ヤコブの手紙2章:信仰だけが救う、しかし信仰は決してひとりではない

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はじめに

ある人がクリスチャンだと、どうすれば分かるのでしょうか。そもそも、何がその人をクリスチャンにするのでしょうか。ホーリー・トリニティ・ドンカスターの午後5時の礼拝で語るマークは、この二つの問いからメッセージを始めます。考えられる答えとして、直近の国勢調査で「キリスト教徒」にチェックを入れた、洗礼を受けた、イエスを主と告白している、イエスのように生きている、あるいは「そのすべて」といった選択肢を挙げ、それぞれの答えを心に留めて忘れないようにと呼びかけます。

教会はヤコブの手紙の連続講解を始めたところです。この夜の聖書箇所はヤコブの手紙2章14〜26節で、イサクの献げ物を記した創世記22章と合わせて読まれました。昔から多くの議論を呼んできた問いがあります。救われるために良い行いは必要なのでしょうか。信仰だけなのか、それとも信仰と行いの両方なのか、という問いです。

説教者はまず、行いのない信仰は死んでいて役に立たないことを示します。次に、信仰と良い行いの関係を整理し、最初の二つの問いに戻って、あなた自身を重ねられる三つの人物像を示します。

メッセージの流れ

1. 行いのない信仰は死んだ信仰

  • マークがいう良い行いとは、善を行うことのすべてです。舌を制すること、世の道徳的な汚れから身を守ること、みことばを聞いてそれを実行することが含まれます。行いは行動だけでなく、言葉にも関わります。
  • ヤコブは、答えが明らかなはずの問いかけをします。「わたしの兄弟たちよ。もし、ある人が自分には信仰があると言っても、行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか」(ヤコブの手紙2章14節)。言い換えれば、行いのない信仰を持つ人は、本当にクリスチャンといえるのでしょうか。答えはノーです。
  • 着る物も食べ物もない兄弟姉妹の例がそれを示しています。優しく慰める言葉だけでは足りません。その人を気づかうには、具体的な助けが必要です。
  • ヤコブが語るのは死んだ信仰です。生きておらず、偽物の信仰です。造花のように、遠目には本物に見えることがあります。プラスチックなのか布なのかは、近づいて触ってみないと分からないこともあります。
  • 偽りの信仰は、礼拝に欠かさず出席し、賛美を歌い、「アーメン」と唱え、「主のみこころなら」といった信仰的な言い回しを使う姿に似ています。けれども、その先がありません。そして、自分は本物の信仰を持っていると思い込んで、自分自身を欺いてしまうことがあります。
  • 「あなたは、神はただひとりであると信じている。それは結構だ。悪霊どもでも、そう信じて、おののいている」(ヤコブの手紙2章19節)。神が存在すること、イエスが神の子であることを認めるのは、良い、必要な出発点です。けれども、それを裏づける行いがなければ、その信仰は悪霊たちの信仰と変わりません。
  • 信仰と行いは切り離せません。「わたしは行いによって、信仰を見せてあげよう」(ヤコブの手紙2章18節)。本物の信仰があるところには、良い行いが伴います。

2. アブラハム:すでに認められていた信仰、そして試された信仰

  • ヤコブは旧約聖書の信仰の人物として、アブラハムとラハブの二人を挙げ、行いのない信仰が同じように役に立たないことを示します。そのような信仰は、神のご計画を成し遂げないからです。
  • マークは、自分が読んだ本文にある微妙な違いに注目します。アブラハムは、行いによって義と「された」のではなく、行いによって義と「示された」のです。彼はそれ以前からすでに義とされており、その行いがそれを現しました。
  • ヤコブが、信仰は行いによって全うされたと言うとき(ヤコブの手紙2章22節)、それはアブラハムを救うのにその行いが必要だったという意味ではありません。信仰は当然たどり着くべきところに至り、ふさわしい応答となったのです。
  • 「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という言葉は、創世記22章ではなく、約30創世記15章6節に由来します。アブラハムにはまだ子がなく、しもべのダマスコのエリエゼルが跡取りになるのだろうかと思っていたとき、神は彼に息子を約束されました。何の行動も求められませんでした。彼は信じ、信仰のみによって救われたのです。
  • 創世記22章では、深く愛する息子イサクが生まれた後、その同じ信仰が試されます。アブラハムは従順をもって応えました。
  • この記事には手がかりがあります。5節で、アブラハムはしもべたちに言います。「礼拝をし、そして、あなたがたの所へ帰ってきます」。「わたし」ひとりではなく、少年と二人で戻ってくると言っているのです。8節では「神みずから、燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と語ります。ヘブル人への手紙11章19節は、そのときの彼の思いを説明しています。神は死者の中からでもよみがえらせることができる、と考えていたのです。
  • その場所につけられた名前も、それを裏づけています。それは「主が備えてくださる」という意味で(創世記22章14節)、「主が備えてくださった」ではありません。アブラハムは、神が備えてくださることを前もって信じていたのです。

3. ラハブと、試練の中にある神のご計画

  • ラハブは命の危険を冒してイスラエルの斥候をかくまいました。ヘブル人への手紙11章31節は、信仰によって、彼女は不従順な者たちと一緒に滅びなかったと語ります。この箇所が語るのは、反抗的な者や無知な者ではなく、不従順な者です。従ったラハブとの対比がそこにあります。
  • どちらの場合も、信仰が試されることによって、神はそのご計画を成し遂げられました。それは二人の人生だけでなく、イスラエルのため、そして世界のためでもありました。「あなたの子孫によって、地のもろもろの国民は祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」(創世記22章18節)。
  • わたしたちも同じです。信仰は試されるために与えられ、神の目的はわたしたちの成熟です。ヤコブが1章ですでに語ったとおり、信仰が試されることで忍耐が生まれ、あなたは完全で欠けたところのない者となります(ヤコブの手紙1章2〜4節)。

4. 大切なのは、信仰の対象

  • 愛と忍耐は、どんな状況でも働かせるものです。神は、誰を愛するかを選ぶようには求めておられません。一方、信仰は、その対象に応じて見分けながら働かせるものです。
  • 詐欺師から電話がかかってきたら、決して信頼してはいけません。信仰の対象がふさわしくないからです。指導者を信頼するのは正しいことが多いですが、失望させられることもあるので、慎重さも必要です。
  • 神とその御子に対しては、いつでも、何も留保せず、完全に信頼するよう求められています。神も御子も、いつも信頼に値するお方だからです。漠然とした信仰を持つことはあまり役に立ちません。イエスに信仰を置く必要があります。
  • 神は、わたしたちの信仰を試すことで、ますます神に頼ることを教えようとしておられます。信仰がもう要らなくなるほど成熟することはありません。成熟するとは、信仰において成長し、苦しみや誘惑に耐えるために、神に全面的に頼るようになることです。
  • いのちを生む従順に結びつかない信仰は、神のご計画のために用いられません。それは役に立たないのです。

5. 信仰だけが救う、しかし救う信仰は決してひとりではない

  • パウロは信仰のみによる救いを語り、ヤコブは信仰と行いを語ります。マークは連続講解の最初に示した言い方に戻ります。信仰だけが救う。しかし、救う信仰は決してひとりではない。それには良い行いが伴います。
  • 良い行いは、信仰の避けられない証拠です。信仰が試されるとき、良い行いはその信仰が本物であることを示します。
  • 良い行いは救いの土台ではありません。あなたを救い、罪の罰を取り除くのは、十字架上のイエスの死です。それは、良い行いをどれだけ積んでも、どれだけ成熟していても変わりません。
  • 良い行いは、救いの実です。救われた今、あなたのうちには聖霊が、キリストのいのちがおられます。神の恵みと赦しを得るために善を行うのではなく、すでに受けた恵みへの感謝から善を行うのです。
  • 良い行いは、救いの確信の根拠ではありません。クリスチャン生活が苦しく、落胆するとき、もっと良い行いをして安心しようとしてはいけません。十字架に立ち返ってください。イエスはあなたのために死なれ、あなたは救われ、罪は赦されています。それが唯一の確かな土台であり、あなたが成長できる理由です。
  • 時が経つにつれ、良い行いはあなたの信仰が本物であることを裏づけます。行いによって救いを確信するのではなく、行いが、イエスへのあなたの信仰が本物であることを確かにするのです。

6. 実は木ではない

  • マークは、ふっくらとした見事な果物の写真を見せ、「おそらく農薬だらけだろうね」と冗談を言います。病んだ木から健康な実は採れません。
  • あなたの良い行いは実であって、木ではありません。信仰の代わりにはなりません。信仰が健やかで本物であれば、良い実が結ばれ、その信仰が本物であることを示します。
  • だからこそ、動機が大切です。神への信頼と救いへの感謝から善を行うなら、その行いは本物の信仰の証拠です。もし、神の前で自分の価値を証明できる、あるいは神の国にふさわしくなれると考えて行うなら、行いが信仰に取って代わっています。これは律法主義、行いによる救いと呼ばれるもので、聖書はそのようなものは存在しないと語っています。
  • 冒頭の二つの問いに戻りましょう。何がその人をクリスチャンにするのでしょうか。イエスへの信仰です。ある人がクリスチャンだと、どうすれば分かるのでしょうか。一つには、その信仰から生まれる良い行いによって分かります。わたしたちは人の心を見ることはできません。本物の信仰があると思わせる実を見るだけで、最終的には、それぞれが自分の心にあるものについて神に答えることになります。

7. 三つの人物像:あなたはどこにいますか

  • 一つ目の人物像は、信仰があると言いながら、行いのない人です。礼拝には来ますし、子どものころに洗礼を受けたかもしれません。賛美が好きで、聖書の学び会での神学的な議論も好きです。けれども、心の底には、罪と戦い、人を愛し、みことばに従い、福音を伝えたいという願いがありません。なぜでしょうか。自分の罪と恵みの必要性を確信していないのかもしれません。あるいは、信じてはいるものの、世の中や、神なしの成功、人からの評価に気を取られているのかもしれません。
  • 二つ目の人物像は、行いはあっても信仰のない人です。マルタのように、とても忙しく、どこでも奉仕する用意があります。けれども、それは信仰から出たものではありません。神に頼るために最後に祈ったのがいつか思い出せず、読んでいる聖書も心に響きません。多くの場合、ほかの人が十分にしないことに苦々しさを覚えたり、自分のほうがたくさんしているからと人を裁いたりするようになります。福音の恵みを忘れたのかもしれませんし、神への初めの愛を失ったのかもしれません。
  • 三つ目の人物像は、信仰が行動となって表れているクリスチャンです。イエスへの信仰から来る喜びと平安、そして本物の感謝を持っています。しかし、そこにとどまらず、仕えたい、イエスに似た者になりたい、御霊の実を結びたい、神がみことばで命じておられることをすべて行いたいと願います。
  • この信仰を養うために、まず必要なのは、みことばを聞いてそれを実行し、わたしたちのうちに植えられたみことばに自分を変えていただくことです(ヤコブの手紙1章21〜22節)。
  • 次に、それを共同体の中で、ともに行うことです。鉄が鉄を研ぐように、わたしたちは互いを励まして、愛と良い行いへと向かわせ合います。そのためには、集まるときに意識を持つこと、そして、悔い改めを促すことばを喜んで受け入れ、実行する謙遜さが求められます。

心に留めたいこと

  • 行いのない信仰は死んでいます。造花のように生きているように見えても、偽物です。
  • アブラハムは、創世記15章で信仰のみによって義と認められました。創世記22章では、その同じ信仰が試され、従順によって示されました。
  • 大切なのは、漠然とした信仰ではなく、その対象です。イエスはいつも信頼に値するお方です。
  • 信仰だけが救います。しかし、救う信仰は決してひとりではありません。行いは信仰の証拠であり救いの実であって、救いの土台でも確信の根拠でもありません。
  • あなたの確信は、いつも十字架に立ち返ります。イエスはあなたのために死なれ、あなたの罪は赦されています。

自分への問いかけ

  1. 誰かがあなたの生き方を見たら、あなたの信仰が本物である証拠として何を見るでしょうか。その証拠が欠けているのはどこですか。
  2. 神は、あなたの信仰の実として、あなたの人生にどのような良い行いをすでに育てておられますか。その実がもっと成長してほしいのはどこですか。
  3. 三つの人物像のうち、今のあなたはどれに当てはまりますか。それに満足していますか。何を変えられるでしょうか。
  4. 落胆するとき、自分のしていることで安心しようとしますか。それとも、イエスが十字架であなたのためにしてくださったことに立ち返りますか。
  5. 礼拝やグループに、あなたはどのような姿勢で来ていますか。習慣としてですか。それとも、みことばに自分を変えていただき、良い行いへと押し出されたいという思いからですか。

引用した聖書箇所

よくある質問

ヤコブは、信仰のみによる救いについてパウロと矛盾していますか。

いいえ。説教者は次のようにまとめています。信仰だけが救います。しかし、救う信仰は決してひとりではありません。救いの土台は、信仰によって受け取る、十字架上のイエスの死です。良い行いは救いの根拠ではなく、信仰の避けられない証拠であり、救いの実です。

「行いのない信仰は死んだもの」とはどういう意味ですか。

行いのない信仰は造花のようなものです。生きているように見えても、偽物です。悪霊でさえ、神がただひとりであると信じて、おののいています。本物の信仰は、持たない人に着る物や食べ物を与えるといった行動によって表れます。

救いを確信するために、自分の良い行いを見るべきですか。

いいえ。救いの確信は、いつも十字架に立ち返ります。イエスはあなたのために死なれ、あなたの罪は赦されています。良い行いは信仰が本物であることを裏づけますが、確信を与えるものではありません。もっと良い行いをして安心しようとしてはいけません。

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