はじめに
その晩、バーミンガムのガス・ストリート教会(Gas Street Church)では、二人の語り手がメッセージを分かち合います。ミリー・ファーガソン(Millie Ferguson)は教会のスタッフとして八年になり、この五年間はガス・ストリート・セント・ルークス(Gas Street St Luke's)の拠点で働いています。そこは教会の支援活動の部門であるガス・ストリート・ホープ(Gas Street Hope)の一部で、フードバンク、借金相談センター、就労支援、若者の受け入れ、コミュニティカフェなどを行っています。毎週百以上の家族が扉をくぐります。
続いて、教会の拠点のひとつの牧師であるピート・ノリス(Pete Norris)が引き継ぎます。冗談めかして、メインのコンサートのあとに出てくる「前座」だと自己紹介します。
メッセージの軸は、善いサマリア人のたとえの最後にあるイエスのひと言、「あなたも行って同じようにしなさい」です。ミリー・ファーガソンは、イエスが行かれるところには希望がついてくることを示します。そしてピート・ノリスは、この呼びかけが町の中で具体的にどのような形をとるのかを問いかけます。
メッセージの流れ
1. 希望が足りないように見える世界
- ミリー・ファーガソンは、自分のインスタグラムのフィードの話から始めます。ステーキのレシピ、きゅうりに驚く猫たちの動画集、そしてニュースの見出し。少しスクロールするだけで、絶望的なことや胸が張り裂けるようなことに行き当たります。
- 世界には分断と戦争があります。彼女が愛する町バーミンガム(誇らしげに自分を「ブラミー」と呼びます)にも、孤独、貧困、死別があり、出口が見えない状況に置かれた人々がいます。
- 彼女はビリー・グラハムの言葉を引用します。「すべての人間にとって最大の心理的、霊的、医療的な必要は、おそらく希望の必要である。」
- 彼女は回復の物語を語ります。ほとんど家から出られないほど落ち込んでいたのに、五年前から週に二回通い、そこで親友ができた女性。ひとり親の母親は、「どこにいても自分の居場所だと感じたことはなかったけれど、ここに来てから、ここが私の家であり家族だと分かりました」と話しました。食料支援を求めて来た男性は、イエスに出会って洗礼を受け、今では週に二回、彼女のボランティアチームで奉仕しています。
- しかし毎日、チームは極度の困窮、孤独、依存症、失業、路上生活、搾取、家庭内暴力に直面している人々にも寄り添っています。「誰かの状況を見て、神さま、どうやってこれを変えられるのですか、と思う気持ちを、私たちは知っています。」
2. ルカ4章 成就した希望であるイエス
- この問いを前に、彼女は聖書に立ち返ります。物事は立て直せるのだろうかと問うた最初の世代は、私たちではありません。
- イエスは荒野での四十日間を終えて戻られます。そこで悪魔の誘惑を受けられました。ここから宣教が始まります。ナザレの会堂で預言者イザヤの書が手渡され、イエスは、主の霊が自分の上にあり、貧しい人々に良い知らせを伝えるために油を注がれたと読み上げられます(ルカ4章18節)。
- イエスは巻物を巻いて座られます。すべての目がイエスに注がれる中で、この聖書の言葉は、あなたがたが耳にした今日、成就したと宣言されます(ルカ4章21節)。ミリー・ファーガソンは、これを「とんでもない」ひと言だと表現します。
- これらの言葉は、何世紀も前に、荒れ果てたイスラエルに向けて語られたものでした。破壊されたエルサレム、崩れ落ちた神殿、捕囚、悲しみ、失望。何世代もの人々がこの約束を抱き、待ち、望み続けてきました。
- つまりイエスは、とてつもない宣言をされたのです。待ち望まれた日が来た、「わたしがその人だ」と。これは比喩でも、解釈にゆだねられたたとえ話でもありません。
3. イエスが行かれるところに、希望がついてくる
- イエスは宣教の間ずっと、誰も行きたがらない場所、いちばん助けを必要としている人々のところへ行かれます。
- 誰もが遠ざけていた重い皮膚病の人に触れて癒やされます(マルコ1章)。群衆が黙らせようとした盲人バルティマイの声を聞いて癒やされます(マルコ10章)。あらゆる社会的な壁を越えて、サマリアの女に話しかけられます(ヨハネ4章)。
- 十二年間病んでいた女性を「娘よ」と呼び、その尊厳を回復し、体を癒やされます(マルコ5章)。皆が裁く中で、罪深い女として知られていた女性をかばわれます(ルカ7章)。人々に嫌われていた取税人ザアカイの食卓に着かれると、ザアカイは財産の半分を貧しい人々に施し、脅し取ったものを返しました(ルカ19章)。
- ルカ10章では、善いサマリア人のたとえを語られます。助けてくれそうな人々は通り過ぎ、立ち止まったのは、誰もがいちばん期待しなかったサマリア人でした。彼は傷ついた人のところへ行き、傷の手当てをし、自分の家畜に乗せて安全な場所へ連れて行き、その治療費を払います。そしてイエスは言われます。「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10章37節、口語訳)。
- 「イエスにとって、病みすぎている人はいませんでした。貧しすぎる人も、恥じている人も、人気のない人も、複雑すぎる人も、遠すぎる人もいませんでした。」彼女にとってそれは、ほとんど磁石のようなものです。イエスは人々のほうへ向かわずにはいられないのです。
4. 遠くからイエスに従うことはできない
- だからこそ、こう問われます。「イエスが行かれた人々のところへ行かないのに、私たちはイエスの弟子だと言えるでしょうか。」誰かの居る場所にいなければ、その人に実際に従うことはできません。
- 遠くから思いやりを称賛することも、貧しい人々への配慮に賛成することも、社会の周縁にいる人々への愛を説くことも、「Build My Life」をあと百万回歌うこともできます。しかしイエスに従うとは、自分の人生がイエスの歩まれた方向へ向かうことです。
- 私たちが集まるのは、遣わされ、町の光となるためです。ほかの誰かがやってくれるだろうと考える余地はありません。「宣教と伝道は切り離せません。」ときには煩わしく、痛みを伴い、居心地が悪いこともありますが、それは傍観している理由にはなりません。
- 苦しんでいる人々のそばにいると、彼女はしばしば、イエスにある希望のほかに自分が差し出せるものがいかに少ないかを思い知らされます。「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。」(詩篇34篇18節、口語訳)
- 彼女は、二年半前に夫が重い病気になり、今も続いていることを打ち明けます。生活は一夜にして一変しました。「あれほどの絶望は経験したことがありませんでした。」けれども、イエスはこれまでにないほど近くにいてくださいました。「イエスにある希望がないなら、私たちには何が残るのでしょうか。」
- この希望は、「有害なポジティブ思考」でも、「きっと大丈夫」という励ましでもありません。私たちの希望は、十字架で死なれ、よみがえり、死と罪と恥に打ち勝たれたイエスです。そして、イエスがすでに苦しむ人々のそばにおられるなら、「私もそこにいたいのです。」
5. 聖なる中断に備える
- 具体的には、急いでいても通りを渡って泣いている女性のところへ行くこと、毎日前を通る路上生活者と五分間話したり祈ったりすること、いらいらさせられるけれど深く孤独な同僚を夕食に招くこと、悲しみの中にいる友のためにもう一歩踏み出すこと、などがあるでしょう。
- 「この部屋にいる一人ひとりが、希望を必要としている人に気づき、手を差し伸べ、仕えるために時間をささげたなら、私たちの町はどうなるでしょうか。聖なる中断に備えて生きていたら、どうでしょうか。」
- 三年前、スーパーの駐車場でエンジンをかけたまま、彼女は聖霊が「止まりなさい。大通りに戻りなさい」と語るのを感じます。最初は頭の中の声だろうと思い、行きたくありませんでした。それでも行くと、主は一人の女性に彼女の目を向けさせます。
- その女性は一時的な宿泊施設に入ったばかりで、すぐに、調子が良くないと打ち明けました。二人は話し、祈ります。時間がたつにつれて、ミリー・ファーガソンは、その女性の境遇が依存症に、そして路上での売春に至らせたことを知ります。神は、この女性とそっくり同じ状況にいるほかの女性たちのために彼女の心を砕き、その思いは三年間続いています。
- このメッセージの二日前、彼女は奇跡的に開かれた扉を通して、自分が住む地域で、弱い立場にあり搾取された女性たちのための働きを始めました。
- 彼女は、疲れや気の散り、邪魔されたくない気持ちから、こうした「聖霊の小さな促し」を何度も無視してきたことを認めます。「従順の向こう側には、私たちを待っているものがたくさんあると確信しています。」私たちの中のすべてが痛みを避けたがります。目を伏せ、歩き続け、一日をやり過ごそうとします。どこに希望を届けるべきかを主に尋ねてください。「ほとんどいつも不都合ですが、それだけの価値があります。」
- 彼女はマタイ25章で締めくくります。イエスは、飢えていたときに食べさせてくれたと言われます。イエスが再び来られるとき、飢えた人、病気の人、旅人、囚人が会話の中心になります。宣教の初めにイエスが行かれた人々は、イエスがすべての涙をぬぐいに戻って来られるときにも、やはり中心にいるのです。
6. 見ることを選ぶ
- ピート・ノリスが続けます。教会の一員であるなら、あなたは世界における神の宣教の一部です。彼の役目は、この呼びかけが実際にどう生きられるのかを考えるよう促すことです。
- バーミンガムに来る前、彼はデヴォン州の海辺の町に住んでいました。そこには深い社会的な困難があり、持つ者と持たない者との間に大きな隔たりがありました。通る道、選ぶ地区、避ける場所によって、そうしたことがまったく目に入らないまま過ごせることに彼は気づきました。
- だから今夜の招きは、町の中で希望を必要としている困難や場所を「見ることを選ぶ」ことです。
- 希望を届けることは、ひとりで生きるものでもあり、共同体として一緒に生きるものでもあります。彼は教会の働きを紹介する前に、エンブレイス(Embrace)やセーフ・ファミリーズ(Safe Families)など、町の団体の名前を挙げます。
7. ガス・ストリート・ホープ 希望を具体的にする
- ガス・ストリート・ホープは「ラブ・ユア・ネイバー(隣人を愛そう)」を引き継ぐ取り組みで、社会的な行動を教会の生活の中心に据え、すべての拠点に広げるものです。「これは、一部の人だけに任された小さな聖なるプロジェクトではありません。」日曜日に私たちが歌っていることを、月曜日から土曜日まで町の通りへ持ち出すことです。
- 六つの優先事項が働きを導いています。第一は食べ物へのアクセスです。レディウッドでは、相対的貧困の状態にある子どもの割合が2014年の39.2%から2023年には57%に上がり、ハートランズでは71%に達しています。ある教師は、昼食として水のボトルとビスケット一枚だけを持たされて登校した子どもの話をしてくれました。セント・ルークスの地域食料品店では、一家族が一週間分に相当する買い物を、わずかな金額でできます。
- 次に、孤立に立ち向かうためのコミュニティとつながりです。若い親たちのための遊びの時間(「ひとりぼっちではないはずなのに、これほど孤独だと感じたことはなかったかもしれません」)、共に囲む食事、ワークショップ、交流カフェがあります。
- そして経済的な支援と就労です。ボランティアの責任者が運営する借金相談センターがあり、苦しみや深い孤独の中にいる人々に寄り添ってくれる人を探しています。ほかにも、家族への支援(無料のクラブやパーティー、親向けの講座)や若者の受け入れがあります。2011年に町には約56のユースセンターがありましたが、その後43が閉鎖されました。
- 六つ目の優先事項は、ほかの五つに意味を与えます。信仰を探求できる場を提供することです。「希望そのものである方を指し示さないなら、こうした活動のすべては何の意味もありません。」ガス・ストリート・ホープの活動はすべて、誰かをほんの少しでもイエスに近づけることを目指しています。
- 彼は、どこにもたどり着かない「感情的、霊的な高ぶり」に警告を発し、一人ひとりに行動を起こすよう促します。そうしなければ、「家に帰って忘れてしまうでしょう。」
この記事のポイント
- ルカ4章で、イエスはイザヤの約束が成就したと宣言されます。イエスは、イスラエルが何世代も待ち望んだ希望そのものです。
- イエスは宣教の間ずっと、ほかの人々が避ける人々のところへ行かれます。イエスが行かれるところに、希望がついてきます。
- イエスのおられる場所にいなければ、イエスに従うことはできません。遠くから思いやりを称賛するだけでは足りません。「あなたも行って同じようにしなさい。」
- 私たちの希望は前向きな考え方ではありません。心の砕けた人々の近くにおられ、死んでよみがえられたイエスです。
- 町の必要を見ることを選び、不都合なときでも聖霊による聖なる中断を受け入れる必要があります。
個人への適用
- あなたの町の中で、意識的にでも無意識にでも、あなたが目を向けるのを避けている人や場所はどこですか。
- 忙しすぎたり、疲れていたり、邪魔されたくなかったりして、聖霊の促しを最後に無視したのはいつですか。
- 身近な人(隣人、孤独な同僚、悲しみの中にいる友人)のうち、今週あなたから希望のしるしを受け取れる人は誰ですか。
- 物事が取り去られるとき、あなたの希望は何の上に築かれていますか。
- 聞いたことを忘れてしまうのではなく、教会と共に仕えるために、どんな具体的な一歩を踏み出せますか。
引用された聖書箇所
- ルカ4章16〜21節
- イザヤ61章1〜2節
- マルコ1章40〜42節
- マルコ10章46〜52節
- ヨハネ4章1〜42節
- マルコ5章25〜34節
- ルカ7章36〜50節
- ルカ19章1〜10節
- ルカ10章25〜37節
- 詩篇34篇18節
- マタイ25章34〜40節
- 黙示録21章4節
よくある質問
ルカ10章の「あなたも行って同じようにしなさい」とはどういう意味ですか。
善いサマリア人のたとえのあと、イエスは聞いている人々に、立ち止まり、傷ついた旅人の手当てをし、安全な場所へ連れて行き、その費用を払った人と同じようにしなさいと言われます。ミリー・ファーガソンにとってこれは、イエスが行かれるところ、つまり苦しんでいる人々のところへイエスに従って行きなさいという呼びかけです。誰かの居る場所にいなければ、その人に従うことはできません。
ルカ4章で、イエスはなぜナザレの会堂でイザヤの書を読まれたのですか。
宣教の初めに、イエスはイザヤの約束を読まれます。貧しい人々への良い知らせ、捕らわれ人の解放、盲人の目が開かれること、虐げられている人々の自由です。そしてイエスは、この聖書の言葉が今日成就したと宣言されます。イスラエルは何世代にもわたってこの約束を待ち望んできました。イエスは、ご自分こそ約束された希望だと語られたのです。
「聖なる中断」とは何ですか。
ミリー・ファーガソンは、私たちの計画をかき乱す聖霊の小さな促しをこう呼んでいます。泣いている人のところへ通りを渡って行くこと、毎日すれ違う人と一緒に祈ることなどです。彼女は、駐車場でのそうした中断が、三年後に弱い立場にあり搾取された女性たちのための働きを始めることにつながったと語ります。
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