サムエル記上17章:ダビデはゴリアテのために来たのではなかった

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はじめに

ダビデとゴリアテの物語は、だれもが知っています。クリスチャンであっても、無神論者、イスラム教徒、仏教徒であっても、この物語は一つの表現になりました。スポーツでもビジネスでも政治でも、小さな者が大きな者に立ち向かうたびに、「まるでダビデ対ゴリアテだ」と言います。思い浮かぶのは、若い羊飼い、五つの石、そして石投げ紐です。

Église Momentum のPatrice Martorano牧師は、あえて別のところに目を向けます。このメッセージは、神の家族に仕えることをテーマにしたシリーズの第2回で、第1回はイエスが弟子たちの足を洗う話でした。牧師が注目するのは、巨人が倒れたことではなく、何がダビデを巨人の前に立たせたのかという点です。その朝、ダビデはいつもの朝と同じように起きました。夕方には自分がゴリアテと戦うことになるとは、知りませんでした。兄たちにパンとチーズを届けに出かけただけだったのです。

そこから、メッセージのタイトル「ダビデはゴリアテのために来たのではなかった」が生まれました。そして牧師の確信はこうです。「神は、まったく平凡に見える奉仕を通して、驚くべき扉を開かれることがあります。」

メッセージの流れ

1. 小さな始まりを軽んじないでください

  • サウルは良い王ではなく、神は彼を退けます。神はサムエルに、サウルのために嘆くのをやめ、ベツレヘムのエッサイの家へ行くように言われます。神がその息子の一人を選んでおられたからです。
  • 兄たちが次々に通ります。サムエルはエリアブが選ばれた者に違いないと思いますが、神は彼をたしなめます。人は目に映るものを見るが、主は心を見られる、と(サムエル記上16:7)。
  • 残っているのは末の子で、羊の番をしています。サムエルは、その子が来るまで席につこうとしません。ダビデは兄たちの真ん中で油を注がれ、主の霊が彼に激しく下りました(サムエル記上16:11-13)。
  • 油注ぎのあとに、記者会見はありません。牧師は、サッカーのフランス代表の監督がディディエ・デシャンからジネディーヌ・ジダンに代わったときの、大きな記者会見を例に挙げます。ダビデは「組織図」や職務内容の見直しを求めたりしません。羊の世話に戻り、神が扉を開いてくださるのを待ちます。
  • ある日、エッサイはダビデにエラの谷の陣営へ行くように頼みます。「あなたの兄たちのために、このいり麦一エパと、このパン十個を取って、急いで陣営にいるあなたの兄たちのところへ持って行きなさい。またこのチーズ十個を千人隊の長に持って行きなさい」(サムエル記上17:17-18)。
  • 牧師はダビデの反応を想像します。「ぼくは油を注がれたはずなのに」と思いながら、「宅配サービスの配達員」のように扱われるのです。それでもダビデは従います。そして出かける前に、羊を番人に預けました(サムエル記上17:20)。今の責任をおろそかにしなかったのです。
  • 「ダビデは、冠をかぶるまで待ってから忠実になったのではありません。」神は小さなことを任せ、より大きなことを任せる前に、私たちが忠実かどうかを見ておられます。
  • 「私は歌えない、説教できない、チームを導けない」と言う人に、牧師はこう語ります。「巨人を倒すことを夢見るあまり、自分が運べるパンを軽んじてはいけません。」そしてユーモアを込めて、「あなたのチーズを馬鹿にしないでください。いいチーズですよ」と言います。

2. あなたの奉仕は、思っているよりずっと遠くまで届きます

  • ダビデはベツレヘムからエラの谷まで走り、荷物を荷物番に預けて、陣営に近づきます(サムエル記上17:22)。一方にはイスラエルの軍、もう一方にはペリシテ人がいます。
  • ゴリアテが隊列から出てきて、神の民に挑みます。兵士たちは恐れて後ずさりします。それは四十日も続いていました(サムエル記上17:16)。当時は、大きな殺し合いをする代わりに、両軍から一人ずつ代表が戦い、その勝敗が民全体の勝敗になりました。だれも名乗り出ようとしません。
  • ダビデには訓練も装備も剣もありません。しかしゴリアテが生ける神の軍に挑むのを聞いて、こう問いかけます。「この割礼を受けないペリシテ人は何者なので、生ける神の軍をなぶるのか」(サムエル記上17:26)。
  • ダビデは、家族の必要に応えるために、わずかなものを手にしてやって来ました。そこで兄たちに仕えているうちに、その枠をはるかに超えるものを目にするのです。
  • 牧師は自分自身にも当てはめます。神の民に「パンとチーズ」を届けるためにメッセージを準備します。すると、死からいのちへ移される人がいたり、破綻寸前の夫婦が回復したり、神が癒やしてくださる病の人がいたりするのです。
  • 受付では、握手をして挨拶をしているつもりかもしれません。けれども、入ってくる家族がどんな状態でいるのか、温かい迎え方がどれほど大切なのかは、あなたにはわかりません。カメラ担当や映像のスタッフも自分の「パンのかけら」を持ち寄り、その映像は、だれも行けない場所、ときには全体主義体制の下にまで届いています。
  • Momentum Junior では、子どもたちの心に神の思いの種をまいています。祈りのひとときに、「主よ、この子を祝福してください」と言っているだけのつもりでも、その祈りの背後で鎖や障害が崩れ落ちています。
  • 「あなたは、一つの作業をこなすつもりで奉仕に入ったのに、自分よりも大きな使命に加わっていたと気づくことがあります。」その朝、羊を預け、父から渡されたものを手にしたとき、ダビデは、その夜床につくころに自分の人生が変えられているなど、まったく思ってもいませんでした。

3. もっと持てるようになるまで待たずに、今あるものを差し出してください

  • ダビデは、勝った者への報酬は何かと尋ねます。大きな富、父の家の免税、そして王の娘との結婚です(サムエル記上17:25)。社会的な地位が大きく変わるものでした。
  • 兄のエリアブ、サムエルが油を注ごうと思った兄は、それを聞いて怒ります。「なぜ下って来たのか。野にいるあの数少ない羊をだれに預けてきたのか」(サムエル記上17:28)。つまり、「ここで何をしているんだ」ということです。
  • 外からの心ない言葉は、やがて聞き流せるようになります。しかし、兄弟たちのために仕えている最中に、その兄弟から言われると、心が痛みます。
  • 牧師は、奉仕している人たちのことを思います。朝7時に受付に来て、「好きな席に座りますから」と言われる人。子どもたちの世話をして、親からきつい言葉をかけられる人。「クリスチャンは優しいものだ」と言いますが、パンとチーズを運んでくれる人に優しくしたいものです。
  • 次にサウルが登場します。牧師によれば15、6歳ほどのこの少年は、サウルの前に出ます。サウルは言います。「あなたはこのペリシテ人の所へ行って、彼と戦うことはできない。あなたは少年だが、彼は若い時からの軍人だ」(サムエル記上17:33)。
  • 一方には「おまえの来るところではない」、もう一方には「おまえには力がない」という声があります。神のために何かしようとするとき、よく耳にするのがこの二つの言葉です。ときには自分で自分に言い聞かせます。「書いたり、作曲したり、医療に携わったりしたいなんて、何様のつもりだ」と。
  • この騒音を黙らせるよう、牧師は呼びかけます。私たちを召された方は真実な方であり、その方が成し遂げてくださいます。これらの声に耳を傾けることは、座り込むことです。ところが Église Momentum のある原則によれば、「いのちは動きの中にあり、動きを止めることは死である」のです。
  • 羊からパンとチーズへ、そしてパンとチーズからゴリアテへと、ダビデは進みました。羊の世話をしていなければ、巨人の前に立つことは決してなかったでしょう。「神にとって、小さなことは何一つありません。」

4. だれかのコピーになる必要はありません

  • サウルは、羊飼いの身なりをした少年が、槍と盾と剣で武装した巨人に向かうのを見ます。そして自分の鎧を貸そうとします。しかし本来、行くべきだったのは王であるサウル自身です。
  • ダビデは鎧を着てみますが、重い剣と盾に動きづらくなり、脱いでしまいます(サムエル記上17:38-39)。牧師は、その場面を見てみたかったと言います。「きっとおかしかったでしょうね。」
  • 「ダビデは、神に用いられるためにサウルのコピーになる必要はありませんでした。」あなたも、隣で奉仕している人のコピーになる必要はありません。
  • 私たちは人と自分を比べ、しかもいつも一番優れた人と比べます。そして、自分にはあの鎧もあの力もないと思い込み、動けなくなります。
  • 神に仕えるために、歌ったり、説教したり、大きなチームを導いたりする必要はありません。「ただ、神が求めておられることを、あなたのままで行ってください。」

5. 動機についての注意

  • 牧師は、言いたくないことをはっきり述べます。「パンとチーズの世話をすれば、今夜神があなたを王にしてくださる」という意味ではないのです。それは、金持ちになるために神に献げるのと同じことになってしまいます。
  • 「私たちが何かをするのは、ただ従順のゆえです。」神は神を敬う者を敬われると信じていますが、私たちが仕えるのは従順のゆえです。
  • 牧師のメッセージは、「小さな仕事を大事にすれば、いつか私の後を継げる」というものではありません。ただ、平凡に見えることを軽んじてはいけない、神はそれを用いられるから、と語っているのです。
  • ある人にとって、この奉仕は生涯の働きになるでしょう。別の人にとっては、次の働きへ進むための一つの段階になるでしょう。どちらの場合も、しもべの心で仕えるのです。

6. 偉大さは、受けるものではなく、与えるもので測られます

  • ゴリアテはダビデを見下して言います。「わたしは犬であろうか」(サムエル記上17:43)。ダビデは答えます。「あなたは、つるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かって来るが、わたしは万軍の主の名、すなわち、あなたがののしったイスラエルの軍の神の名によって、あなたに立ち向かう」(サムエル記上17:45)。
  • ダビデは、小川で拾った五つの石のうちの一つを投げます。牧師は、これは自分の解釈だと断ったうえで語ります。自分の力に自信のあるゴリアテは盾を上げることもできたはずなのに、この小石を真剣に受け止めませんでした。その背後に「神の指があった」ことを知らなかったのです。ゴリアテは倒れました。
  • 「兄たちのためにパンを持って来た少年が、一つの国民全体を救い出す道具となりました。」
  • 何が偉大さを生むのでしょうか。地位でしょうか。肩書きでしょうか。ついて来る人の数でしょうか。イエスはこう答えられます。「あなたがたの中で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり」(マルコによる福音書10:43)。偉くなりたいと願うことは、神の国の心をもっているなら、すばらしい願いです。
  • 「神の国では、奉仕は偉大さへの道であるだけではありません。奉仕は偉大さの一部なのです。」
  • イエスは、神と等しくあることを固守すべきものとは思わず、自分を空しくされました(ピリピ人への手紙2:6-7)。家畜小屋でお生まれになり、手ぬぐいを取って弟子たちの足を洗われました。その中には、ユダの足も、自分を知らないと言おうとしていたペテロの足もありました。それゆえ神は、すべての名にまさる名を、イエスに与えられたのです(ピリピ人への手紙2:9-10)。
  • ダビデはパンを届けに来ました。イエスはご自分のいのちを与えに来られました。「人生で何か大きなことをしたいですか。まず、あなたの人生がだれかの祝福になるにはどうしたらよいかを探すことから始めてください。」

7. 届けるべきパンは、まだあります

  • ダビデは、その日がどう終わるのか知りませんでした。計算はありませんでした。「私は従い、動き出し、物語の続きは神に信頼する。」
  • 神の計画は、私たちの理解を超えています。牧師はモーセの例を挙げます。神は、赤ん坊を殺せと命じる人の家へ、かごに入れた赤ん坊を送られました(出エジプト記2章)。
  • 多くの人が、「神のゴーサインを待っています」「神が扉を開いてくださるのを待っています」と言います。ダビデは、頼まれたことを行いました。動き出せば、扉を開けてくださるのは神だと知っていたからです。
  • 大きな教会なら隠れていられると考えるのは、間違った計算です。教会が大きくなるほど、必要も増えるからです。牧師によると、世界の教会では、時間や献金を捧げているのはおよそ3分の1で、3分の2は教会を「消費」しています。
  • 牧師は、だれもが「私のパンのかけらを持って来ます」と言うように招きます。それが小さなものに思えても構いません。ただし、すでに多くの奉仕を抱えて手一杯の人には、賢くあって、これ以上増やさないようにと願っています。
  • 「ゴリアテが倒れたのは、あの少年がパンを持って来たからです。それを決して忘れないでください。」

要点

  • ダビデはゴリアテのために来たのではなく、兄たちにパンを届けに来ました。神は、平凡な奉仕を通して、驚くべき扉を開かれることがあります。
  • ダビデは、冠をかぶるまで待ってから忠実になったのではありません。神は、大きなことを任せる前に、小さなことを任せられます。
  • 「おまえの来るところではない」「おまえには力がない」という声に、座り込まされてはいけません。あなたを召された方は真実な方です。
  • だれかの鎧は要りません。計算ではなく従順から、あなたのままで仕えてください。
  • 神の国では、仕えることは偉大さの一部です。仕えるため、そしてご自分のいのちを与えるために来られたイエスの姿に倣うことです。

自分への適用

  1. 今日のあなたの「パンのかけら」は何ですか。小さすぎて意味がないと思っている奉仕はありませんか。
  2. ダビデと羊のように、より大きなことを夢見るあまり、今の責任をおろそかにしていませんか。
  3. 「おまえの来るところではない」と「おまえには力がない」のうち、あなたがより多く耳にするのはどちらの声ですか。
  4. だれと自分を比べて、仕える勇気を失っていますか。他の人の鎧のうち、どれを脱ぐことができますか。
  5. 教会の受付や、自分の子どもたちのそばで仕えてくれる人たちを、あなたはどのように迎えていますか。

引用された聖句

よくある質問

なぜダビデはゴリアテの前に立つことになったのですか。

ダビデは戦うために来たのではありません。父エッサイが、兄たちにいり麦とパン十個を、千人隊の長にはチーズ十個を届けるよう、陣営へ送り出したのです(サムエル記上17:17-18)。Patrice Martorano牧師にとって、ゴリアテとの対決は、ダビデがその直前に行ったこと、つまり従順をもって果たした平凡な奉仕の結果です。

神に引き上げていただくために、教会で奉仕する必要がありますか。

いいえ。説教者は、そのような動機に注意を促しています。それは、金持ちになるために神に献げるのと同じことになるからです。私たちが仕えるのは従順のゆえです。神は神を敬う者を敬われますが、メッセージの趣旨は「小さな仕事を大事にすれば、いつか私の後を継げる」ということではありません。ある人にとってこの奉仕は生涯の働きになり、別の人にとっては次の働きへ進む一つの段階になります。

マルコ10章によれば、偉大さとは何ですか。

イエスは言われます。「あなたがたの中で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり」(マルコによる福音書10:43)。Patrice Martorano牧師は、神の国では、奉仕は偉大さへの道であるだけでなく、偉大さの一部であると強調します。人の子であるイエスは、仕えられるためではなく、仕えるために、そして多くの人のためにご自分のいのちを与えるために来られました。

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