聖書 — 口語訳 (1955)
ヨハネによる福音書 12
概要
ヨハネによる福音書12章は、過越の祭の直前の日々を語ります。ベタニヤで、マリヤが非常に高価な香油をイエスの足に注ぎます。翌日、群衆はエルサレムでイエスを歓呼して迎え、イエスは子ろばに乗って入られます。ギリシヤ人たちがイエスに会いたいと願い、イエスは時が来たと告げ、一粒の麦は死ななければ実を結ばないと語られます。そして十字架に上げられることを語り、光の中を歩むよう招かれます。しるしがあっても、多くの人は信じません。イエスは、世を救うために来たと言って結ばれます。
この章の6つの区分
1過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
2イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
3その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
4弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
5「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
6彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
7イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
8貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
9大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
10そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。
11それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。
12その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、
13しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
14イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
15「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王が ろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。
16弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。
17また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。
18群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを行われたことを、聞いていたからである。
19そこで、パリサイ人たちは互に言った、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。
20祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。
21彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
22ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。
23すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。
24よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
25自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
26もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。
27今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
28父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
29すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
30イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。
31今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
32そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。
33イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。
34すると群衆はイエスにむかって言った、「わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになるのだ、と聞いていました。それだのに、どうして人の子は上げられねばならないと、言われるのですか。その人の子とは、だれのことですか」。
35そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
36光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。
37このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。
38それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。
39こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、
40「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。
41イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。
42しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。
43彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
44イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、
45また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。
46わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。
47たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
48わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。
49わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
50わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。
鍵となる聖句
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
マリヤは非常に高価な香油をイエスの足に注ぎ、自分の髪でぬぐいます。その行いは惜しみない礼拝であり、イエスは非難に対してそれを擁護されます。
しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
群衆は詩篇118篇の言葉でイエスを歓呼し、イスラエルの王として迎えます。多くの説教者が、この歓呼には、イエスがどのような王として来られたのかについての誤解が一部含まれていると指摘します。
彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
ギリシヤ人たちの、イエスにお目にかかりたいという願いは素朴ですが、イエスがご自分の栄光の時について答えるきっかけとなります。神を求めるすべての人の祈りにもなっています。
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
イエスは一粒の麦のたとえを用いられます。死ななければ一粒のままですが、死ねば多くの実を結びます。ご自分の死の意味と、弟子たちの歩む道を、そこで告げておられます。
わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。
イエスは、世に来た光としてご自分を示されます。ご自分を信じる者が、やみの中にとどまることのないためです。
この章に登場する人物
このテーマで祈る
説教が語っていること
ヨハネによる福音書12章についてよくある質問
ヨハネ12章は何を意味しますか
ヨハネ12章は、十字架へ向かって進まれるイエスを示します。マリヤが注いだ香油、歓呼されたエルサレム入城、ギリシヤ人たちの願いは、一粒の麦が死んで実を結ぶという中心の宣言を準備します。イエスは救うために来た世の光としてご自分を示され、多くの人は信じることを拒みます。
死ぬ一粒の麦のたとえは何を意味しますか
24節で、イエスはご自分の死を、地に落ちる一粒の麦にたとえます。そのままでは何も生みませんが、地に蒔かれれば多くの実を結びます。ご自分の死が多くの人にいのちを与えることを告げる言葉です。25節は、このたとえを従う者たちに当てはめ、自分のいのちに固執しないようにと招いています。
なぜ群衆はイエスにホサナと叫んだのですか
祭のために来ていた群衆は、詩篇118篇の言葉でイスラエルの王を歓呼しました。多くの人が政治的な解放者を待ち望んでいたが、イエスは平和の王のしるしである子ろばに乗って入られた、と指摘する説教者もいます。福音書は、これらの出来事の意味を弟子たちが理解したのは、イエスが栄光を受けられた後だったと伝えています。
ヨハネ12章21節の、イエスにお目にかかりたいとはどういう意味ですか
祭に礼拝に来たギリシヤ人たちが、ピリポにイエスのもとへ案内してほしいと頼みます。本文は彼らの動機を語りませんが、この願いが、イエスの栄光の時についての答えの糸口となります。誰もが神にささげることのできる祈りだと見る人も多くいます。
ヨハネによる福音書 12を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。