聖書 — 口語訳 (1955)

マタイによる福音書 23

概要

マタイによる福音書23章は、神殿で語られたイエスの最も厳しい教えです。イエスは、律法学者とパリサイ人の教えには耳を傾けても、その行いにはならわないようにと告げ、高ぶりと名誉を求める心を戒め、正義とあわれみと忠実をおろそかにする見せかけの宗教に七つのわざわいを宣告されます。しかし章は怒りでは終わりません。イエスはエルサレムのために嘆き、めんどりがひなを集めるように、その子らを集めようとされたと語られます。

この章の5つの区分

  1. 1-12節彼らにならうな:宗教的な高ぶりと、仕える人という偉大さ
  2. 13-22節最初のわざわい:天国を閉ざすこと、そして誤った誓い
  3. 23-28節正義のない十分の一献金、外側だけきよい杯
  4. 29-36節預言者たちの墓と、責任の重さ
  5. 37-39節エルサレムへのイエスの嘆き

1そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、

2「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。

3だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。

4また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。

5そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、

6また、宴会の上座、会堂の上席を好み、

7広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。

8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。

9また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。

10また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。

11そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。

12だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。

13偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。

14〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕

15偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

16盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。

17愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。

18また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。

19盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。

20祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。

21神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。

22また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。

23偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

24盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。

25偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。

26盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。

27偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。

28このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。

29偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、

30『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。

31このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。

32あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。

33へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。

34それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。

35こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。

36よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。

37ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

38見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。

39わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』 とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。

鍵となる聖句

11節
そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。

イエスは偉大さの考え方を逆転させます。御国で最も高い座にいるのは、仕える人です。この一節は、教え全体に対するもう一つの視点を与えています。

23節
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

イエスは十分の一献金を責めているのではありません。責めているのは、もっと重要なもの、つまり公平とあわれみと忠実を見のがしていることです。宗教的な実践は、心の代わりにはなりません。

27-28節
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。

白く塗った墓のたとえは、美しい外見が空虚な内面を隠す危うさを語ります。非難の的は、人に見せる姿と実際の姿との隔たりです。

37節
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

厳しさのあとに、やさしい嘆きが続きます。イエスはご自分を、ひなを集めようとするめんどりにたとえられます。拒んだのは人々であり、イエスの愛が足りなかったからではありません。

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説教が語っていること

神が求める男性像:支配者ではなく仕える指導者、家族の拠り所としてサミュエル・ペーターシュミットは11節をもとに、聖書の語る指導者とは支配する人ではなく仕える人だと語ります。父の日の礼拝で男性たちに向けられたこのメッセージは、神のかたちに造られた者としてのアイデンティティを取り戻すよう呼びかけます。要約を読む →神は私たちにとって母のような方でもあるジャン=リュック・メンションは37節、ひなを集めるめんどりを、神の心を表すために聖書が用いる母のイメージの一つとして引用します。ただし、神を私たちの母と呼ぶという意味ではなく、神はあくまで父であると説明します。要約を読む →献金・捧げ物・十分の一 ― 喜びと自由をもって捧げるこのメッセージは、マタイ23章23節を、新約聖書に数少ない十分の一献金への言及として取り上げ、それが教会の規則の根拠にはならないと説明します。義務からではなく、喜びと自由をもって捧げるよう招いています。要約を読む →見せかけの信仰か、心の信仰か(マタイ5章20節)ユーグ・ウェッセルは、パリサイ人が冷笑的な偽善者ではなく、誠実で真面目で熱心な人々だったことを思い起こさせます。マタイ5章20節と結びつけながら、見せかけの義と心からの義を分けるものは何かを問いかけます。要約を読む →マタイ5章17〜20節:イエス様が律法を成就される山上の説教のシリーズの中で、ユーグ・ウェッセルは、当時は信仰の模範だった「パリサイ人」がなぜ侮辱の言葉になったのかを説明します。イエスは、変えられた心から生まれる義へと招いておられると示します。要約を読む →

マタイによる福音書23章についてよくある質問

なぜイエスはマタイ23章でパリサイ人にこれほど厳しいのですか

イエスは、彼らの真面目さや聖書の知識を責めているのではありません。責めているのは、語ることと生きることとの隔たり、認められたいという渇き、そして正義とあわれみを見のがしていることです。その厳しさは、押しつぶされている人々を守る羊飼いのものであり、すべての信者への警告でもあります。

マタイ23章の七つのわざわいとは何ですか

律法学者とパリサイ人に向けて、「わざわいである」で始まる七つの警告です。天国を人々に閉ざすこと、害をなす改宗者づくり、ゆがめられた誓い、正義のない十分の一献金、内側のきよさのない外側のきよめ、白く塗った墓、そして生きている者を拒みながら死んだ預言者を敬うことが取り上げられています。

いちばん偉い者が仕える人であるとはどういう意味ですか

イエスは、偉大さを地位ではなく奉仕によって定義されます。肩書きや上席や名声は、御国では価値を持ちません。仕えるために自分を低くする者を、神は高くしてくださいます。イエスご自身がこの原則を生きられました。

37節のエルサレムへのイエスの嘆きはどういう意味ですか

イエスは痛みと願いの両方を表しておられます。めんどりがひなを守るように、エルサレムの人々を集めようとされたのに、彼らは応じようとしませんでした。ここには、粘り強く求めるやさしい神と、愛の欠如からではなく、自由な拒否から生じるさばきが示されています。

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