マタイ6章:日ごとの糧と日ごとの赦し

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はじめに

「心が正しければ、祈りも正しくなります。」グラスゴーにあるThe Tron Churchの主任牧師ウィリアム・フィリップ(William Philip)は、主の祈りの連続説教を続けています。祈りの前半は、神を父として呼び、御国が来ること、御心が行われることを求めることを教えてくれました。

しかし、クリスチャンは主イエスが再び来られるまで、地上に生きる存在です。必要が満たされなければなりません。祈りの後半はそのことを語っています。「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイによる福音書6章11〜12節)。

説教者はここに、神が与えてくださるものを認める二つの願いを見ます。その日ごとの食物と、その日ごとの赦しです。荒野のマナの物語と、赦さない家来のたとえ(マタイによる福音書18章21〜35節)を通して、この二つの願いに光を当てています。

メッセージの流れ

1. 御国に向けられた祈り

  • 主の祈りを、その文脈から切り離してはいけません。これらの章の教え全体は、一つの優先順位に向かっています。地上のあらゆるものよりも先に、神の国を求めることです。
  • 25節からイエスは、神を父として知らない人々に典型的な思い煩いを描いています。異邦人はこれらのものをみな求めていますが、「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」(32節)。
  • 私たちは父を知っているので、信頼することができ、まず神の国と神の義とを求めることができます。そうすれば、それに加えて、そのほかのものはみな与えられるのです(33節)。
  • 私たちの主人は、多くの人を奴隷にするこの世の「不正な利得」ではなく、天におられる愛の父です。ですから、私たちの思いは天の宝へと向かうことができます(19〜24節)。

2. 日ごとの糧は神が備えてくださると認める

  • 学者たちは、これが今日のパンなのか明日のパンなのかを議論します。牧師は笑って言います。「博士号という病にかかっていない普通の人」なら、イエスの言わんとすることが分かります。大切なのは、絶えず神に頼ることです。
  • 日ごとの糧は、生活に必要なものすべてを指す言い方です。食べること、飲むこと、着ること。神は「食べ物、衣服、住まい、そしてガス代のためのお金」を備えてくださいます。
  • 牧師は、この節の初めに「あなたが」を付け加えてはどうかと提案します。「あなたが、わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」それは願うことであると同時に、与えてくださるのは神であると認めることです。
  • 新約聖書は、あらゆることにおいて感謝するようにと繰り返し告げています。「それには理由があるはずです。私たちが生まれつき感謝する者だとは思えません。実際、そうではないと知っています。私は確かに、生まれつき神に感謝する人間ではありません。」
  • このように祈ることは、こう言うことです。「主よ、私たちの欲しいものとは限りませんが、必要なものを備えてくださると信頼します。しかも私のやり方ではなく、あなたのやり方で。」

3. 神のパンを、神のやり方で

  • これを拒むことが罪の本質です。エデンの園で、神は感謝して受けるべき豊かな良いものを差し出し、ただ一つだけ例外を置かれました。神に背く道です。そして人間が選びたがるのは、まさにその道なのです。
  • エデンから21世紀のヨーロッパまで、人は神の賜物を自分のやり方で欲しがって、ゆがめてきました。牧師は、結婚の中で与えられた神のすばらしい賜物である性を例に挙げます。「賜物はありがとう。でも結婚はいらない、自分たちのやり方でやる。」
  • 出エジプト記16章で、神はマナを与えられます。それは蜜入りのせんべいのような味でした。説教者は、ウエハースと蜂の巣を持ってきてくれた教会学校の先生を思い出して言います。「あのことは今も忘れられません。」
  • 神は民に、一日分だけ集めるようにと言われます。民は翌日のために取っておきましたが、朝には虫がわいていました。次に神は、安息日に休めるよう、その前日には二倍集めるようにと言われます。民はそうせず、安息日には何も見つかりませんでした。「あなたがたはいつまで、わたしの戒めと教とを守ることを拒むのか」(出エジプト記16章28節)。
  • 申命記8章3節に示されています。人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きるのです。私たちに必要なのはパンだけではなく、「神のパンを、神のやり方で」いただくことです。
  • これは荒野でのイエスの祈りでもあります(マタイによる福音書4章3〜4節)。悪魔は、自分のやり方でパンを差し出します。この石がパンになるように命じなさい、と。イエスは申命記の言葉で答えられました。
  • それは食べ物にも、衣服にも、仕事にも、さらには結婚相手を望む思いにも当てはまります。これらのことを祈るのは悪いことではありませんが、神のやり方で、神の時に待ち望まなければなりません。

4. 賜物を受けながら、それを拝まない

  • 聖書は、神の良い賜物を軽んじる禁欲主義者に私たちを変えるものではありません。パウロはテモテに、そのような教えは悪霊の教えから出たものであり、神が造られたものはすべて感謝して受けるべきだと書いています(テモテへの第一の手紙4章1〜4節)。
  • しかし、これらのものを拝んだり、それらのために生きたりしてはなりません。パウロは「彼らの神は腹であり」という人々について語っています(ピリピ人への手紙3章19節)。マナは味わうべきものでしたが、過ぎ去るものでした。
  • 地上のパンは、天のパン、いのちのパンを思い出させるものであるべきです。イエスのもとに来る者は決して飢えることがなく、イエスを信じる者は決して渇くことがありません(ヨハネによる福音書6章35節)。
  • だからクリスチャンは食事の前に感謝をささげます。「私たちは食べ物を祝福するのではありません。食べ物を祝福することはできません。私たちは感謝するのです。」今日のパンへの感謝は一つひとつ、私たちに永遠のいのちを与えるために天から下ったパンを思い起こさせます。

5. 日ごとの赦しを求める

  • 第二の願いは、さらに重要です。それには切り離せない二つの部分があります。赦しを経験すること(「わたしたちの負債をもおゆるしください」)と、赦しを表すこと(「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように」)です。
  • 「人は、必要のないものを求めたりしません。」赦しを求めるとは、自分にはそれが必要であり、その赦しは自分からではなく、神からしか来ないと認めることです。
  • それはまた、神が約束されたことそのものを求めることでもあります。イエスは、ご自分の民をその罪から救うために来られ、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と言われます(マタイによる福音書7章7節)。「神は、与えると約束されたまさにそのものを、私たちが求めることを喜ばれます。」それが信仰です。
  • 旧約聖書のいけにえは、一つひとつがこう語っていました。「主よ、約束されたあわれみを思い出してください。」神殿の奉献のとき、ソロモンは祈ります。あなたのすまいである天で聞き、聞いてゆるしてください(列王紀上8章30節)。
  • このように求めることは、真の悔い改めを表すことでもあります。自分の無力さを認め、へりくだって近づき、御霊に心を変えていただいて、もう一度イエスの足跡を歩むことを願うのです。

6. 受けた赦しは人へと伝わる

  • 「はっきりさせておかなければなりません。」イエスは、悔い改めが赦しの前提条件だと言っているのではありません。私たちが敵であった時に、神は私たちを御自身と和解させてくださいました(ローマ人への手紙5章10節)。それは、あわれみによる主権的な行いでした。
  • けれども、悔い改めはその必然的な結果です。牧師はそれを微笑みにたとえます。微笑むことは幸せの条件ではありませんが、幸せな人は自然と微笑みます。同じように、理論の上では気前がよく、実際にはけちだという人はいません。
  • 「神の赦しは、私たちが受け取る商品ではなく、私たちが経験する、造り変える力です。」あなたの宝のある所には、心もあるからです(マタイによる福音書6章21節)。
  • マタイによる福音書18章のたとえでは、ある家来が一万タラントの負債を負っていました。説教者によれば「20万年分の賃金」にあたり、イギリスの国家債務に迫り始めるほどの額です。その負債は免除されます。ところがこの家来は、百デナリ(数か月分の賃金)を借りていた仲間の首を絞め、牢に入れさせます。
  • その無慈悲な心は、受けた並外れたあわれみによって自分が変えられていないことを示しています。「彼は本当には主人を知らなかったのです。」34節は厳粛です。彼は獄吏に引き渡されます。マタイによる福音書6章14〜15節が強調しているのは、このことです。

7. 心の診断

  • 赦さない心は、天のものではなく、地獄のもの、偽りの父である悪魔のものです。この世では、復讐はしばしば甘いものです。ウォルター・スコットの言葉を借りれば「地獄で調理されたもっとも美味な一口」(the tastiest morsel ever cooked in hell)です。だから、争いごとや離婚を扱う弁護士は仕事に困ることがありません。
  • 私たちが受ける赦しを通して、私たちは神の心を世に語ります。私たちが与える赦しを通して、私たちは自分自身の心について真実を語ります。
  • ウィリアム・フィリップは、かつて心臓専門医でした。患者が診察室に入ってきた瞬間に、病んだ心臓だと分かることがよくありました。顔色、呼吸、首、足首からです。心不全は、ひと目で診断しやすい病気です。
  • 14節と15節は、そのような診断です。14節は、健やかで、赦す用意のある心、「赦したくてたまらない」心を描いています。15節は、頑なになった心を描いています。その心は、自分をクリスチャンと呼び、「主よ、主よ」と言い、主の名によって奇跡を行うことさえあるかもしれません。しかしイエスは、その人にこう言わなければなりません。あなたがたを知らない(マタイによる福音書7章21〜23節)。
  • 赦しは受け取られなければなりません。赦されることを拒む人を赦すことはできません。それでも、私たちは赦す用意をしていなければなりません。
  • 神の赦しは欲しくても、赦しの神を自分の人生に迎えたくない人がいます。多くの場合、ただ罪責感から解放されたいだけです。「その両方か、さもなければどちらでもない、のです。」

心に留めたいこと

  • 日ごとの糧を求めるとは、毎日神に頼り、すべては神から来ると感謝をもって認めることです。
  • 神は、神のやり方で、神の時に、私たちの必要を満たしてくださいます。罪とは、神の賜物を自分のやり方で欲しがることです。
  • 神の賜物は感謝して受けるものであり、決して拝むものではありません。今日のパンは、いのちのパンを思い起こさせます。
  • 神の赦しは商品ではなく、造り変える力です。それを受けた人は、今度は自分が赦します。
  • 赦すことを拒む心は、神のあわれみによってまだ変えられていない心を表しています。

個人的な適用

  1. 最後に、食べ物や住まいや仕事について、意識して神に感謝したのはいつですか。
  2. どの分野(お金、仕事、結婚相手を望む思い)で、神の賜物を神のやり方ではなく自分のやり方で欲しがりたくなっていますか。
  3. それ自体を目的として追い求めるようになり、神の座を占めてしまった良いものはありませんか。
  4. 今日、赦すのが難しい人は誰ですか。あなたが免除された大きな負債は、そのことについて何を語っていますか。
  5. あなたはただ罪責感から解放されたいだけですか。それとも、赦しの神を本当に人生に迎えたいですか。

引用された聖書箇所

よくある質問

「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」とはどういう意味ですか。

ウィリアム・フィリップによれば、日ごとの糧とは、生きるために必要なものすべてを指します。食べ物、衣服、住まい、支払いのためのお金です。これを毎日求めることは、絶えず神に頼り、備えてくださるのは神であると、神のやり方で、神の時に、感謝をもって認めることです。

神に赦されるためには、他の人を赦さなければなりませんか。

説教者は、悔い改めは赦しの前提条件ではないと述べています。神は、私たちがまだ敵であった時に、私たちを御自身と和解させてくださいました。けれども、悔い改めと、他の人に与える赦しは、その必然的な結果です。微笑みが喜びにいつも伴うのと同じです。赦すことを拒む心は、まだ変えられていないことを示しています。

赦さない家来のたとえは、何を教えていますか。

マタイによる福音書18章21〜35節では、ある家来が返しきれない負債から解放されますが、その後、百デナリを借りていた仲間を牢に入れさせます。ウィリアム・フィリップによれば、その無慈悲な心は、受けたあわれみによって一度も造り変えられておらず、本当には主人を知らなかったことを示しています。

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