「私についてきなさい。あなたを作り変えよう」:ペテロの召命

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はじめに

人生には、勢いが必要な瞬間があります。壁を乗り越えるための力、自分がしていることの意味を取り戻す力、足踏みしている場所から前に進む力です。そのエネルギーはどこで見つかるのでしょうか。目的はどこにあるのでしょうか。

今週の日曜日、Efficient Churchでは、モンペリエの牧師であり、自身の福音派教会で研修責任者を務めるトアン・リー・ティン牧師が、前進する必要を感じているすべての人への励ましを分かち合ってくださいました。彼が選んだのはルカ5:1-11、奇跡の漁とペテロの召命の場面です。彼自身がメッセージにつけたタイトルはこうまとめられます。「私についてきなさい。あなたを作り変えよう」

これは信仰の英雄たちだけに与えられた特別な召しではありません。あなたへの召しでもあるのです。そしてそれは往々にして、あなたが最も予想していない瞬間、何もかもうまくいかないと感じるときに訪れます。

メッセージの構成

1. 神があなたを救うとき、神はあなたの人生全体を救いに来られる

神があなたに出会われるとき、神はあなたの内面、あなたの霊的な部分だけを救おうとしているのではありません。神は、あなたという存在のすべてを回復し、立て直し、命へと呼び戻しに来られます。そして、あなたに目的を与え直しに来られるのです。

エペソ2:10ははっきりとこう語ります。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちがそれを行うようにと、前もって備えてくださいました。」神と共にいることは、ごく自然に神と共に「行う」ことへとつながっていきます。そしてその「行うこと」こそが、あなたの人生に意味と方向性を与えてくれるのです。

時には、あなたの人生に対する神の召しを聞く(あるいは聞き直す)必要があります。詩篇23篇は、神を良い羊飼いとして、あなたをその羊として描いています。羊はときに道に迷い、ときに牧草地でぐずぐずしています。それでも羊飼いは、一頭一頭を個人的に、そして群れ全体を、自分の声で導いていきます。その声を聞くこと。その召しを聞くこと。それがあなたを動かすのです。

2. シモンへのイエスのまなざし:「あなたはペテロと呼ばれる」

トアン・リー・ティン牧師は、まずペテロとイエスの歩みをたどりました。二人の最初の出会いはヨハネ1:42にあります。「イエスは彼を見つめて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(訳すとペテロ)と呼ばれます。』」

言葉は少ないのですが、そこで起きていることは非常に力強いものです。「イエスは彼を見つめられた。」原文のギリシア語は、内側を見つめる、じっと見つめるという意味を含んでいます。これは後に、鶏が鳴いた後、イエスがペテロを裏切りの直後に振り返って見つめられた場面と同じ動詞です。多くを語るまなざし。表面を超えて見通すまなざしです。

ただひと目で、イエスはこのシモンが誰であるかを見抜かれます。彼の人生を見通し、彼の未来を見通されるのです。詩篇139篇は、私たちが母の胎の奥で織りなされていたときから、神がすでに私たちを見ておられたと語ります。そしてヨハネ2:25は、イエスが「人のうちにあるものを、ご自分でよく知っておられた」と記しています。

これはあなたにとって良い知らせです。イエスは、今朝のあなたが誰であるかを正確にご存じです。イエスは変わっていません。あなたが見せたいと思う姿を超えて、あなたを個人として知っておられます。トアン・リー・ティン牧師はユーモアを交えてこう言います。「私はイエスをがっかりさせることはできません。だって彼は、私が誰であるかを正確に知っているのですから。」

そしてイエスは名前を新しく与えられます。誰かに名前をつけることは、権威を行使する行為です。シモンはペテロになります。そしてこの名は預言的です。マタイ16:18で、イエスはこう言われます。「あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。」イエスがあなたを見つめるとき、彼はあなたの過去だけを見ているのではありません。あなたをどう作り変えられるかを見ておられるのです。

3. 出会いと召しの間にある、誰もが知るあの中間地帯

ペテロとイエスの最初の出会いから、ルカ5章の召しまでの間には、何が起きていたのでしょうか。福音書を急いで読むと、この二つの瞬間が同じものだと思ってしまいがちです。しかし、そうではありません。

ルカ4章ではその直前、イエスがシモンの家で夕べを過ごし、彼の姑を癒やし、多くの奇跡を行っています。おそらくその間には、カナの婚礼(ヨハネ2章)もあったでしょう。シモン・ペテロは、カペナウムでの生活と漁師という仕事を続けながら、イエスと親しく交わり始めていたのです。

これを今日に置き換えると、とトアン・リー・ティン牧師は言います。ペテロが教会に来るようになったようなものです。イエスに仕え始め、家に迎え入れ、クリスチャンとして生活し始めるようなものです。けれども、クリスチャンとしての生活を送り、イエスに仕えていても、心の奥底で本当は何に召されているのかを、まだ聞いていないことがあり得るのです。その声は、あなたの意識のある部分までは届いていても、あなたの人生全体を動かすまでには至っていないことがあるのです。

4. ルカ5:1-11:失敗のただ中に訪れる召し

本文をご紹介します。「群衆がイエスに押し寄せて神のことばを聞いていたとき、イエスはゲネサレ湖の岸に立っておられた。イエスは、岸に二そうの舟が置かれているのをご覧になった。漁師たちはそこから下りて、網を洗っていた。イエスはそのうちの一そう、シモンの持ち舟に乗り込み、彼に頼んで、岸から少し漕ぎ出してもらわれた。そして腰を下ろし、舟の中から群衆を教えられた。話し終えると、シモンに言われた。『深みに漕ぎ出し、網を下ろして漁をしなさい。』シモンは答えて言った。『先生、私たちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですので、網を下ろしてみましょう。』」(ルカ5:1-11)

その後の展開はよく知られています。網が破れそうになるほどの魚、沈みそうになる二そうの舟、そしてシモン・ペテロがイエスの膝元にひれ伏し、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言う場面。それに対するイエスの言葉。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」彼らは舟を岸につけ、すべてを捨ててイエスに従いました。

トアン・リー・ティン牧師が強調した細部に注目してください。イエスがシモンにこの召しを語られたのは、まさに彼の人生に実りがなかったその瞬間でした。一晩中漁をして、何もとれなかったのです。イエスがあえて彼を召されたのは、まさにその失敗の瞬間だったのです。

これは深く励まされることです。私たちは失敗すると、もう終わりだ、すべてを台無しにしてしまったと感じ、ただ身を隠したくなります。けれどもまさにそこで神はこう言われます。「あなたは今、私のことばを受け取り、あなたのために前もって備えられた良い業へと押し出される準備ができている。」

5. 実りは神から来る。自分の力からではない

この瞬間は、大切な真理を明らかにしています。神が前もって備えられた業は、あなた自身の力から出るものであってはなりません。それは、あなたの内にある神から出るものです。あなたの才能、あなたの力、あなたの助けは後からついてくるもの、神がなさっていることに仕えるためのものなのです。

シモンは一晩中、技術も経験も総動員して漁をし、それでも何もとれませんでした。イエスの言葉により、真昼という悪い時間に、深みという悪い場所で、網はあふれるほどの魚でいっぱいになりました。実りは約束のようにあふれ出ます。イエスと共に実らせる実りは、自分の力だけで実らせるものとはまったく比べものになりません。

私たちの失敗の瞬間は貴重です。そこで幻想が崩れ、思い上がりが暴かれ、心がむき出しになります。そしてようやく、私たちは一度も語ることをやめなかった神の声に耳を傾けられるようになるのです。

6. イエスの聖さがあなたの罪を明らかにする。それは悪い知らせではない

奇跡の漁を目の前にしたペテロの反応は、驚くべきものです。彼は喜びに躍り上がるのではありません。恐れに満たされ、震えながらひざまずきます。そしてもはやイエスを「先生」ではなく、「主」と呼びます。彼は今、主の前に、聖なる神の前に立っているのです。

彼が最初に目にしたのは、魚の量ではありません。自分の罪の量だったのです。

あなたが神に、自分の人生に介入してほしい、新しい勢いを与えてほしい、道を示してほしいと願うとき、神がまず最初になさることの一つは、あなたの心の真の姿を、神の前に見せてくださることです。罪は私たちの内に深く根を張っています。教会に通い、聖書を読んでいればなおさら、自分は大丈夫だと思いがちです。けれども、こうした神との真正面からの出会いは、私たちの心の本当の姿、つまり、これほどまでにみじめで、これほどまでに悪へと傾きやすい姿を見せてくれるのです。

そして、まさにそこで恵みはその輝きを最大限に放ちます。これほどまでにみじめな存在を前にして、イエス・キリストはこう言われます。「あなたを愛している。私と一緒に来てほしい。ありのままの姿で、私についてきなさい。私は十字架で死んだ。それは、この罪、このみじめさがすべて消え去り、私の血によって義とされたあなたを、神が完全に赦してくださるためだ。」

7. 「私についてきなさい」:クリスチャン生活のすべてを凝縮した二つの言葉

マタイ4:19マルコ1:17には、イエスの最後の言葉がこう記されています。「私についてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」ペテロへの本当の召し(そしてあなたへの召し)は、この二つの言葉に尽きます。私についてきなさい。

これはまさに、ペテロが裏切った後、彼を立て直すためにヨハネ21:19でイエスが再び語られる言葉と同じです。「私についてきなさい。」

トアン・リー・ティン牧師は、ナチス政権下でこの箇所を注解したドイツ人牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉を引用しました。「私についてきなさい。私の後ろを歩きなさい。それだけだ。それだけなのだ。彼の後ろを歩くこと。これはずいぶん内容に乏しく見える。プログラムではない。目指すべき目標や理想でもない。守るべき大義でもない。私についてきなさい。」ある人格に従うこと。これがクリスチャン生活の核心なのです。

これは、すべてを投げ捨てて山に隠遁するようなことではありません。心の優先順位の問題です。あなたを召される方を第一に置き、その方を主として認めることです。ペテロはイエスに仕え、自分の舟を貸していました。けれどもまだ、完全には従っていませんでした。私たちはクリスチャンでありながら、主が待っておられる場所へ本当には歩んでいないということがあり得るのです。

8. 今日のための三つの招き

メッセージの最後に、トアン・リー・ティン牧師は具体的な三つの道を示してくれました。

a) 神が「あなた自身」を召しておられると、ただ信じてください。神が人々を召しておられると信じることと、神が「あなた」を召しておられると信じることは、まったく別のことです。それは、神があなたが誰であるかを知っておられ、あなたが神にとってかけがえのない存在であり、あなたの人生に対する計画と具体的な目的をお持ちだからです。

b) 中間地帯にとどまらないでください。「自分が」正しいと判断する生活、つまり、教会に行っている、聖書を読んでいる、良い価値観を持っている、ということで満足しないでください。福音書を読むと、神の召しがどれほど大きく、力強く、素晴らしいものであるかが分かります。私たちはすばらしい人生へと召されています。あなたの過去がどうであれ、あなたの歴史がどうであれ、神はあなたの人生を、ご自身の栄光のためにすばらしいものへと変えることができます。もっと多くのものがあるのです。そして神は無理強いをなさらない方ですから、彼と共に前進すると決めるのは、あなた次第なのです。

c) 神を畏れてください。伝道者の書12:13はこう結んでいます。「神を恐れ、その命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」トアン・リー・ティン牧師はこれをこう言い換えます。「イエス、それがクリスチャンのすべてなのだ。」神を畏れることの中でこそ、高慢は退き、霊的な理解が開かれ、あなたの心は神の声を聞く用意ができるのです。

9. 「私についてきなさい。そうすれば『私』があなたを作り変えよう」:作るのは主ご自身

説教者の最後の指摘、そしておそらく最も解放的な言葉です。それは、自分の召しを自分の手で握りしめるということではありません。自分の力で誰かになろうとすることでもありません。

イエスはこう言われます。「私についてきなさい。そうすれば私があなたを作り変えよう。」あなたの中にシモンではなく、ペテロを見た私が。あなた自身よりもよく、あなたを作り変える私が。あなたの責任は、日々、誠実に、できる限り、彼に従い続けることです。あとのことは、彼がしてくださいます。

これは心の姿勢であり、人生における立ち位置です。あなたがそうするとき、道が開かれます。閉じる扉もあります。それは正しい扉ではなかったということです。しかし、本当の扉が開き、あなたは前進していくのです。

この点において、ペテロは驚くほど励みになる存在です。彼以上にひどいことはできません。主を三度も知らないと言ったのですから。それでもイエスは彼を立ち上がらせ、その召しへと完全に導かれました。あなたがふさわしい心の姿勢でいるなら、神があなたのために備えられた業に入るという召しを、あなたが逃すことはありません。

覚えておきたいポイント

  1. 神があなたを救うとき、神はあなたの人生全体を救いに来られます。そして、あなたが行うべき良い業を前もって備えてくださっています(エペソ2:10)。
  2. イエスはあなたが誰であるか、そしてあなたをどう作り変えられるかを見ておられます。シモンの向こうにあるペテロを見ておられるのです。
  3. イエスと親しく交わりながら、完全には従っていないことがあり得ます。その中間地帯は心地よいものですが、それはあなたへの召しではありません。
  4. 神はしばしば失敗の中で召してくださいます。網が空っぽになった瞬間こそ、あなたがようやく神の声を聞ける状態になった瞬間なのです。
  5. 実りは神から来るのであって、あなたの力から来るのではありません。あなたの才能はついてくるものであり、先導するものではありません。
  6. 「私についてきなさい」:クリスチャン生活を要約する二つの言葉です。従うのはプログラムではなく、一人の人格です。
  7. あなたを作り変えるのはイエスです。あなたの役割は従うこと。彼の役割は作り変えることです。

個人的な適用

神の前に少し時間をとって、正直に自分自身に問いかけてみてください。

  1. 私は本当に、神が「私自身」を、個人的に召しておられると信じているだろうか。それとも、その召しは他の誰かのためのものだと思っているだろうか。
  2. 私は今、イエスと親しく交わってはいても本当には従っていない、心地よい「中間地帯」に満足していないだろうか。
  3. 最近経験したどんな「失敗」を、神は新しい段階へと私を召すために用いようとしておられるだろうか。
  4. 神の声に耳を傾けるのではなく、自分自身の力で行っている業とは何だろうか。
  5. 今週、具体的に、彼の前を歩くのではなく彼の後ろを歩くとは、どういうことだろうか。

引用された聖書箇所

  • ルカ 5:1-11 ・ 奇跡の漁とペテロの召命(メッセージの中心となる箇所)。
  • ヨハネ 1:42 ・ イエスがシモンを見つめ、ペテロと名付けられる。
  • エペソ 2:10 ・ 前もって備えられた良い業。
  • マタイ 4:19マルコ 1:17 ・ 「私についてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
  • ヨハネ 21:19 ・ イエスがペテロを立て直される。「私についてきなさい。」
  • マタイ 16:18 ・ 「あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。」
  • 詩篇 23篇 ・ 自分の声で羊たちを導かれる良い羊飼い。
  • 詩篇 139篇 ・ 神は私たちを、母の胎の奥にいたときから見ておられる。
  • ヨハネ 2:25 ・ イエスは「人のうちにあるものを知っておられた」。
  • 第二コリント 4:6 ・ 神は私たちの心の中に光を輝かせてくださる。
  • 伝道者の書 12:13 ・ 「神を恐れ…これが人間にとってすべてである。」

よくある質問

人生のどんな瞬間に、イエスは私を召してくださるのでしょうか。

トアン・リー・ティン牧師によれば、それはまさに失敗の瞬間、あなたの網が空っぽに感じられ、何もうまくいっていないと感じるときであることが多いのです。シモン・ペテロは一晩中漁をして何もとれませんでした。イエスが彼を召されたのは、まさにその朝でした。私たちの失敗は幻想を崩し、心をあらわにし、私たちをようやく神の声に耳を傾けられる状態にしてくれるのです。

教会に通い、聖書を読んでいれば、本当にイエスに従っていると言えるのでしょうか。

必ずしもそうとは限りません。イエスに親しく交わり、仕え、クリスチャンとして生活していながら、心の奥底では本当に従っていないということがあり得ます。ペテロはイエスを家に迎え入れ、その奇跡を目にしていましたが、それでも本当にすべてを捨てて従うまでには至っていませんでした。「私についてきなさい」という召しは、心の優先順位を問うものです。イエスを主として認め、その後ろを歩き、心地よい中間地帯に満足するのではなく、自分の人生を彼に導いていただくことです。

自分がイエスの後ろを歩いているのか、それとも前を歩いているのか、どう見分ければよいのでしょうか。

説教者は一つの簡単な手がかりを示してくれます。それは、本当の実りはあなたの内にある神から来るのであって、あなた自身の力から来るのではない、ということです。もしあなたが一人で生み出せるものとは比べものにならないほどの実りを結んでいるなら、もしあなたの才能が、あなた自身を動かす原動力としてではなく、神がなさっていることに仕える形で用いられているなら、あなたは彼の後ろを歩いています。イエスはこう言われます。「私についてきなさい。そうすれば私があなたを作り変えよう。」あなたの役割は、日々、誠実に従い続けること。彼の役割は、作り変えることです。

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