幕は何を意味しますか。

厚い幕は神の聖なる臨在を隔てており、そこには大祭司だけが年に一度入ることができました。イエスが亡くなられたとき、幕は上から下まで裂けました。裂いたのは神ご自身です。イエスの血によってきよめられた私たちは、今、神との交わりに入る道を与えられています。

今日でも私たちを神から隔てる幕とは何ですか。

横田法路師が語るのは、肉の幕です。自己中心、自己正当化、自己憐憫、自己過信、自己愛などを指します。ガラテヤ人への手紙2章19-20節にあるように、自分に死んでキリストにゆだねるとき、この幕は取り除かれます。

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