マタイ22章:十字架に掛けられた二つの戒め

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はじめに

「理解するために問う質問もあれば、矛盾をあぶり出すために問う質問もあります。」Italo Benedetti 牧師(Chiesa Battista Napoli (via Foria))は、マタイの福音書22章34-46節の説教をこの言葉で始めます。

この箇所は、律法の専門家がイエスを試みようとして尋ねた質問、「どの戒めが大切ですか」で始まります。そして、イエスがパリサイ人たちに投げかけた質問、「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」で終わります。立場は逆転し、最後には誰もイエスにひと言も答えられなくなります。牧師は、この最初の質問と最後の質問のあいだに「福音のすべてがある」と語ります。

あなたはおそらく、二つの大切な戒めをご存じでしょう。このメッセージは別の問いを投げかけます。あなたはそれを生きることができますか。そして、もしできないのなら、あなたに代わってそれを生きたのは誰でしょうか。

メッセージの流れ

1. イスラエルの内側での議論

  • この場面は、イエスの地上の生涯の最後の日々、エルサレムで起こった出来事です。
  • けれども、マタイが福音書を書いたのは、紀元70年にローマ軍が神殿を破壊したあと、出来事から約40年がたってからです。読者は、大部分がユダヤ人出身の信者からなるキリスト教の共同体で、会堂(シナゴーグ)と激しく対立していました。そのため、やや厳しい言葉づかいが見られます。
  • マタイより前に書かれたマルコの福音書も同じ場面を伝えており、この律法学者を誠実な人として描いています。イエスは彼に「あなたは神の国から遠くない」と言われました。
  • ですから牧師によれば、ここにあるのは「キリスト教徒対ユダヤ人」の対立ではありません。「同じ聖書を愛する人々のあいだで」交わされた、イスラエルの内側での開かれた議論なのです。

2. 二つの戒めは、扉の二つの蝶番のように

  • イエスは、信仰あるユダヤ人が今も朝夕に唱える祈り、シェマ(「聞け、イスラエル」)の言葉で答えます。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」
  • イエスはそこにレビ記の言葉、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛さなければならない」を加え、これを同じ高さに置きます。一つは第一の戒め、もう一つは第二の戒めです。
  • イスラエルの他の教師たちも、これとよく似たことを教えていました。イエスは「何も新しく作り出していません」。忠実なユダヤ人として語っているのです。
  • それでもイエスはこう付け加えます。「これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている。」つまり、トーラーと旧約聖書のそれ以外の部分すべてです。聖書全体が、この二つの戒めにかかっているのです。
  • 「かかっている」と訳された動詞は、文字どおりには「吊り下がっている」という意味です。扉が開くためには二つの蝶番に吊られている必要があり、蝶番が外れれば扉は開かなくなります。「この二つの戒めを倒せば、律法全体が倒れてしまいます。」

3. 神はまず解放し、そのあとで命じられる

  • 牧師は、私たちがよく忘れてしまう点を指摘します。律法では、戒めが単独で与えられることは決してないのです。
  • シェマは「聞け、イスラエル」で始まります。十戒は「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した者である」で始まります。
  • レビ記では、隣人への愛は寄留者にも当てはめられます。「あなたはみずから愛するように彼を愛さなければならない。あなたがたもエジプトの国で他国人であったからである。」あなたがたは奴隷でしたが、もう奴隷ではありません。
  • 神は「さあ、あとは自分でやりなさい」と言って戒めを与えるのではありません。イスラエルの律法は、奴隷の肩に載せられた重荷ではありません。すでに解放された民が、自由であり続けるために与えられた言葉なのです。
  • 「わたしはあなたを解放する。そして、あなたが自由であり続けられるように、戒めを与える。」

4. 「だれの子なのか」

  • 今度はイエスがパリサイ人たちに質問します。答えは簡単で、彼らも知っています。キリストはダビデの子です。
  • するとイエスは、詩篇110篇を引用して問題を投げかけます。そこではダビデが語り、メシアを「わたしの主」と呼んでいます。「主はわたしの主に言われた、『わたしがあなたの敵をあなたの足もとに置くまでは、わたしの右に座していなさい』。」メシアは、どうして彼の子であると同時に、彼の主でもありうるのでしょうか。
  • イエスは、ご自分がダビデの子であることを否定してはいません。マタイは福音書の最初の一行から、イエスをそう呼んでいます。
  • しかしイエスは、ご自分がそれ以上の方であると語ります。神の右に座しておられる主なのです。

5. 問題は戒めではなく、私たち自身

  • なぜマタイは、一見すると異なるこの二つの場面を並べて置いたのでしょうか。それは、問題が戒めを知っているかどうかにあるのではないからです。
  • パリサイ人も律法学者も、戒めをよく知っていました。私たちも同じです。戒めが何であり、それが良いものであることを知っています。
  • 「心をつくして神を愛している人は、誰もいません。それが問題です。」自分を愛するように隣人を愛している人も、誰もいません。少しでも正直に自分の良心を見つめれば分かることです。そうすべきだと知っていながら、私たちはそうしないか、最後までしないか、いつもはしないのです。
  • では、神と隣人を本当に愛することができないまま生きている私たちは、どのようにして救われるのでしょうか。
  • 決定的な問いは、もはや「救われるために何をすべきか」ではありません。イエスが示す問いは、キリストとは誰か、イエスとは誰か、というものです。「あなたは、この問いに答えなければなりません。」

6. 十字架に掛けられた二つの戒め

  • 数章あとで、マタイはイエスが確かに神の右に着かれることを示します。ただし、まず十字架という狭い道を通ってです。退けられ、迫害され、最後には殺されるという道です。
  • 「十字架とは、イエスが心をつくして最後まで神を愛し、そのみこころを行われた姿にほかなりません。」イエスは祈りの中で言われました。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」
  • そして十字架とは、イエスがご自分よりも隣人を愛された姿にほかなりません。イエスを一人残して去る弟子たち、イエスを否定するペテロ、手を洗って責任を逃れるピラト、イエスを追い詰める最高法院、イエスを十字架につける兵士たち。イエスは、彼らを最後まで、いのちを与えるほどに愛されました。
  • 「律法がかかっている二つの大きな戒めは、実はどちらもイエスの十字架にかかっているのです。」二つの戒めは、十字架があるからこそ立っています。「これこそ良い知らせ、これこそ福音です。」
  • 神がイスラエルに律法を与える前にまず解放されたように、キリストにおいて神は、私たちが神を愛することができるようになる前に、まず私たちを愛してくださいました。
  • 大きな戒めは、まず、自分の力だけで果たすべき課題ではありません。それは「あなたに先立ち、あなたを先回りし、あなたの背後に立っている愛」であり、そこからあなたを支え、忠実さへと押し出してくれる愛なのです。

7. 神を愛し、隣人を愛し、決して二つを切り離さない

  • 神を愛しなさい。ただし、神の愛を勝ち取るためではなく、すでに神に愛されている者として愛しなさい。「思いをつくして」愛することも忘れないでください。「信仰は、あなたに頭のスイッチを切ることを求めません」。学び、聖書を読み、本当の問いを自分に投げかけ、神が本当にあなたに語りたいことに耳を傾けましょう。
  • 自分を愛するように隣人を愛しなさい。つまり、自分に逆らってではありません。自分を軽んじ、自分を愛することを知らない人は、隣人を本当に愛するのに苦労するでしょう。
  • 隣人は、考えでも概念でもありません。生身の人であり、ありのままに愛すべき人です。日曜日にあなたの隣に座る人、家で一緒に暮らす人、そしてあなたを傷つけた人もそうです。あなたの近くに住む外国人もそうです。あなた自身も、かつては外国人だったことを思い出してください。その人を、神に愛されている人として愛しなさい。
  • この二つの愛を決して切り離してはいけません。それは同じコインの表と裏です。兄弟姉妹が目に入らない神への愛は、空虚な信心になります。神に根ざさない隣人愛は、もろくなり、疲れ、やがて消えてしまいます。「私たちの愛は生まれては終わりますが、神の愛は終わらないからです。」
  • 「その日から後は、あえて質問する者もなくなった。」その日は沈黙の日となり、それはシェマの「聞け、イスラエル」と響き合います。神の前で、最後の言葉を語るのはあなたではありません。ですから何よりもまず耳を傾け、聞いたうえで愛しましょう。「語るだけで満足してはいけません。それでは何の役にも立ちません。」

覚えておきたいポイント

  • 律法全体と預言者は、扉が二つの蝶番にかかっているように、二つの戒めにかかっています。神を愛することと、隣人を愛することです。
  • 聖書では、神はまず解放し、そのあとで戒めを与えられます。それは、神の民が自由であり続けるためです。
  • 問題は戒めを知っていることではなく、それを生きることです。神と隣人を、本来そうあるべきように愛している人は誰もいません。
  • 本当の問いは「何をすべきか」ではなく、「イエスとは誰か」です。十字架で、イエスは神への愛と隣人への愛を私たちのために成し遂げてくださいました。
  • 私たちは、すでに愛されている者として神と隣人を愛します。この二つの愛を切り離してはいけません。

自分への問いかけ

  1. あなたは戒めを、一人で背負う重荷として生きていますか。それとも、すでにあなたを解放してくださった神の言葉として生きていますか。
  2. もし今日、誰かに「キリストをどう思いますか」と尋ねられたら、あなたは何と答えますか。
  3. 今、あなたはどのように神を「思いをつくして」愛していますか。聖書を学び、本当の問いを自分に投げかける時間を取っていますか。
  4. 今週、あなたにとって生身の隣人とは具体的に誰ですか。教会の人、家にいる人、それともあなたを傷つけた人でしょうか。
  5. あなたの人生で、神への愛と隣人への愛は切り離されてしまっていませんか。二つのうち、どちらが疲れてしまいましたか。

引用された聖書箇所

よくある質問

「これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている」とはどういう意味ですか。

Italo Benedetti 牧師は、この動詞が文字どおりには「吊り下がっている」という意味だと説明します。扉が二つの蝶番に支えられているように、律法全体と預言者はこの二つの戒めに支えられています。蝶番が外れれば、扉はもう開きません。この二つの戒めを倒すことは、律法全体を倒すことなのです。

なぜイエスは、キリストがだれの子なのかを尋ねるのですか。

パリサイ人たちは答えを知っています。キリストはダビデの子です。そこでイエスは詩篇110篇を引用します。そこではダビデがメシアを「わたしの主」と呼んでいます。イエスはダビデの子であることを否定しませんが、ご自分がそれ以上の方であることを示されます。神の右に座しておられる主なのです。

なぜマタイはこの二つの場面を並べて置いているのですか。

問題は、戒めを知っているかどうかにあるのではないからです。心をつくして神を愛している人も、自分のように隣人を愛している人も、誰もいません。ですから決定的な問いは、「救われるために何をすべきか」ではなく、「イエスとは誰か」です。十字架で、イエスは私たちのために二つの戒めを成し遂げてくださいました。

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