はじめに
あなたは今、神が備えてくださった安息の地へ向かって歩んでいます。しかし、あなたが今いる荒野と、神があなたにしてくださった約束との間には、ひとつの現実が立ちはだかります。赦しと聖めを通らずに、そこへたどり着くことはできないのです。民数記18章と19章は、しばしば堅苦しく感じられがちですが、実際にはとても具体的な道筋を描いています。この二つの章は、コラの反逆(民数記16章)の直後、アロンが生きている者と死んだ者との間に立ってさばきを止めた出来事(民数記17章)、そしてアロンの杖が芽を出したしるしの直後に置かれています。民は恐れの中にいました。「私たちはみな死んでしまう。」神はこの叫びに応えて、二つのことを明らかにされます。ご自分の民の中で誰がどの役割を担うのか、そして、死に触れたときにどのように聖められるのか、です。
この記事は、この二つの章について行われた聖書研究をまとめたものです。神が定められた秩序が、人を押しつぶす階級制度ではないこと、十分の一献金が宗教的な税金ではないこと、そして何よりも、民数記19章の赤い雌牛が、すでにイエス・キリストを指し示していることを示します。「その血は、あなたの良心を死んだ行いから聖めます」(ヘブル9:14)。
聖書研究の構成
1. 神がアロンとレビ人に委ねられたこと(民数記18:1-7)
「あなたとあなたの子ら、あなたの父の家とともに、聖所に対する咎を負わなければならない」(民数記18:1)。ここでの「負う」という動詞は、罰を受けるという意味ではありません。責任を担うという意味です。神は仕事を明確に分担されます。アロンとその子らは祭司としての責任、すなわち祭壇での犠牲、香、パン、ともしびを担います。他のレビ人たちは祭司ではありません。彼らは補佐をし、幕屋の運搬、維持管理、そして礼拝を可能にする無数の実務を担っています。
「彼らはあなたのもとに連なり、会見の天幕の務めを果たす」(民数記18:4)。神はご自分のしもべたちにこう言われます。自分の持ち場にとどまりなさい、そうすれば誰も死なずに済む、と。この制限は罰ではなく、守りです。民は「私たちは滅びる」と叫びました。神はそれに応えて、いのちが可能になる枠組みを描いてくださったのです。
2. 祭司たちの報酬と聖なるささげ物の分配(民数記18:8-19)
神は、ご自分に仕える者たちのための物質的な糧を備えられます。穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、代償のためのいけにえは祭司たちのものとなります。これはいと聖なるものであり、祭司の家系の男子だけがそれを食べることができます(9〜10節)。次に、初物、油、ぶどう酒、穀物の最良の部分が続きます(12〜13節)。この部分については、「あなたの家の中で、きよい者はだれでもそれを食べることができる」とあり、男女を問いません。そして最後に、「イスラエルの中でささげられた聖絶のものはすべて、あなたのものとなる」とあります(14節)。
ここで神が定めておられるのは、生きたつながりです。民がささげ、神が受け取り、神が聖所に仕えるよう置かれた者たちに再び分け与えられるのです。祭司は誰も、自分自身の労働で生きているのではありません。彼は、神が民を通して与えてくださるもので生きているのです。
3. 「わたしがあなたの分け前であり、あなたのゆずりの地である」(民数記18:20-24)
神は祭司たちにこう言われます。「あなたは彼らの土地の中にゆずりの地を持たず、彼らの中にあなたの受ける分もない。わたしがあなたの分け前であり、あなたのゆずりの地である」(民数記18:20)。これは計り知れないことです。祭司は財産を積み上げることで安心を得るのではありません。神ご自身の御手から自分の糧を待ち望むのです。
レビ人たちには、イスラエルの十分の一をゆずりの地として与えられます。「わたしはレビの子らに、彼らが行う奉仕のために、イスラエルの十分の一を所有物として与える」(21節)。彼らもまた、土地を所有することはありません。なぜでしょうか。彼らの時間は、幕屋の奉仕のためのものだからです。彼らは畑を耕したり、家畜を育てたりすることができません。そこで神は、彼らが他の民のささげ物によって生きるようにと備えられたのです。
4. 十分の一献金は税金ではない(民数記18:25-32)
レビ人たちは十分の一を受け取りますが、彼らもまた、その中からさらに十分の一を「主への奉献物」としてアロンに納めなければなりません(28節)。こうして循環が生まれます。イスラエルがささげ、レビ人が受け取り、レビ人が祭司に再びささげ、そのすべてが神にささげられるのです。十分の一献金は、聖職者を養うための税金ではありません。それは感謝の表明です。それはこう語ります。「私が持っているすべてのもの、私の収穫、私の油、私の家畜。それはすべて、私の神よ、あなたから来ています。」
5. 赤い雌牛:死が汚したものを聖める(民数記19:1-10)
民数記19章は、律法全体の中でも独特な犠牲を定めています。傷がなく、まだくびきを負ったことのない赤い雌牛が求められます。それは宿営の外に連れ出されます。それをささげるのはアロンではなく、エルアザルです。彼の前でその牛は屠られ、皮も肉も血もすべて焼き尽くされます。祭司は「杉の木、ヒソプ、緋の糸」を火の中に投げ入れます(6節)。その灰は、きよい者によって集められ、宿営の外の、きよい場所に置かれます。
この犠牲に関わったすべての者、すなわち祭司、牛を焼いた者、灰を集めた者は、一時的に汚れた者となります。聖めるために汚れをもたらす犠牲。奇妙に感じられますが、まさにそこにポイントがあります。
6. 聖めの水と死との接触(民数記19:11-22)
この灰は「聖めの水」を作るために用いられます(9節)。死者に触れた者は誰でも、七日間汚れます。三日目と七日目に、その水を振りかけられると、その人は再びきよくなります(12節)。もしその人が聖めを拒むなら、「その人は会衆の中から断ち切られる。主の聖所を汚したからである」(20節)。
言い換えれば、誰も自分自身を聖めることはできません。汚れは時間とともに消え去るものではありません。あなたに触れるためには、どこか別のところ、上の方から来る何かが必要なのです。
覚えておきたいポイント
- 神の秩序は、人を押しつぶす階級制度ではありません。アロンにはひとつの役割があり、レビ人には別の役割があります。それぞれが互いにとっての贈り物なのです。教会の中でも、誰も「上」でも「下」でもありません。それぞれが自分に与えられた恵みの分け前を受けているのです。
- 自分の持ち場にとどまることは、すでに従順です。「わたしがあなたに委ねたことにとどまりなさい」。多すぎず、少なすぎず。多くの人が、自分の分を超えようとしたり、与えられたものを軽んじたりして傷ついています。
- 神はご自分自身をゆずりの地として与えてくださいます。祭司は土地を所有しませんでした。神が彼の分け前でした。今日でも、まず神の国を求めるなら、あなたの人生は神の御手によって養われます。
- 十分の一献金は宗教的な税金ではありません。それは「すべては主よ、あなたのものです」と語る行為です。それは、あなたの会費ではなく、あなたの依存を祝うものです。
- あなたは自分自身を聖めることはできません。死があなたの内に残したものから洗い清められるためには、赤い雌牛によって予表されたキリストの血が必要です。
赤い雌牛と十字架
火の中に投げ入れられる三つのもの、杉の木、ヒソプ、緋の糸。この三つのしるしは、旧約聖書の中で、赦しと流された血をめぐって現れます。ヒソプは、過越の子羊の血を振りかけるために用いられた小さな枝です(出エジプト12:22)。それはまた、ダビデがバテ・シェバとの罪の後に作った詩篇の中で求めたものでもあります。「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります」(詩篇51:9)。緋の糸は血を思い起こさせます。杉は、堅く、しっかりと立つ木です。十字架の上で、イエスには「ヒソプの茎に酢を含ませた海綿」が差し出され(ヨハネ19:29)、その直後、イエスはこう言われます。「完了した。」
ヘブル人への手紙は、この結びつきを明確に語ります。「もし、雄やぎと雄牛の血、また若い雌牛の灰を、汚れた人々に振りかけることによって、肉体をきよめて聖なるものとするなら、まして、傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったキリストの血は、なおさら、私たちの良心を死んだ行いから聖めて、生ける神に仕える者としないでしょうか」(ヘブル9:13-14)。
赤い雌牛は、この唯一の瞬間を指し示していました。傷のないイエスが「宿営の外に出て」(ヘブル13:12)、あなたのために焼き尽くされたのです。その血は、死があなたに触れたときに、あなたを洗いきよめる生ける水なのです。
個人的な適用
- 今、神が私の教会の中で私に委ねてくださっている場所はどこでしょうか。私はそれを忠実に担っていますか、それとも軽んじていますか。
- 神が私とは違う役割をお与えになった兄弟姉妹を、私は尊重していますか、それとも見下していますか。
- 私は、あの祭司のように「主よ、あなたが私の受ける分です」と言うことができますか。それとも、まず自分の蓄えに頼っていますか。
- 私のささげ方は、神への感謝を映し出していますか、それとも単なる会費のようなものになっていますか。
- 私はまだどこかで、自分自身を聖めようとしていませんか。私はキリストのもとに来て洗っていただいていますか、それとも自分の汚れを黙って抱え込んでいますか。
引用された聖句
FAQ
なぜレビ人は土地を持っていなかったのですか。
彼らのゆずりの地は、聖所での奉仕と、民の中にある神の臨在そのものだったからです。彼らは、自分たちの奉仕に全面的に献身する自由を持つために、他の部族からの十分の一によって生活していました(民数記18:21-24)。
十分の一献金は、今日でも守るべき戒めですか。
新約聖書は、十分の一を律法として再び課してはいません。しかし、「喜んで」ささげること(第二コリント9:7)、そしてすべては神のものであると認めることを教えています。十分の一献金は今なお、自分の財政の中で神を第一にすることを学ぶための、有益な訓練の場です。
なぜ赤い雌牛は、それをささげた者を汚れた者にしたのですか。
この犠牲は、まさに死の汚れを特別に担うものだからです。灰を扱う者は、他者の汚れを自分の上に引き受けたものに触れることになります。これは、私たちのために「罪とされ」(第二コリント5:21)、私たちを洗いきよめるために私たちの汚れを担われたキリストの姿を、鮮やかに示す型なのです。
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