テモテへの手紙第一1章:キリストは罪人を救うために来られた

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はじめに

20年ほど前、スターバックスは倒産しかけました。当時のCEOだったハワード・シュルツ氏は、ある店に入ると、コーヒーの香りではなくベーコンの強いにおいが充満しているのに気づきました。チェーンは、ベーコンサンドイッチや音楽CDを売って利益を膨らませていたのです。経営陣の反対を押し切って、彼はやめる決断をします。スターバックスはコーヒーの店であり、大切なものを大切なものとして保たなければならないからです。利益は落ち、約100店舗が閉店しました。今日、スターバックスは約90か国に4万店以上あります。

ウィンブルドンにあるDundonald Churchの牧師は、日曜テモテへの手紙第一1章12-20節のメッセージを、この話から始めます。牧師にとって、教会の成長も同じです。中心にあるものを中心に保つことです。エペソの教会は、それができなくなっていました。パウロは、自分自身の物語、作り話ではなく福音によって変えられた人生の物語で答えます。

説教者は、この箇所を次のようにまとめます。福音の中心となる一つのメッセージ、福音のすばらしい二つの理由、そして福音がもたらす三つの結果です。

メッセージの構成

1. 中心にあるものを見失った教会

  • パウロはエペソの長老たちに警告していました(使徒行伝20章)が、この教会の長老の中には偽教師になった人たちがいました。彼らは「違った教え」(テモテへの手紙第一1章3節)、直訳すれば「ほかのもの」を教えていました。
  • 福音に専念する代わりに、彼らは「作り話や果てしのない系図」(4節)、つまり作られた物語や家系図に気をとられていました。細かな事柄を、いちばん大切なものにしてしまったのです。
  • 彼らは福音を否定したのではなく、脇に追いやったのです。「彼らはコーヒーよりも、ベーコンサンドイッチを売ることに忙しかった。」
  • その結果は深刻でした。神のわざが進むのではなく、議論や争いが起こり、信仰から離れていく人たちがいました。
  • 偽教師たちへのパウロのメッセージはこうです。教会の中で敬虔な生き方を望むなら、教会の中で福音が宣べ伝えられなければなりません。12節から17節にある彼の証しは、中心にあるものが最善のものでもあり、人生を変えるものであることを示しています。
  • 牧師はこれをすべての人に当てはめます。どのクリスチャンにも、神が自分の人生でどのように働かれたかという物語があります。それが劇的なものでも、ごく平凡なものでもです。

2. 福音の第一の理由:神の驚くべきあわれみ

  • 新約聖書の手紙を十数通書き、教会を開拓し、多くのクリスチャンを励ましたこの人は、かつて「神をそしる者、迫害する者、不遜な者」(13節)でした。
  • 神をそしる者とは、イエスを悪く言っていたからです。迫害する者とは、教会を滅ぼすためにあらゆることをしたからです。教会を荒らし、家々に押し入って、男も女も引きずり出して獄に渡しました(使徒行伝8章3節)。
  • 牧師は、こんな場面を想像するよう促します。クリスチャンの母親が、学校帰りの子どもたちにおやつを出しているところへ、突然ドアが開き、裁判もなく牢に連れて行かれるのです。これは今も世界のほかの地域で起きていることです。この手紙の書き手は、まさにそれをしていた人でした。
  • 不遜な暴力の人でした。彼は主の弟子たちに対して、「なおも脅迫、殺害の息をはずませながら」(使徒行伝9章1節)いました。ステパノが石で打ち殺されるのに賛成しましたが、ステパノが語っていたのは、今パウロが語っている福音でした(使徒行伝7章58節から8章1節)。
  • 「信じない時に知らないでしたことだから、あわれみを受けた」という言葉は、言い訳ではありません。パウロは自分の過ちを認めています。故意の罪も、知らずに犯した罪も、罪であることに変わりはありません。
  • 牧師は自分の例を挙げます。わざと人を傷つける言葉を言ってしまったことも、気づかずに言ってしまったこともあります。どちらの場合も人を傷つけ、間違っていました。神の前で問われるのは、わざと罪を犯したかどうかではなく、悔い改めるかどうかです。
  • 主はパウロを救っただけでなく、彼を務めに任じてくださいました(12節)。パウロには資格となるものは何もなく、資格を失わせるものはたくさんありました。「彼を資格ある者にしたのは、彼の罪と神のあわれみでした。」
  • あわれみとは、私たちの罪にふさわしいさばきを、神が控えてくださることです。「彼らがさばきに値することは知っている。しかし、わたしはそれを与えない。彼らに代わってイエスをさばくからだ。」

3. 福音の第二の理由:神のあふれる恵み

  • ある画家が、ナイアガラの滝を描いた絵に題名をつけずに展示したそうです。訪れた人たちはそれを「まだまだ続く」と呼びました。牧師は、妻とジンバブエのビクトリアの滝を訪れたときのことを話します。轟音は30キロ以上離れても聞こえ、水しぶきは400メートルの高さに上がります。何千年も前から、そこにはいつも「続き」があります。
  • 神の恵みはそのようなものです。「わたしたちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴って、あふれるばかり豊かに与えられた」(14節)。
  • 「あわれみが、神が私たちにふさわしいものを与えないことなら、恵みは、神が私たちにふさわしくないものを与えてくださることです。」私は受けるべきさばきを受けず、受けるはずのない祝福を受けているのです。
  • 英語では、grace(恵み)という言葉を頭文字で言い表すことがあります。「God's Riches At Christ's Expense(キリストの犠牲による神の富)」、もっと正確には、キリストの犠牲による神の義です。神の義、聖さ、美しさこそ、神の最もすばらしい贈り物です。
  • 食卓で、牧師は水差しに水を満たし、それを五つのコップに分けます。天の父は、限りのある分け方はなさいません。まるで、私たちのコップをナイアガラの滝の下に差し出して満たしてくださるようです。
  • パウロは新しい言葉まで作ります。「あふれる」に「ハイパー」という接頭辞を加えるのです。恵みは「超あふれる」ものです。
  • 牧師はクリスチャンの家庭で育ったわけではありません。神を、気難しくてけちな先生のように見ていました。間違いのたびに目を天に向け、指を振る先生です。「どうしてそこまで間違えることができたのでしょう。」
  • ある著者が書いたように、恵みは、不信仰に満ちた心を信仰で、憎しみに汚れた心を愛で満たしました。神は激しい敵対者を信頼できる僕に、迫害者を説教者に変えてくださいました。あなたがクリスチャンなら、神はあなたにも同じことをしてくださったのです。

4. 中心となるメッセージ:キリストは罪人を救うために来られた

  • 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきてくださった』という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人の頭である」(15節)。
  • これはテモテへの手紙第一にある三つの「確かな言葉」の最初のものです。パウロは、ほかの節が任意だと言っているのではありません。偽教師たちが信頼できなかった具体的な点をまとめているのです。神はパウロを忠実な者と認められました(12節)。不忠実な僕たちとは正反対です。
  • なぜイエスは天を離れ、生まれ、教え、いやし、あざけられ、十字架につけられ、三日目によみがえられたのでしょう。罪人を救うためです。罰するためでも、少しましな人になることを教えるためでもなく、罪にふさわしいさばきから救うためです。
  • 牧師は子どものころ、海で溺れそうになったことがあります。岸から遠く離れ、泳ぐ力も残っていませんでした。一人の男性が自分に向かって泳いできて連れ戻してくれた瞬間を、決して忘れません。「救われる必要があると知っていて、自分では自分を救えないとき、誰かが救いに来てくれるのは言葉にできない喜びです。」
  • あなたが罪人でないなら、イエスはあなたに用がありません。自分が罪人だと知っているなら、15節はあなたが受け取れる最高の知らせです。
  • パウロは、「偽教師たちこそその頭である」とも、「ヒメナイとアレキサンデルこそその頭である」とも言いません。「わたしは、その罪人の頭である」と言います。これは見せかけの謙遜でも、調査で確かめられた文字どおりの事実でもありません。
  • 「であった」とも言わず、「である」と言います。パウロは神のさばきのもとにある罪人でした。今は恵みによって救われた罪人であり、もうそのさばきのもとにはいません。
  • クリスチャンとして進めば進むほど、神のすばらしさがわかり、自分の罪の醜さもよく見えてきます。初めのうち、十字架が占める場所はわずかです。時がたつと、こう言うようになります。「主は私の心の奥底を知っておられるのに、それでも私を愛してくださる。」パウロは、罪の見方では深く下へ、恵みの見方では高く上へと成長しました。
  • 牧師は、悪魔が偽りの罪責感をもたらすことがあると付け加えます。しかし、自分の心が何をしかねないかを知ることは、あなたを神のあわれみの中に投げ込むものでなければなりません。
  • 賛美歌の作者で、かつて奴隷商人だったジョン・ニュートンは、晩年にこう言いました。「私の記憶はほとんど消えてしまったが、はっきり覚えていることが二つある。私は大罪人であり、キリストは偉大な救い主であるということだ。」

5. 第一の結果:罪人が救われる

  • なぜ罪人の頭があわれみを受けたのでしょうか。「しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを得る人々の模範となるためである」(16節)。
  • イエスがパウロを救えるなら、誰でも救えます。遠すぎる人も、落ちすぎた人も、悪すぎる人も、罪深すぎる人もいません。
  • パウロは、イエスの完全な忍耐を示す第一の証拠です。福音によって救われるのはパウロだけではありません。罪人たちが救われるのです。

6. 第二の結果:神がほめたたえられる

  • パウロは、賛美があふれ出すのを抑えられません。「世々の王、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン」(17節)。
  • 世々の王:その支配は決して終わりません。不朽:滅ぼされることも朽ちることもありません。見えざる:見ることができません。だからこそ、見えない神のかたちであるイエスはこれほどすばらしいのです(コロサイ人への手紙1章15節)。唯一:ライバルはいません。「神が最高だというのではなく、神しかおられないのです。」
  • 牧師は言います。Dundonaldでは、神の言葉を信頼することが、神の御子を礼拝することにつながらなければなりません。
  • 私たちは性格もさまざまで、良い週も悪い週もあります。賛美を思うように感じられないこともありますが、私たちの中の何かが「ありがとうございます、あなたをほめたたえます」と言うはずです。

7. 第三の結果:テモテが遣わされる

  • 18節で、パウロは3節と同じ命令をテモテに与えます。偽りの教えをやめさせることです。強情な反対者を前にした若い人にとって、これは簡単なことではありませんでした。
  • 励ますために、パウロはテモテの背後にある権威を思い起こさせます。使徒の権威と、テモテに手を置いた長老たちの権威です(テモテへの手紙第一4章14節)。テモテはそれらの預言を思い出し、「信仰と正しい良心とを持って、りっぱに戦いぬく」のです。
  • 信仰において難破した人たちがいます。真理から外れたヒメナイ(テモテへの手紙第二2章17-18節)や、パウロに多くの害を加えた鍛冶屋のアレキサンデル(テモテへの手紙第二4章14節)です。
  • 「サタンに引き渡した」とは、パウロが彼らの行いに応じて対処したのだと、牧師は理解しています。イエスがマタイによる福音書18章で教えているとおりです。何度も警告されても悔い改めない人は、異邦人のように扱われます。その人を説教壇に立たせることも、グループを任せることもありません。
  • 目的は罰することではなく、「そしることをしないように」彼らを連れ戻すこと、つまり中心にあるもの、福音に連れ戻すことです。
  • 牧師はこう結びます。キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られました。わたしはその罪人の頭です。「そして、あえて言います。あなたもその頭なのです。」この知らせを喜び、宣べ伝え、中心にあるものを中心に保って、もっと多くの人生が変えられるようにしましょう。

心に留めたいこと

  • 教会は、福音を否定しなくても、ただ脇に追いやるだけで道を踏み外すことがあります。中心にあるものを中心に保たなければなりません。
  • あわれみとは、私たちにふさわしいさばきを神が控えてくださることです。恵みとは、神が私たちにふさわしくないものを限りなく与えてくださることです。
  • キリスト・イエスがこの世に来られたのは、罪人を救うためであって、罰するためでも、少しましな人にするためでもありません。
  • キリストとともに進めば進むほど、自分の罪の重さと神の恵みの大きさの両方がよく見えてきます。
  • イエスがパウロを救われたのなら、イエスにとって遠すぎる人はいません。この知らせは、賛美と福音を伝えることへと私たちを導きます。

個人への適用

  1. あなたの生活や教会で、福音の代わりになってしまいそうなものは何ですか。あなたにとっての「ベーコンサンドイッチ」は何でしょうか。
  2. あなたの物語は何ですか。神があなたの人生でしてくださったことを、今週、簡単に語るとしたらどう話しますか。
  3. 罪の言い訳に、知らなかったことの陰に隠れていませんか。それとも、わざとであってもなくても、自分のしたことを悔い改めますか。
  4. あなたは神を、けちで気難しい主人のように見ていますか。それとも、恵みにいつも「続き」がある父のように見ていますか。
  5. 人生の終わりに、ジョン・ニュートンとともにこう言えるでしょうか。「私は大罪人であり、キリストは偉大な救い主です」と。

引用した聖句

よくある質問

テモテへの手紙第一1章で「中心にあるものを守る」とはどういう意味ですか?

エペソでは、偽教師になった長老たちが福音を否定したわけではありませんが、作り話や系図のために福音を脇に追いやっていました。説教者は、パウロが彼らを中心にあるもの、つまり「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」という知らせに呼び戻していると説明します。この知らせこそ、人の人生を変えるものです。

神のあわれみと恵みの違いは何ですか?

あわれみとは、神が私たちにふさわしいものを与えないことです。つまり、罪に対するさばきを下されないことです。恵みとは、神が私たちにふさわしくないものを与えてくださることです。祝福、信仰、愛、赦しがそれにあたります。パウロはその両方を受け、恵みが彼にとって「あふれるばかり豊かに」与えられました(テモテへの手紙第一1章14節)。

なぜパウロは自分を罪人の頭と呼ぶのですか?

それは見せかけの謙遜でも、統計的な事実でもありません。パウロは「であった」ではなく「である」と言います。キリストとともに歩めば歩むほど、自分の罪の重さと神の恵みの大きさがよく見えてきます。パウロは、罪の見方では深く下へ、恵みの見方では高く上へと成長したのです。

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