自分が迷子だと認めよう:神はすでに走り出しておられます

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自分が迷子だと認めよう:神はすでにあなたのもとに走り出しておられます

ジャン=クロード・ダテヴィ牧師によるメッセージ。2026年1月4日の礼拝、ルカ15章1〜32節より。

新しい年最初の日曜日、ジャン=クロード・ダテヴィ牧師はルカ15章を開き、イエスが続けて語られた三つのたとえ話を一気に読み上げます。見失われた羊、なくした銀貨、そして放蕩息子です。三つの物語、しかしその心はひとつです。神は、ご自分から遠く離れている者を探し求めておられるのです。イエスに目を向けて新しい年を歩み始めるために、教会に語られたみことばをここに分かち合います。

1. 背景:イエスは本当は誰に語っておられるのか

ルカ15章1節はこう始まります。「取税人や罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして近寄って来た。すると、パリサイ人たちや律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、いっしょに食事をしている』と言って、つぶやいた。」

パリサイ人とは当時の宗教指導者たちのことです。モーセの律法をよく知り、それを教える立場にありました。彼らはイエスが評判の悪い人々と付き合うことを非難します。神の子は、なぜそのような人々に関心を寄せられるのでしょうか。イエスは三つのたとえ話をもって答えられます。そこで語られているのは一つのこと、救いです。誰が救われうるのでしょうか。なぜ私たちに救いが必要なのでしょうか。何から救われるのでしょうか。そして、どうすればそこにたどり着けるのでしょうか。

2. 自分を罪人と認めること

一匹の羊、一枚の銀貨、一人の息子。一見すると共通点はありません。それでも三つとも、失われているという点では同じです。羊は羊飼いから離れ、銀貨は見えなくなり、息子は父のもとを去りました。

羊がなぜ迷ったのかは分かりません。下の息子のように、どこかにもっと青々とした草を探していたのでしょうか。三つ目の物語は、息子がなぜ遠くへ行ったのかをはっきりと語っています。彼は自分の相続分を求め、遠い国へ行ってすべてを使い果たし、聖書が言うところの、放蕩な生活を送ったのです。

この表現は聖書の中で何度も出てきます。民数記25章には、「イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫行を始めた。彼女たちが民を自分たちの神々のいけにえに招くと、民は食い、そしてその神々を拝んだ。イスラエルはバアル・ペオルに、自分の身をゆだねた。それで主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった」とあります。不従順によって、民は神から離れ、他の神々を拝み始めたのです。

箴言23章19〜21節も同じ方向を示しています。「わが子よ、聞いて、知恵を得よ。あなたの心をまっすぐな道に向けよ。大酒飲みや、大食漢の仲間に加わってはならない。大酒飲みも大食漢も貧しくなり、まどろみはぼろをまとわせるからだ。」

これはまさに下の息子に起こったことです。彼は神の戒めから離れ、自分の欲望のままに生き、ついには飢え、豚の世話をさせられる身となり、豚の食べるいなご豆さえうらやむほどになりました。

兄弟姉妹の皆さん、神の御前から離れているということは、なんとつらいことでしょうか。黙示録22章14〜15節はこう警告しています。「自分の衣を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者たちは、幸いである。犬ども、魔術を行う者たち、淫行の者たち、人殺したち、偶像を拝む者たち、また、うそを好み、これを行う者はみな、外にいる。」迷い出た子が送っていた生活のままでは、家に帰ることはできません。少なくとも、そのままの状態では。

3. パリサイ人の落とし穴:自分を正しいと思い込むこと

では、どうすればよいのでしょうか。ルカ5章で、イエスはすでにこう答えておられます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」パリサイ人たちは自分を正しい者だと考えていました。彼らは放蕩の描写の中に自分自身の姿を見出すことができなかったのです。

イエスは彼らに向けて、もう一つのたとえ話を語られます(ルカ18章9〜14節)。二人の人が祈るために宮に上りました。一人はパリサイ人、もう一人は取税人です。パリサイ人は立って、こう祈りました。「神よ。私はほかの人々のように、奪い取る者、不正な者、姦淫を犯す者でなく、またこの取税人のようでもないことを感謝します。私は一週間に二度断食し、自分の受けるすべての物の十分の一をささげております。」一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、胸をたたいてこう言いました。「神様。罪人の私をあわれんでください。」そしてイエスはこう結ばれます。かの取税人が、義と認められて家に帰った。あのパリサイ人ではなく。

この二人の違いは何でしょうか。一人は自分を罪人と認め、神の恵みに拠り頼みました。もう一人は自分自身の功績に拠り頼みました。まさにこれこそ、イエスがルカ15章で描き出しておられることです。悔い改めの必要を感じない99匹に対して、見失われて見つけ出された一匹の羊。恵みが理解できない兄息子に対して、連れ戻された弟息子。

聖書ははっきりと語ります。「すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることができず」(ローマ人への手紙3章23節)。私たちは誰もが、いつか、あの見失われた羊であり、あの放蕩息子なのです。

4. 救いにあずかる:自分を認め、立ち上がり、帰って行く

幸いなことに、道があります。神が私たちのために残しておられる道、イエスだけが開いてくださる道です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに行くことはありません」(ヨハネの福音書14章6節)。

放蕩息子は自分の状態を認めます。「父のところには、あんなに大ぜいの雇い人がいて、パンが有り余っているのに、私はここで飢え死にしそうだ。」「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだバルテマイのように、十字架のもとで「まことに、この方は神の子であった」と言い表したローマの百人隊長のように、彼は自分の立場を受け入れます。救いを必要とする罪人であるということを。そしてこう言います。「お父さん。私は天に対して、またあなたに対して罪をおかしました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。」

コリント人への手紙第二12章21節でこう書いています。「私が再び行くとき、私の神が私を、あなたがたの前で辱められはしないかと恐れます。そして、前に罪を犯していながら、自分の行った汚れ、不品行、好色を悔い改めなかった、多くの人のことで、私が悲しまなければならないのではないかと恐れます。」またヤコブ書5章16節は、私たちに罪を告白し、神の御前にそれを差し出し、ダビデ自身がそうしたように、神の恵みに信頼するよう招いています。

ここで牧師は個人的な証しを分かち合います。「私も以前は、主を知らない一人の人間でした。ある日、神様は私に、ご自身がただひとりの真の神、イエス・キリストであることを明らかにしてくださる恵みを与えてくださいました。」すでに主を知っている方々には、こう伝えます。さらに主のうちに身を隠してください。まだ主を知らない方々には、こう伝えます。主は今年もなお、手を差し伸べておられます。

5. 立ち上がり、歩み出すこと

放蕩息子は認めるだけでは終わりません。彼は立ち上がり、歩き出します。滅びの場所を後にします。ザアカイがいちじく桑の木から降りてイエスに会いに行ったように、彼は父の家に向かって歩み始めます。

神に近づくということは、神の御心にそぐわないものから離れることです。ヤコブ書4章6〜9節は力強くこう語っています。「神は、私たちのうちにある傾きをねたむほどに慕っておられる、と言われるのは意味のないことだと思いますか。しかし、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えられる』。ですから、神に従いなさい。悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。心の定まらない人たち、心を清くしなさい。ああ、嘆き悲しみ、泣きなさい。あなたがたの笑いを嘆きに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主はあなたがたを高く上げてくださいます。」

6. 神は喜ばれる:走り出し、迎え入れ、赦してくださる

取税人が義と認められて帰って行ったように、息子が喜びをもって迎え入れられたように、見つけ出された羊が羊飼いの肩に担がれるように、女性が友人や近所の人たちと一緒に喜ぶように、私たちが神のもとに来るとき、天では神が喜んでおられます。

神は、私たちが神を探し求めるより先に、私たちを探しておられます。羊飼いが羊を探すように、女性が銀貨を探すように、父が息子を出迎えに走るように。イザヤ書65章1節はこう語ります。「わたしに問わなかった者たちにも、わたしはわたしを求めさせ、わたしを尋ねなかった者たちにも、見出させた。わたしの名で呼ばれなかった国民に、わたしは言った。『わたしはここにいる。わたしはここにいる』と。」

ローマ人への手紙5章8節はさらに一歩踏み込みます。「しかし、神は、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」神は、私たちが完全になるのを待たれませんでした。ありのままの私たちを愛してくださったのです。

マタイの福音書18章14節はこう確認しています。「同じように、これらの小さい者がひとりでも滅びることは、あなたがたの天の父のみこころではないのです。」イエスはこの良い羊飼いです(ヨハネの福音書10章14〜16節)。「わたしはよい牧者であって、わたしのものを知り、わたしのものはわたしを知っています。それは、ちょうど父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。わたしは羊のためにいのちを捨てます。この囲いに属さないほかの羊が、わたしにはいます。わたしは、その羊も導かなければなりません。その羊もわたしの声に聞き従います。こうして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」

そして私たちが自分の罪を告白するなら、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださいます」(ヨハネの手紙第一1章9節)。父が肥えた子牛をほふり、息子に一番良い服を着せたように、神は私たちを再びご自分の子どもとして迎え入れてくださいます。

ローマ人への手紙8章13〜15節。「あなたがたが肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人はだれでも、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」

黙示録7章9〜10節は、その行き着く先を示しています。「その後、私が見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語の中から、だれにも数えきれないほどの大勢の群衆が、白い衣を着て、手にしゅろの枝を持ち、御座と子羊との御前に立っていた。彼らは大声で叫んで言った。『救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊とのものである。』」

要点まとめ

  1. ルカ15章の三つのたとえ話が語っているのは一つのことです。失われた者の救いです。
  2. 最初の一歩は、パリサイ人のようにではなく、取税人のように、自分を罪人と認めることです。
  3. 放蕩息子は、ただ自分の状態を認めるだけで終わりません。立ち上がり、父の家に向かって歩き出します。
  4. 神はただ私たちを待っておられるだけではありません。私たちの方から神を探し求める前に、神ご自身が私たちを探し、迎えに走り出してくださいます。
  5. イエスにあって、迎え入れ、赦し、子としての身分が与えられます。そして、一人の罪人が悔い改めるとき、天は喜びます。

個人への適用

  1. 今の私は、遠くへ出て行った弟息子に近いでしょうか。それとも、家にとどまりながら父の恵みが理解できずにいる兄息子に近いでしょうか。
  2. 自分を罪人と認める代わりに、神の御前で自分を正当化している領域が、私の人生のどこかにないでしょうか。
  3. この新しい年の始まりに、父の家に向かって歩み出すために、私が具体的に捨てるべきものは何でしょうか。
  4. 私は本当に、神が私を迎えに走り出してくださると信じているでしょうか。それとも、まだその迎え入れにふさわしくなければならないと考えているでしょうか。
  5. 私の周りで、今日「見失われた羊」である人は誰でしょうか。祈りと迎え入れによって、その人をどのように支えることができるでしょうか。

引用聖句

よくある質問

なぜイエスは三つのたとえ話を続けて語られたのでしょうか。
それは、パリサイ人たちがイエスを、評判の悪い人々と食事をともにすると非難したからです。三つのたとえ話はどれも同じ問いに答えています。誰が神のもとに来る資格があるのか、という問いです。答えはこうです。自分が迷子であると認める者です。

「自分を罪人と認める」とは、具体的にどういうことでしょうか。
ルカ18章の取税人のようにすることです。他人と自分を比べることをやめ、自分自身の功績に頼ることをやめ、神にこう言うことです。「罪人の私をあわれんでください。」この転換点があってこそ、赦しが可能になるのです。

放蕩息子の父は、本当に神の姿を表しているのでしょうか。
そのとおりです。息子がまだ遠くにいるうちから、父は走り寄り、抱きしめ、一番良い服を着せ、祝宴を開きます。イエスはここで、ただ待っているだけではない父を描いておられます。その父は、迎え入れるために自ら動き出すのです。

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