伝道の書3章:すべてのことに時がある、神の歩調に合わせて歩もう

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はじめに

「何事にも時があり、すべてのことに時がある。」Église Évangélique Vie Nouvelle に招かれたVijay Sekar牧師は、伝道の書3章1〜11節が朗読されたあと、会衆に隣の人とこの言葉を言い交わすよう呼びかけます。

このメッセージは試練の時期に語られました。教会と一つの家族が、ひとりの兄弟を見送ったばかりでした。牧師は最初に一つの確信を語ります。「神が許されなければ、何ごとも起こりません。」神は善い方であり、すべてをご存じです。

牧師はこの箇所から、私たちの季節には始まりと終わりがあること、神は時間に縛られないこと、そして私たちの務めは神に身をゆだね、神の時を逃さないことだと示します。最後は軍隊の表現「autant pour moi(私のミスでした)」で締めくくります。

メッセージの流れ

1. 生まれるに時があり、死ぬるに時がある

  • 「時」について語るとは、そこに「始まりと終わり」があると言うことです。主がそのように物事をお許しになったのです。
  • この箇所は季節を二つずつ対にして並べています。泣くことと笑うこと、悲しむことと踊ること、黙ることと語ること。悲しみの季節と喜びの季節は入れ替わり、ときには順番どおりに訪れません。
  • 赤ちゃんが生まれるとき、神はその子に一定の日数を与えられます。生まれてすぐに旅立つ子どもたちもいます。「神は主権者です。私たちは時も状況も支配できません。」
  • ヨブの望みは、肉体が滅びたあとでも神を見ることでした(ヨブ記19章25〜26節)。パウロは「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と言います(ピリピ人への手紙1章21節)。牧師は語ります。「私は良い手の中、主の御手の中にいると知っています。」
  • 「主の聖徒の死は、主の目に尊い」(詩篇116篇15節)。主にとってそれは悲しみではなく、ご自分の息子や娘が御許に帰ってくることです。
  • 牧師は戒めも加えます。何もかもうまくいかないからといって、死を願ってはいけません。「それは罪ですらあります。」

2. 皆が同じ季節を生きるわけではない

  • 季節は長いこともあれば短いこともあり、それを知っておられるのは神だけです。「誰もが同じ季節を通るわけではありません。」また、その時期に私たちがする選択によっても変わります。
  • 「私は失敗した。前に進めない。もう生きていない」と思う人がいます。これは神が望まれることではありません。この失敗の時期に、ほかに学ぶべきことがあるのかもしれません。成長しない間は、神はそこにとどまらせておられるのかもしれません。
  • 自動車教習所のたとえです。基本を身につけず、他の人を危険にさらしている間は、教官は「まだ練習が必要です」と言います。わざとそうしていると教官を責めることはできません。
  • 10節。神は人の子らに務めを与えておられます。どの時にも、神はあなたにある目標へ到達してほしいと願っておられます。問うべきは「この時期に、神は私にどんな目標を達成してほしいのか」です。ときには、誰かほかの人を助けるために、神があなたを備えておられることもあります。

3. 神は時間に縛られない

  • 私たちの命と季節には限りがあります。神は時間の外におられます。「今いまし、昔いまし、後きたるべき者、全能者にして主なる神が、『わたしはアルパであり、オメガである』と仰せになる」(ヨハネの黙示録1章8節)。
  • モーセが名を尋ねたとき、神は「わたしは有る」と答えられました(出エジプト記3章14節)。どんな時にも、神は今ここにおられます。
  • 神はすべてをご存じで、その御顔の前から逃れることはできません(詩篇139篇7〜10節参照)。落胆したエリヤに、神はこう問われます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」(列王紀上19章9節)。
  • 会衆は皆、手を挙げて神が主権者であると言います。しかし困難のときには「なぜですか」と尋ねます。神は私たちに必要なものを正確にご存じです。神のご計画には、目標、使命、訓練の時、「交互に行う時」、実践と理論が含まれています。
  • 「神はあなたを信じておられます。」あなたがこの季節を通り抜け、その中で成長し、前に進めると信じておられます。「神はあなたをその季節にとどまらせるために置かれたのではありません。」

4. 古い季節を離れるよう召されたサムエル

  • 「わたしがすでに捨てたサウルのために、あなたはいつまで悲しむのか」(サムエル記上16章1節)。サムエルは悲しみ、理解できずにいます。神はすでに次の季節へ移っておられます。「あなたの角に油を満たして行きなさい。」
  • エッサイの家に着いたサムエルは、誰が王になるのか知りません。最初の息子を見て、確かに主に油を注がれた者が前にいると思いますが(サムエル記上16章6〜7節)、神は「その人ではない」と答えられます。神はこの期間、サムエルをも訓練しておられたのです。
  • 息子たちが次々と通ります。サムエルのように、私たちも「主よ、あなたが私を遣わされました。言われたとおりにしているのに、思ったようにいきません」と言うことがあります。牧師は励まします。「使命を最後までやり遂げなさい。踊り場で満足してはいけません。」
  • サムエルは、息子はこれで全部かと尋ねます。まだ末の子が残っていて、羊の番をしていました。神は、立ってこの子に油を注げ、この者がそうだと言われます(サムエル記上16章11〜12節)。牧師はここに、立ち上がって行動に移る召しを読み取ります。
  • 同じ部屋の中で、ダビデ、兄たち、父、そしてサムエルは、それぞれ違うふうにその瞬間を過ごしています。しかし起こっているのはただ一つ、神が王を選ばれるということです。
  • ダビデはその後、勝利と敗北、逃亡と祝いを経験します。詩篇では、しばしば「なぜ私はこんな目にあうのか」から始まり、「主が私の叫びを聞いておられると知っています」という信頼で終わります。
  • 神は、あなたがたに対していだいている計画を知っておられ、それは災いではなく平安の計画だと語られます(エレミヤ書29章11節)。これはすべての信者に、そして会衆にも当てはまります。会衆にも勝利の時と疲れの時が訪れるからです。

5. 私たちの務め:神にゆだねて信頼する

  • 神が時を備えられます。私たちの務めは神に身をゆだねることです。「遅れてはいけません。早すぎてもいけません。主の時の中にいなさい。」
  • 「前のほうがよかった」と言うことは、神がもうおられない季節にとどまることです。サウルのために泣いていたサムエルのように、私たちは遅れてしまいます。
  • 私たちはすべてを支配したがります。子どもたちがけんかをしているときに割って入る親の例です。疲れていると、勢いよく飛び込み、言葉で二人とも傷つけ、状況を悪くしてしまいます。「飛び込む前に、少し時間を取りましょう。神にさせましょう。」
  • ダビデはサウルを殺せる機会に恵まれ、部下たちが迫ります。「今がそのときです。主があの者をあなたの手に渡されました。」しかしダビデは、主に油を注がれた者に手を下すことを拒みます(サムエル記上24章7節)。助言には知恵を欠くものもありますが、「決めるのは一人ひとり」であり、その結果も自分で負うことになります。
  • 「あなたがたは強くあれ。手を弱くしてはならない。あなたがたのわざには報いがあるからだ」という励ましがあります(歴代志下15章7節)。敵が望んでいるのは、私たちの手が弱くなることです。
  • ヘブル人への手紙6章11〜12節は、最後まで同じ熱心を保ち、信仰と忍耐によって約束を受け継ぐ人々にならうよう励ましています。

6. 善良な人の道を歩む

  • 善良な人の道を歩み、正しい人の道を守りなさい、と箴言は教えています(箴言2章20節)。
  • 困難な季節には、自分が正しいと言いたくなります。職場や家庭で、責任ある立場の人から不当に責められたとき、それを証明しようとするあまり、人を傷つけ、害を与えるおそれがあります。
  • 神が求めておられるのは別のことです。季節がどうであれ、自分をのろう者を祝福し、自分を憎む者に善を行うことです(ルカによる福音書6章27〜28節)。
  • 聖霊に導かれましょう。この世に倣わず、心を新たにすることで造り変えられ、神のみこころを見分けられるようになることです(ローマ人への手紙12章1〜2節)。
  • 「互に重荷を負い合いなさい」(ガラテヤ人への手紙6章2節)。同じ季節を通っていない人は、兄弟姉妹の重荷を軽くし、励ますことができます。

7. リスクと益:カイロスを逃すか、つかむか

  • 私たちの務めには選択も含まれ、選択からはリスクや益が生まれます。
  • リスクは、神のみこころの外に出て、神の時、すなわちカイロスを逃すことです。牧師はこれを「私たちのための神の好ましい時、ふさわしい瞬間」と定義します。神が介入しようとされる状況、試練、変化のために定められた時です。
  • 神が次の季節を始められたのに、私たちが古い季節を離れていなければ、神が私たちを造り変え、築き上げ、成長させようとされる時を逃してしまいます。
  • 「早すぎれば、退屈して、腹を立てるでしょう。」遅すぎれば、やはりつかみ損ねます。
  • 益は、神のみこころの中に身を置くことで、「神の時と同調」し、神が御力をもって介入されるそのカイロスの恵みを受けることです。
  • 軍隊では、隊列を組んで行進しているとき、兵士が歩調を外すと「autant pour moi(私のミスでした)」と言って歩調を戻します。教会はキリストのからだです。聖霊に調和させられて、ともに歩まなければなりません。一人が同調からずれると、その人自身も、からだ全体も困難に陥ることがあります。
  • 牧師の結びの言葉です。「すべてのことに時がありますが、神はどんな時にも善い方です。」

覚えておきたいこと

  1. どの季節にも始まりと終わりがあります。長さも状況も私たちは支配できませんが、神は時にかなってすべてを良いものにされます。
  2. どの時期にも、神には目標があります。あなたを成長させ、訓練し、ときには誰かを助けるために備えることです。
  3. 神は時間の外におられ、主権者です。あなたを信じておられ、あなたをその季節にとどまらせるために置かれたのではありません。
  4. 私たちの務めは、神に身をゆだね、正しい選択をし、神の時に対して遅れも早すぎもしないことです。
  5. カイロスを逃すとは、古い季節にとどまることです。それをつかむとは、神とともに、またキリストのからだとともに歩調を合わせて歩むことです。

自分への適用

  1. あなたは今どんな季節にいますか。その中で、神はどんな目標を達成してほしいと願っておられますか。
  2. サムエルがサウルのために泣いたように、今もまだ悲しんでいる古い季節はありませんか。そのために、前に進めという召しが聞こえなくなっていませんか。
  3. どんな状況で、神に働いていただく代わりに、すべてを支配しよう、あるいは自分が正しいと言い張ろうとしていますか。
  4. どの兄弟姉妹が困難な季節を通っていますか。今週、その人の重荷をどう担えますか。
  5. 神の歩調に戻るために、どこで「私のミスでした」と言う必要がありますか。

引用された聖句

よくある質問

伝道の書3章の「すべてのことに時がある」とはどういう意味ですか。

Vijay Sekar牧師によれば、「時」について語るとは、あらゆることに始まりと終わりがあると言うことです。喜びと悲しみの季節は入れ替わり、必ずしも順番どおりには訪れず、長さもさまざまです。私たちは時も状況も支配できませんが、神はすべてを時にかなって良いものにしてくださいます(伝道の書3章11節)。

カイロス、つまり神の時とは何ですか。

牧師はカイロスを、神の好ましい時、神が状況や試練、変化に介入するために定められたふさわしい瞬間だと説明します。古い季節にとどまってそれを逃すことがリスクです。神のみこころの中に身を置いて、神と同調することが益です。

なぜ「autant pour moi(私のミスでした)」というタイトルなのですか。

Vijay Sekar牧師は軍隊の表現を借りています。隊列を組んだ行進で兵士が歩調を外したとき、「autant pour moi」と言って歩調を戻します。教会はキリストのからだであり、聖霊の助けによって、神の時に遅れも早すぎもせず、ともに歩むよう召されています。

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