なぜ健やかな自己イメージは自分で作り出せないのか
北山牧師は、神戸キリスト栄光教会の会衆に対して、直接的な問いを投げかけることでメッセージを始めました。「あなたは健やかな自己イメージを持っていますか。」彼はこの問いを何度も言い換えました。それが、とても個人的な部分に触れるものだからです。世の中には、比較や、傷つける言葉や、学業や家庭での挫折によって傷つき、自分自身についてあまりにも低いイメージを抱いている人が多くいます。そしてクリスチャンもその例外ではありません。彼らもまたこの世界に生きており、そうした言葉を耳にし、その打撃を受けているのです。
北山牧師は、子どもの頃の二つの思い出を分かち合いました。小学五年生のとき、体調が悪くて学校のトイレに逃げ込んでいたところ、同級生たちがやって来て彼をいじめ始めました。彼はついにその一人をつかまえ、心の中でこう呪文のように繰り返していました。「僕は強いんだ、本気を出しちゃいけない。僕は強いんだ、本気を出しちゃいけない。」少し滑稽ではありますが、実に本物の、ふくらみすぎた自己イメージでした。それとは反対に、彼は毎年、学校の持久走を恐れていました。遅く、息が切れ、みんなの視線の中でびりになるのです。そこでは、自己イメージは地に落ちていました。
その日曜日に彼が伝えたかったメッセージはシンプルです。本当に健やかな自己イメージは、あなたの実績からも、あなたの失敗からも、他人があなたについて考えることからも築かれるものではありません。それは、別のところから受け取るものなのです。そして、その「別のところ」には、聖書の中にとても具体的な名前があります。イエス・キリストの血です。神の御前で、そして自分自身の前で、あなたに正しいアイデンティティを取り戻させてくれるのは、この血の力と恵みなのです。
メッセージの構成
1. イエスの血は私をすべての罪からきよめる(1ヨハネ1章7節)
北山牧師は、とてもシンプルな問いから始めました。なぜ聖書はこれほどまでに血について語るのでしょうか。日常生活の中で、あなたはこの言葉を使いません。転んで膝をすりむいたとき、「ああ、血が流れている」と厳かに言ったりはしないでしょう。「血」という言葉は、とりわけ教会の中でよく出てきます。ではなぜ、聖書はこれほどこの言葉にこだわるのでしょうか。
最初に読まれたのは、ヨハネ19章34節です。「しかし、兵士のひとりが、槍でわきばらを突き刺すと、すぐに血と水が出て来た。」これは、十字架の後に明確に言及される、イエスの最初の血であり、クリスチャン生活全体を読み解く鍵となるのです。
続いて1ヨハネ1章5節から9節です。神は光であり、神の内には闇が全くありません。もしあなたが神との交わりがあると言いながら闇の中を歩むなら、それは偽りです。しかし、神ご自身が光の中におられるように、あなたも光の中を歩むなら、「御子イエスの血が私たちをすべての罪からきよめます」。
北山牧師は強調しました。この聖句はあなたを罪に定めるためのものではなく、あなたを安心させるためのものです。洗い流せないほど大きな罪はありません。キリストの血より強い汚れはありません。そして彼は、大切な点を明確にしました。この血は、あなたの回心のときにただ一度だけ適用されたのではありません。その力は永遠です。それは、あなたが自分の罪を認め、告白するたびに、日々あなたの人生に適用されます。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、私たちの罪を赦してくださいます。」
彼はまた、多くの人が忘れがちな一つのニュアンスを思い起こさせました。イエスへの信仰によって、あなたは義と宣言されますが、この地上に生きている限り、罪の性質はあなたの内に残り続けます。だからこそ、血は新しい犠牲としてではなく、限りなく更新され続ける同じ恵みとして、あなたの人生の上に流れ続けなければならないのです。
2. すでに旧約聖書で予告されていた救いの血(出エジプト記12章13節)
出エジプト記12章13節。「その血は、あなたがたのいる家々で、あなたがたのためのしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたを過ぎ越そう。滅ぼす災いはあなたがたには起こらない。」
北山牧師は、この場面を思い起こさせました。神は、エジプトに最後の災いを下そうとしておられました。神はイスラエルに、傷のない子羊を取り、その血を流して、二本の門柱と鴨居に塗るようにと命じられます。そして神はこう言われます。「わたしはその血を見て、あなたがたを過ぎ越そう。」
牧師は、あなたが見落としがちな一つのことを強調しました。神は「わたしはその家にいる人々を見よう。彼らの努力、彼らの誠実さ、彼らの評判を見よう」とは言われません。「わたしはその血を見よう」と言われるのです。もし神が住人たちの行い次第でお決めになっていたなら、あの夜、誰一人として救われなかったでしょう。彼らを救ったのは彼らの功績ではなく、信仰によって適用された、彼らの外にあるしるしなのです。
北山牧師は、直接的なつながりを示しました。イエスへの信仰によって、この完全な子羊の血が、あなたの人生の門に塗られたのです。父があなたを見つめるとき、まず御子の血をご覧になります。あなたがふさわしく受けるはずだったさばきを、あなたの上から過ぎ越させるのは、この血なのです。健やかな自己イメージは、まさにここから始まります。あなたを受け入れられる者とするのは、あなたの実績ではなく血なのだと理解するときです。
3. あなたを罪の力から解放する血(黙示録1章5節、エペソ1章7節)
黙示録1章5節。「私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解放してくださった方に。」そしてエペソ1章7節。「私たちは、この御子にあって、その血による贖い、すなわち罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」
北山牧師は、「贖い」という言葉の意味を思い起こさせました。それは、代価を払って買い戻すことです。あなたは、市場にいる捕らわれ人のように、罪の奴隷でした。イエスは、あなたを解放するために、考えられる最も高い代価、すなわちご自分の血をもって、その代価を払われました。そして、この解放は、本文が明確にしているように、贈り物です。「神の豊かな恵みによる」ものです。それはあなたの良い行いへの報酬ではありません。一方的な贈り物なのです。
ここで牧師は、自分自身の証しを語りました。彼が二十歳を少し過ぎた頃、弟を助手席に乗せて車を運転していました。坂道で、彼は前に進めると思いましたが、前の車が動いていませんでした。小さな衝突でした。大したことはありません。弟は彼にささやきました。「謝るなよ、謝ったら負けだぞ。」しかし北山牧師は、もっと素直に、車から降りて相手の男性に謝罪しました。その相手は、とても忙しく、急いでいる企業の経営者で、時間を取られることに少しいらだちながらもこう言いました。「気にしなくていいよ。一緒に警察に行って、片づけて出発しよう。」
その後の数日間、北山牧師は気になって仕方なく、週に何度も電話をかけて様子を尋ねました。「お元気ですか。どこか痛いところはありませんか。」何度か電話をかけた後、ついに彼はその男性本人につながり、その男性は少しうんざりした様子でこう言いました。「あのときすでに許したよ。もう電話してこないでくれ。忙しいんだ。」
北山牧師は、それを愛情のこもった平手打ちのように受け止めました。その男性は、初日にすでに「もういいよ」と言ってくれていたのです。それなのに彼は、その赦しを受け取ることができませんでした。謝り続け、自分の過ちを引きずり続け、自分を罰し続けていたのです。これこそまさに、多くのクリスチャンが神に対してしていることだ、と彼は言います。主はすでにこう宣言しておられます。「あなたは自由だ。あなたは赦されている。あなたはわたしの子どもだ。」それなのにあなたは、まるでその血が十分でなかったかのように、自分の罪に縛られたままでいるのです。
牧師は、そこであなたに心に留めてほしい一言を語りました。「あなたの過ちの力は、キリストの血の力よりも小さい。」もしイエスがあなたを自由にしてくださったのに、なおも奴隷のように生きているなら、あなたは恵みを見過ごしてしまっているのです。
4. 動物や被造物に至るまで、すべてを和解させる血(コロサイ1章19節から22節)
コロサイ1章19節から22節は、めまいがするようなことを告げています。十字架の血によって、キリストは平和を打ち立て、「地にあるものであれ天にあるものであれ、万物をご自分と和解させ」られたのです。血の及ぶ範囲は、人間をはるかに超えています。それは被造物全体に触れるのです。
北山牧師は、この和解について、四つのことを強調しました。
- その主導権は、完全に神にあります。あなたが優しかったから神に近づいたのではありません。最初の一歩を踏み出されたのは神なのです。
- 文法的に、本文は完了形です。和解はすでに成し遂げられています。あの事故の男性のように、「もう許したよ」というわけです。やり直す必要はありません。
- この和解は、ただ十字架で流された血にのみ基づいています。あなたの霊的な訓練にも、あなたの誓いにも基づいていません。
- その及ぶ範囲は、宇宙全体を覆います。猫も、犬も、動物たちも、天も地も、この救いのご計画から漏れるものは何一つありません。
5. あなたに確信をもって神への道を開く血(ヘブル10章19節から22節)
ヘブル10章19節から22節。「こういうわけで、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆に聖所に入ることができます……真心から、確信に満ちた信仰をもって、神に近づこうではありませんか。」
北山牧師は、旧い契約においては、大祭司が神の臨在に近づくために祭壇の角に血を塗っていたことを思い起こさせました。血は、罪が覆われ、道が再び開かれたしるしでした。今日では、もはや動物の血ではなく、イエスの血が、あなたにこの「大胆な入場」を与えてくれます。もはや垂れ幕もなく、隔ての壁もありません。道は開かれているのです。
「近づく」とは、礼拝の言葉です。それは、礼拝すること、神の御前に立つこと、神に語りかけること、神から受け取ることへの招きです。そして、この近づきは、確信をもってなされます。あなたがついに立派な人間になったからではなく、イエスがご自分の犠牲によってそれを可能にしてくださったからです。
覚えておきたいポイント
- 健やかな自己イメージは、あなたが自分自身に抱く評価によってではなく、キリストの血があなたのために獲得してくださったものによって作られます。
- イエスの血は、あなたが告白し主のもとに立ち返るたびに、例外なくすべての罪をきよめます。
- 神は、あなたを救うために、あなたの功績を見ておられるのではありません。信仰によってあなたの人生に適用された血を見ておられます。
- あなたはもはや罪の奴隷ではありません。なおも鎖につながれていると感じ続けることは、すでに与えられている恵みを拒むことなのです。
- この血によって、あなたは神への直接の道を持っています。今日、ありのままのあなたのままで、確信をもって神に近づくことができます。
自分への適用
- 今朝のあなたは、自分についてどのようなイメージを抱いているでしょうか。高すぎるでしょうか、低すぎるでしょうか、それとも十字架に根ざしているでしょうか。
- 神がすでに赦してくださっているのに、あなたが一人で自分を罰し続けている罪はないでしょうか。
- まるでキリストの血がその人にとっても十分でなかったかのように、あなたが赦しを拒んでいる相手はいないでしょうか。
- もし、あなたの価値が実績にではなくこの血に基づいていると本当に信じたなら、あなたの一週間はどのようなものになるでしょうか。
- 道が開かれていることを思い起こしながら、今日、祈りの中で神に近づく時間を取ることができるでしょうか。
引用された聖句
- ヨハネ19:34・イエスのわきばらから血と水が出る。
- 1ヨハネ1:5〜9・イエスの血は私たちをすべての罪からきよめる。
- 出エジプト記12:13・「わたしはその血を見て、あなたがたを過ぎ越そう。」
- エペソ1:7・その血による贖い。
- 黙示録1:5・キリストはその血によって私たちを罪から解放された。
- コロサイ1:19〜22・十字架の血によって万物を和解させる。
- ヘブル10:19〜22・イエスの血による聖所への大胆な入場。
- ガラテヤ2:20・「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
よくある質問
イエスの血は、回心する前の罪だけでなく、今日の私の罪も赦してくれるのでしょうか。
はい、赦してくれます。北山牧師は何度もこう思い起こさせました。キリストの血の力は永遠です。それは、あなたが自分の過ちを告白するたびに、日々適用されます。1ヨハネ1章9節は、初めの日と同じように今日も、神があなたを赦しきよめてくださる真実で正しい方であることを約束しています。
なぜ聖書はこれほどまでに「血」という言葉にこだわるのでしょうか。
血は、あなたの代わりに流されたいのちを表しているからです。血を流すことなしには、赦しはありません(ヘブル9章22節)。エジプトの過越から十字架に至るまで、神はこのしるしを用いて、あなたの救いには一つのいのち、すなわち恵みによって献げられたイエスのいのちという代価がかかっていることを示しておられるのです。
日々の生活の中で、健やかな自己イメージをどのように生きればよいのでしょうか。
誇り高くあろう、あるいは謙遜であろうと、より一生懸命努力することによってではなく、定期的にキリストの血の前に立つことによってです。あなたが愛され、贖われ、自由にされ、養子とされていることを思い起こしてください。このアイデンティティは、賞賛にも失敗にも左右されません。それは、すでにイエスの血によって刻印されているのです。
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