マタイ9章:赦しから収穫へ、イエスはあなたを招いておられる

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はじめに

「イエスはなぜ地上に来られたのでしょうか」。クリスチャンにとってはごく基本的なこの問いが、ここ数週間、ファビアン・ボット(Fabien Bottes)牧師の心にずっとありました。10月25日の日曜礼拝で、Église Protestante Évangélique de Marcinelle の会衆にこの問いを投げかけました。多くの人はこう答えるでしょう。罪から私たちを救うためです、と。「それは素晴らしい答えです。説教はこれで終わりです」。

けれども掘り下げていくうちに、もうひとつの問いが浮かびました。イエスは、ご自分が救った人々をどうしたいのでしょうか。赦しを受けることはイエスとの出会いのゴールであり、その後は再臨を待ちながら好きなように生きればよいのでしょうか。それとも、まったく新しい人生の始まりなのでしょうか。

説教者は、マタイの福音書9章の、中風の人の記事から10章の初めまでを順にたどります。イエスは罪人を赦すだけでは終わりません。ご自分に従うよう招き、ご自身のわざに加わらせてくださいます。ここからメッセージの題「赦しから収穫へ」が生まれました。

メッセージの流れ

1. イエスはなぜ来られたのか

  • マタイは読者を焦らしません。最初の章から、御使いはヨセフにこう告げます。「その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をその罪から救う者となるからである」(マタイ1:21)。
  • 福音書の終わり近くでも、同じことが語られています。人の子は「仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人のあがないとして、自分の命を与えるために来た」のです(マタイ20:28)。
  • 説教者は、陥りがちな誘惑を戯画的に描きます。「イエスに出会って、救われた、よかった。あとは主が来られるのを待つだけ。それまでは好きなことをして、ビーチに行って、楽しく過ごそう」。
  • 救われるとは、罪の赦しを受けることだけではありません。私たちを丸ごと捉え、人生のすべてにかかわることです。

2. 行動する信仰:中風の人の友人たち

  • 何人かの人が、床に寝たままの中風の人をイエスのもとに連れて来ます(マタイ9:1-8)。ここまでは特別なことではありません。イエスはすでに癒やしで知られていました。
  • それでもマタイは、ある一点に目を向けさせます。「その人々の信仰を見て」。彼らは友人を癒やすことはできませんが、それができる方を知っていました。
  • 信仰は、「自分だけの問題」である内面的な確信にとどまりません。行動へと導きます。彼らにはこの人に必要なことを成し遂げる力はありませんが、それができる方のもとへ連れて行くことはできます。
  • イエスがこの人たちを見たとき、彼らは言葉と行いが一致していました。では、イエスがあなたの日常、試練、大きな決断を見られるとき、何が見えるでしょうか。主への信頼に基づく決断でしょうか。それとも、自分の力に頼った決断でしょうか。

3. 思いがけない、優しさに満ちた赦し

  • もっとも驚くべきなのは、友人たちの信仰ではなく、イエスの答えです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」。
  • 9章に入るまでの6つの章で、マタイはイエスの権威を示してきました。ギリシア語で「エクスーシア」といい、「権威というより力そのもの」です。病も悪霊も、嵐さえもイエスに従います。
  • 説教者はひとつの例えを挙げます。「ドナルド・トランプがシャルルロワにやって来たと想像してみてください」。好きか嫌いかは別として、彼は大きな力を持つ人物です。警備は最高レベルになり、「普通の市民」は近づくことさえできないでしょう。ところがイエスは、当時の社会で歓迎されなかった中風の人が近づくのを許されます。「あなたには私に会う資格がない」とは言わず、「子よ、元気を出しなさい」と言われるのです。
  • これほど明らかな必要があるのに、なぜ赦しから始めるのでしょうか。それが、イエスが来られた理由だからです。イエスは世の苦しみをすべて取り除くために来られたのではありません。イエスの舟に乗ったからといって嵐がなくなるわけではなく、使徒たちも殉教しました。
  • イエスは苦しみを見て、その憐れみから癒やしにも動かされます。しかし、中風の人を中風という状態だけに還元することはありません。「この人は救うべき魂、招くべき魂なのです」。
  • あなたも同じです。試練があまりに大きな場所を占めて、それしか見えなくなり、自分のアイデンティティがその問題に縮まってしまうことがあります。イエスはそれを見て、よくご存じですが、あなたをそれだけに閉じ込めはしません。「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)。

4. 見える癒やしが示す、見えない現実

  • 律法学者たちは心の中で思います。「この人は神を汚している」。彼らがつまずいたのは赦しそのものではなく、神だけに属する権威をイエスが自分のものとされたことでした。
  • イザヤ書43:25で神はこう言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのとがをぬぐい、あなたの罪を心にとめない」。赦すことによって、イエスはこの言葉をご自分のものとされました。律法学者たちもまた筋が通っています。この人は何者で、自分を神だと言うのか、というわけです。
  • 「どちらが言いやすいか」。「あなたの罪はゆるされた」と言っても、何かが起きた証拠はありません。人々の前で中風の人に「起きて歩きなさい」と言うほうが、はるかに危険です。もし起き上がらなければ、イエスはいかさま師になってしまいます。
  • 中風の人は起き上がり、寝床を取り上げて、家に帰って行きます。イエスは、見えない現実を証しするために、見える癒やしを行われました。罪を赦す権威を、確かに持っておられるのです。
  • イエスの目的は、群衆を驚かせることでも、「見せびらかす」ことでもありませんでした。恵みを必要としていた一人の人に恵みを施されたのです。パニックになった弟子たちのために嵐を静められたのと同じです。「イエスは、ご自分に何ができるかを見せるために地上に来られたのではありません。罪人を救うために来られたのです」。
  • 9章で赦しを告げる方は、26章でいのちを与えられる方であり、その血は罪の赦しのために流されます(マタイ26:28)。イエスは最後まで行かれ、代価を払うことさえされました。

5. 思いがけない招き:「わたしに従って来なさい」

  • 今度は、人がイエスのもとに連れて来られるのではありません。イエスのほうから出向かれます。税関に座っているマタイを見て、「わたしに従って来なさい」と言われます(マタイ9:9)。
  • 取税人の仕事は軽蔑されていました。不正や、民から搾り取って私腹を肥やすことと結びつけられていたからです。信仰に厚い多くのユダヤ人にとって、彼らは汚れた、避けるべき人々でした。
  • 通常、ラビに従いたい人は自分から願い出て、ラビがそれを受け入れるか断るかを決めました。ここでは、マタイは何も願い出ていません。「お試し期間なんて見当たりません。イエスがマタイに有期契約を結ばせたなんて、どこにも書いてありません」。
  • イエスは、マタイがふさわしい人になるのも、有能になるのも待ちませんでした。「泥の中」にいる彼をそこで見て、招かれたのです。マタイの回心の証しは、わずかな言葉に尽きます。彼は立ち上がって、イエスに従ったのです。
  • この短い応答が、彼の人生にまったく新しい方向を与えました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)。
  • ルカは、レビが自分の家でイエスのために盛大な宴会を開いたと伝えています(ルカ5:29)。富を求めていた人が、今は自分と同じような人々に家を開き、自分の人生でイエスに栄光を帰そうとしているのです。

6. 罪人たちの食卓にいる医者

  • パリサイ人たちは尋ねます。「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人たちと食事を共にするのか」。彼らは両者をひとまとめにしています。
  • イエスは答えられます。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」(マタイ9:12)。イエスが彼らの食卓に行かれるのは、その罪が取るに足りないからではありません。むしろ罪が重く、この人々が死に向かっているからです。
  • 「病人に近づかない医者は、何の役にも立たない医者です。その診察室はがらんとしています」。
  • イエスはホセア書6:6を引いて言われます。「『わたしがあわれみを好むのは、いけにえを好むからではない』とはどういう意味か、学んできなさい」。パリサイ人たちは、律法からその本質である愛を取り去っていました。神と隣人への愛がなければ、律法に従うことは無意味になります。
  • イエスは言われます。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。「救う」とだけでなく、「招く」と言われました。招きは赦しを通ってなされますが、赦しで終わりません。
  • 「恵みとは、私たちの過去を消すことだけではありません。イエスに従う新しい人生を開いてくださるのです」。イエスは、まず自分にふさわしい者になりなさいとは言われません。これからはご自分の後ろを歩むようにと、私たちを招かれるのです。
  • 最初の弟子たちには、こう言われました。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)。「あなたがたを〜にしてあげよう」。イエスは彼らを造り変え、ご自身のわざに加わらせようとしておられます。

7. 私たちにかかわる収穫

  • マタイ9:35はイエスの働きをまとめています。町々村々を巡り、教え、御国の福音を宣べ伝え、病をいやされました。同じ言葉がマタイ4:23にもあります。その間にある山上の説教と奇跡は、イエスが権威をもって教え、行動されることを示しています。
  • そこでマタイは、イエスの心を見せます。羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆を見て、イエスは深く憐れまれました。ギリシア語では「はらわたがちぎれる」ほどの思いです。イエスは群衆をひとかたまりとしては見ず、一人ひとりを見ておられます。
  • そしてイエスは弟子たちのほうを向かれます。「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出してくださるようにしなさい」(マタイ9:37-38)。人々の苦しみを前にして、イエスは問題だけを見ているのではなく、成し遂げるべきわざを見ておられます。
  • ヨーロッパでは伝道が難しい、とよく言われます。しかしイエスは、収穫は多いと言われます。これは私たちの収穫ではありません。芽を出させてくださるのは神であり、私たちの務めは熟したものを刈り取ることです。足りないのは働き人です。
  • 10章では、働き人のために祈るはずだった人々こそ、イエスが権威を授けて遣わす人々です。天の御国が近づいたと宣べ伝えるためです(マタイ10:1-7)。イエスに従うよう招かれた人々は、その使命にあずかるよう招かれています。
  • 福音書の終わりでは、赦す権威をお持ちの方が、天においても地においても一切の権威を授けられ、弟子たちをすべての国民のもとへ遣わして、人々を弟子にさせます(マタイ28:18-20)。
  • 弟子を作るとは、「路上でチラシを配って、イエスはあなたを愛しています、ではさようなら、次の人へ」ということではありません。ひとりの人に責任をもってかかわり続ける歩みです。
  • 「私たちは、救いに値する者となるために収穫の中で働くのではありません。けれども、私たちの救いは、収穫の中で果たすべき働きと深く結びついています」。みなが伝道者になるわけではなくても、私たちはみな地の塩、世の光です(マタイ5:13-14)。「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)。

押さえておきたいポイント

  • イエスは、ご自分の民をその罪から救うために来られました。しかし赦しは終着点ではなく、イエスに従う新しい人生の始まりです。
  • 信仰は内面的な確信だけではありません。私たちの決断に表れ、ほかの人をイエスのもとへ連れて行くよう私たちを動かします。
  • イエスは、あなたをあなたの試練だけで見てはおられません。試練を見て、心を配ってくださいますが、あなたを救うべき魂、招くべき魂として見てくださいます。
  • イエスは、あなたがふさわしくなるのを待って招かれるのではありません。あなたのほうへ来て、「わたしに従って来なさい」と言われます。
  • 収穫は豊かで、神のものです。足りないのは、身を差し出す働き人です。

自分に問いかけてみましょう

  1. 今週のあなたの決断をイエスが見られるとき、そこにはイエスへの信頼が見えるでしょうか。それとも、自分の力だけでしょうか。
  2. どんな試練が人生であまりに大きな場所を占め、自分をその試練を通してしか見られなくなっていますか。
  3. あなたは、イエスを知る前にいた場所である自分の「税関」に、また座り込んで、前に進めなくなってはいませんか。
  4. 同僚や隣人を見るとき、避けたい人として見ていますか。それとも、イエスが憐れみをもって見ておられる人として見ていますか。
  5. イエスの使命は、あなたの人生で実際にどれほどの位置を占めていますか。今週、だれのために自分の時間と心を開けますか。

引用された聖書箇所

よくある質問

なぜイエスは中風の人にまず「あなたの罪はゆるされた」と言われたのですか。

ファビアン・ボット牧師によれば、それこそイエスが地上に来られた理由、つまりご自分の民をその罪から救うことです(マタイ1:21)。イエスは中風という状態をよく見ておられ、その憐れみから癒やしにも動かされますが、まずもっとも深い必要にお答えになります。そのあとの目に見える癒やしが、見えない現実を証しします。イエスには罪を赦す力があるのです。

取税人マタイの召命は何を示していますか。

マタイは何も願い出ていませんでした。イエスのほうから彼のもとに来て「わたしに従って来なさい」と言われました。お試し期間もなく、彼がふさわしい者になるのを待つこともありませんでした。イエスは、罪人を救うだけでなく招くために来たと言われます。恵みは過去を消すことにとどまらず、イエスに従う新しい人生を開いてくれるのです。

「収穫は多いが、働き人が少ない」とはどういう意味ですか。

イエスは群衆を憐れみをもって見つめ、そこに豊かな収穫を見ておられます。足りないのは救われるべき人ではなく、その人々のもとへ行く働き人です。収穫は神のものであり、芽を出させてくださるのは神です。神は、熟したものを刈り取り、弟子を作るために、私たちが身を差し出すことを求めておられます。

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