はじめに
「わたしたちは神の御手の中にいます。いつも神の御手の中にいるのです。」エリオ・ヴァリッキオーネ(Elio Varricchione)は、Chiesa ADI Milano Baggio でのメッセージをこの言葉で始め、ルカによる福音書の栄光に満ちた箇所、すなわちイエスの復活を読み上げます。
週の初めの日、主を愛し、いつも主に仕えていた女たちが、朝早く香料を持って墓へ向かいます。石はすでに転がされています。二人の人が現れて、こう告げます。「なぜ、生きた方を死人の中にたずねているのか。そこにはおられない。よみがえられたのだ」(ルカ24章5-6節)。
説教者によれば、この問いかけはあの女たちだけに向けられたものではありません。今日のわたしたちにも向けられています。あなたは、いのちをどこに探していますか。あなたの居場所はどこですか。
メッセージの流れ
1. 空の墓の前に立つ女たち
- 安息日が明けると、女たちは当時の習慣にしたがい、香料と香油を携えて、先生の遺体に敬意を表しに来ます。
- 石が転がされているのを見て戸惑います。「わたしたちでも同じようになっていたでしょう」と説教者は述べます。
- 恐れに打たれた女たちは、地に顔を伏せます。そのあとエルサレムに戻り、イエスはもう死んではおられない、力をもってよみがえられたと、使徒たちに最初に告げ知らせる者となります。
- 「墓は死を語り、墓所は死を語ります。」御使いたちの問いは、死の場所といのちの場所という二つの場所を対比させています。
2. ラザロ、そしてイエス:いのちは死に勝つ
- この出来事の少し前、イエスの友ラザロが亡くなっていました。墓の中にいる間、彼の体には死が支配し、においがするほどでした。
- イエスが来られると、石を取りのけさせるにあたって抵抗に遭いますが、いのちを失っていた者に新しいいのちを呼び起こされます。「死は打ち破られ、いのちが再び場を取り戻します。」
- イエスのからだは朽ち果てることがありませんでした(詩篇16篇10節)。それでもこの墓には、においが立ちこめていました。それは全人類の罪のにおいであり、キリストはわたしたちの病と痛みとともにそれを負われたのです(イザヤ書53章4節)。「人が自然の感覚では知ることのできないことを、霊の人は霊の感覚で知ります。」
- イエスはすでに語っておられました。自分にはいのちを捨てる権威があり、またそれを再び得る権威がある、と(ヨハネ10章18節)。その復活は勝利であり、主また救い主として受け入れた神のすべての子らの復活への備えとなります。
3. 死んでいたわたしたちを、神は生かしてくださった
- 主を知る前、わたしたちは皆、霊的に死んでいました。何によって殺されたのでしょうか。「罪という致命的な武器によってです。」
- 「罪は値引きをせず、罪は殺します。」罪は内側の部分、すなわち霊の部分を殺すのです。
- 神がラザロに肉体において行われたことを、わたしたちには霊において行ってくださいました。「あなたがたは先に、もろもろのとがと肉の無割礼とによって死んでいた者であるが、神はあなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいのとがをゆるして下さった」(コロサイ2章13節)。
- 説教者は強調します。わたしたちの経験にも価値はありますが、神のみこころを理解させてくれるのは、書かれた御言葉です。
- 復活したあと、ラザロは町で証人となりました。多くの人々が、イエスのためだけでなく、よみがえらされた人を見るためにも来たのです(ヨハネ12章9節)。「わたしたちにも同じことが起こるべきではないでしょうか。」
- エペソ2章4-6節も、これを裏づけています。あわれみに富む神は、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かしてくださいました。いのちを与える方は、罪の上にさらに罪を重ねて責められたのではありません。ありのままの自分を認めようとする心をご覧になったのです。
4. 罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた
- 「この空の墓は、わたしたちをいのちへと押し出します。」イエスの死を通して、現在のいのちへも、永遠のいのちへもです。
- 説教者は、この教ローマ5章20節に立ち返り、それを自分のこととして語ります。「わたしの罪が増し加わったところには、わたしに対する神の恵みはなおいっそう満ちあふれた。」神は罪の多さの前で立ち止まらず、介入すべき急務をご覧になったのです。
- ローマ6章3-4節。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けたわたしたちは、その死にあずかるバプテスマを受けました。「それは、キリストが父の栄光によって死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに歩くためである」(ローマ6章4節)。
- 新しく生まれることの目的は、「だいたい以前のまま」にただ生き延びることではありません。いのちが新しいのは、とりわけ、だれが主導権を持つかという点においてです。
- 信じる者は、イエスが乗っておられる小舟のようなものです。舵を取られるのはイエスであり、わたしたちを転覆させることも、無理強いすることもありません。愛の犠牲を前にして、応えられるのは愛だけです。「主よ、わたしのいのちをすべてあなたにゆだねます。」
5. わたしたちは神と共に永遠を過ごすのではなく、神と共に生きる
- 「よく聞いてください。わたしたちは神と共に永遠を過ごすのではありません。神と共に生きるのです。」それは、心地よい生活を新しい天と新しい地へ移すことではなく、神によるいのちの意味を、ついに余すところなく生きることです。
- わたしたちは自分の目でその方を見、アブラハム、イサク、ヤコブと共に食卓につきます(マタイ8章11節)。「主は、これらの言葉の背後にあるものをご存じです。」
- それまでの間にも、今のいのちがあります。この地上にあって、そのいのちは新しいいのちの歩みによって特徴づけられるべきです。
- 「歩く」という動詞は、前進と、絶えず近づいていくことを表しています。「わたしはこうしていたが、こうすべきだった」と省みながら、いつも主のもとへ近づいていくのです。
6. 世を愛してはならない:いのちのない場所にいのちを探さない
- 使徒ヨハネは、当時の教会、のちに続く教会、そして今日のこの共同体に、こう勧めます。「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない」(1ヨハネ2章15節)。
- 二つの愛が同時にあることはできません。肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではありません。「世と世の欲は過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(1ヨハネ2章16-17節)。
- 「いのちを愛しながら、同時に死を愛することはできません。」神の恵みによって、この世の霊という病んだ毒水を飲むことをやめたのなら、渇きをいやそうとして再びその泉に戻ってはいけません。
- ここで、御使いたちの問いがわたしたちの人生に重なります。「わたしが教えるいのちのことを、死人の中に探してはならない、とイエスは言われます。その『もっと』を間違った場所に探さず、わたしがあなたの内に置いた現実を求めなさい。」
- イエスは教会を孤立させるよう求めてはおられません。父に祈られたのは、わたしたちを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることでした(ヨハネ17章15節)。悪い者は、主が置いてくださった場所以外のところにわたしたちがいることを望むからです。
- その場所とは、主の教会、主のからだです。地域の集まりだけでなく、「いのちのある場所である、正しい場所」のことです。
7. つながりに気をつけ、光であり続ける
- 2コリント6章14-17節を読む前に、説教者は、聖書のどの箇所もわたしたちに不快に感じられることがないようにと祈ります。これらの言葉を霊感した方は、聖書全体を霊感した同じ御霊であり、神は父として、その子らに平和の思いだけを抱いておられるからです。
- 「不信者と、つり合わないくびきを共にするな。」義と不義とに何のつながりがあるでしょうか。光とやみ、キリストとベリアル、神の宮と偶像とに何の関わりがあるでしょうか。「わたしたちは、生ける神の宮である。」
- これは、子らを見つめる父の、きびしい言葉です。「わたしを先頭に、一人ひとりが、自分のつながり、選択、交わる人々に気をつけましょう。」恋愛関係に限らず、あらゆる分野においてです。
- 一方がキリストに属し、もう一方が属していないとき、問われているのは、一方ではいのち、他方では死です。主がわたしたちのためにしようとしておられることの妨げに、自分自身がなってしまう選択は、わたしたちの居場所ではありません。
- わたしたちは世にとどまりますが、受け身ではありません。「ともしびをともしたまま」、向こう側に引き込まれるのではなく、だれかをやみから引き出すために、自分の声ではなく、御言葉と聖霊によって歩むのです。
- これこそ、神のすべての子どもたちの召しです。主の声に耳を傾け、それを実行し、魂を救いに導いて、彼らが死からいのちへと移るようにすることです。
要点
- 墓は空です。イエスは生きておられ、その復活は、イエスを信じるすべての人の復活への備えとなります。
- わたしたちは罪によって霊的に死んでいました。神は、ただ恵みによって、キリストと共にわたしたちを生かしてくださいました。
- 新しく生まれることには目的があります。イエスを舵取りとして、新しいいのちに歩むことです。
- 世を愛することと父を愛することを、同時にはできません。死人の中にいのちを探してはいけません。
- あなたの居場所は、いのちの場所である教会であり、また魂を勝ち取る光としての世の中です。
ふりかえりの質問
- 今日、あなたは渇きをいやすものをどこに求めていますか。キリストにですか、それとも離れたはずの泉にですか。
- あなたも「わたしの罪が増し加わったところには、わたしに対する神の恵みはなおいっそう満ちあふれた」と言えますか。
- 今、あなたの人生の舵を握っているのはだれですか。まだ自分のために取っておいている分野はありませんか。
- どんなつながりや交わりが、主が与えてくださった居場所からあなたを遠ざけていますか。
- ラザロのように、あなたの新しいいのちは、だれかをイエスへと引き寄せていますか。今週、だれに証しできるでしょうか。
引用した聖句
- ルカ24章1-9節
- ヨハネ11章
- 詩篇16篇10節
- イザヤ書53章4節
- ヨハネ10章17-18節
- コロサイ2章13節
- ヨハネ12章9-11節
- エペソ2章4-6節
- ローマ5章20節
- ローマ6章3-4節
- マタイ8章11節
- 1ヨハネ2章15-17節
- ヨハネ17章15節
- 2コリント6章14-17節
よくある質問
ルカ24章の「なぜ、生きた方を死人の中にたずねているのか」とはどういう意味ですか。
御使いたちは、墓に来た女たちに、イエスはもうここにはおられない、よみがえられたのだと告げます。エリオ・ヴァリッキオーネによれば、この問いはわたしたちにも関わっています。死が支配する場所にいのちのことを探さず、主があなたの内に置かれたいのちを求めなさい、ということです。
霊的に死んでいて、そこから生かされるとはどういうことですか。
主を知る前、だれもが霊的に死んでいました。罪という致命的な武器に殺されていたのです。コロサイ2章13節にあるとおり、神はわたしたちのすべてのとがをゆるして、キリストと共に生かしてくださいました。この新しく生まれることの目的は、新しいいのちに歩むことです(ローマ6章4節)。
新しいいのちを生きるために、世を離れなければなりませんか。
いいえ。説教者は、イエスが父に願われたのは、ご自分の民を世から取り去ることではなく、悪から守ってくださることだったと述べます(ヨハネ17章15節)。信じる者は、ともしびをともしたまま世にとどまりますが、世を愛さず(1ヨハネ2章15-17節)、自分のつながりに気をつけます(2コリント6章14-17節)。