コロサイ人への手紙2章:偽りの教えを見分ける

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はじめに

「あなたを形づくっているものは何ですか。」ロンドンのケンジントン・テンプル(Kensington Temple)の牧師マルコム・ダンカン(Malcolm Duncan)は、この問いからメッセージを始めます。ソーシャルメディアで誰をフォローしているか、というだけの話ではありません。真実と偽りを見分ける方法、何を最も大切にするか、成功した人生とは何か。そうした考え方を何が形づくっているのか、という問いです。

これは、コロサイ人への手紙を一節ずつ読み進めるシリーズ「よく生きる:豊かな人生のための神の国の原則」の第6回のメッセージです。今回の聖書箇所はコロサイ人への手紙2章20~23節で、パウロは人間の定めた規則に対して「さわるな、味わうな、触れるな」と警告しています。

マルコム・ダンカンはこの箇所から、偽りの教えの三つのしるしを分かりやすく示します。メッセージの後には、預言、文化、結婚、異言についての質疑応答の時間が続きます。

メッセージの流れ

1. あなたを形づくっているものは何か

  • 牧師は、私たちは「あなたの真理」の時代に生きていると言います。自分が真実だと思えば、それが真実になるという考え方です。問題が起きるのは、二人の人がまったく反対のことを考えているときです。
  • オックスフォードでのC・S・ルイスの話が紹介されます。ある青年がルイスに、真理は相対的だと主張します。「自分が正しいと思えば、それは正しいのです。」ルイスは台所から沸騰したお湯の入ったやかんを持ってきて、青年の頭の上にかざします。「そんなことをしてはいけません!」「自分が正しいと思うなら、なぜいけないのですか。」青年は、それが普遍的に間違っていることを認めます。つまり、普遍的な善と悪は存在するのです。
  • 「私たちは、信頼している声によって形づくられます。」取り入れる映像、繰り返す習慣、所属する共同体によってもそうです。
  • 宗教的な声もこの競争に加わります。真剣なクリスチャンは何を着て、何を見て、何を食べ、何を言うべきか、というものです。避けるべきことがあるのは聖書の言うとおりです。しかし、宗教的な好みが聖書の教えより上に置かれるなら、「問題があります」。
  • 即座の突破口を約束する声もあります。「この祈りを祈れば解放されます。」キリスト教は公式の宗教ではありません。信仰と参加が必要です。
  • 祈りながら誰かに手を向けるやり方は、1970年代のカリフォルニアのリバイバルに由来します。暑かったので、触れ合うのをやめたのです。「それ自体に悪いところはありませんが、聖書的な実践ではありません。」手を置く祈りは聖書的です。問題は、それを義務にしてしまうことです。
  • 人に息を吹きかけることや、祈りを受けて倒れることも同じです。基準はその人の反応ではなく、そのあと人生に何が起こるかです。その人はイエスに似た者になっているでしょうか。
  • 「偽りの教えは、自分が偽りだとはめったに名乗りません。確信に満ちた姿で現れます。」キリスト教の言葉を使い、聖書を引用し、才能ある人によって担われ、目に見える成果を生むこともあります。

2. 第一のテスト:イエスに何かを付け加えていないか

  • 「もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、『さわるな、味わうな、触れるな』などという規定に縛られているのか」(コロサイ人への手紙2章20~21節)。本当の問題は規則の数ではなく、それが暗に示していることです。つまり、イエスだけでは足りないということです。
  • 偽教師は要するにこう言います。「あなたにはイエスがいる。だが、これも必要だ。」霊的な操作はこうして始まります。教師、ミニストリー、運動、あるいは大会だけが満たせる欠乏感を作り出すのです。
  • キリスト教の信仰は、イエスにある人物を足したものではなく、政治的イデオロギーを足したものでも、誰かの個人的な啓示や礼拝のスタイル、聖書の戒めのように示された文化的な好みを足したものでもありません。「福音は、イエスが役に立つ出発点だとは言いません。福音は、イエスは主であると言います。」
  • 説教者、牧師、預言者、ポッドキャストの司会者、クリスチャンのインフルエンサーの誰も、イエスの座を占める権利はありません。「それは私も含めてです。」質問できない啓示の源であるかのように自分を示す人がいれば、信頼してはいけません。ベレヤの人々のように、聖書を調べなさい。
  • 牧師は、自分に向けた「神の預言の声」として示されたメッセージを受け取ったことを語ります。それを吟味すると、聖書に反していました。「でも私は預言者です。」「あなたが預言者だと誰が決めたのですか。」「私です。」信者は誰でも、預言を吟味する権利と責任を持っています。
  • 「私の働きのほかのすべてを忘れても、これだけは覚えていてください。権威は、この本にあります。」多くの人は近道を求め、聖書を読むのではなく、聖書に何と書いてあるかを教えてもらいたがります。
  • 忠実な指導者は、あなたを自分に依存させず、イエスに頼ることを教えます。「私は大牧者の下に仕える牧者にすぎません。私の務めは、あなたがたのためにイエスの代わりになることではありません。」

3. カリスマは人格ではない

  • 明快なテストがあります。その教えは、人の目をイエスに向けさせるでしょうか。それとも教師への依存を生むでしょうか。
  • 指導者が質問を受け付けないと言うとき、意見の違いを示すと不忠実だと思われるとき、個人的な啓示が聖書の公の証しより重んじられるとき、恐れが決断や人間関係、お金、将来を支配するために使われるときは、注意してください。
  • 「神の国の権威は、指導者をあらゆる説明責任から守るために与えられるものではありません。」イエスが権威を与えるのは、人々が召しの中で仕え、備えられ、守られ、解放されるためであり、支配するためではありません。
  • 「彼の話は面白いから、きっと良い教師だ。」悪魔もあなたを笑わせることができます。「ロンドンで最大級の教会の一つだ。」不健全なものも成長します。「あれだけ本が売れているじゃないか。」イエスは一冊も本を書きませんでした。
  • すでに亡くなった牧師の兄は、有名なジャーナリストで、間違っているときでさえ正しく見せる才能がありました。ある日、兄は行ったこともない学校の仕組みを自信たっぷりに説明しました。「人は誠実でありながら、誠実に間違うことができます。」
  • 「カリスマは人格ではありません。自信は真理ではありません。」人気は神の承認ではありません。大勢の聴衆は、どれだけの人が聞いているかを示すだけで、神が語っているかどうかを示すものではありません。

4. 第二のしるし:内面の変革の代わりに外側からの管理

  • 「なぜ、……『さわるな、味わうな、触れるな』などという規定に縛られているのか」(コロサイ人への手紙2章20~21節)。厳格な宗教的システムは、とくに若い世代を引きつけます。不確かさを取り除いてくれるからです。識別力はもう要らず、ただ従えばよくなります。
  • 牧師は、若い世代を弱い世代と呼ぶことを拒みます。「あなたがたは聖霊に油注がれた世代です。」けれども、人間関係や仕事、召しを選ぶ場面では、落ち着いて見えても、自分は遅れているのではないかと思うことがあります。そこで、人を支配する教師たちが非常に説得力を持つようになります。
  • 彼らが差し出すのは確実性であって、成熟ではありません。成長するには、不確かさに向き合わなければなりません。自分で決断することを妨げる人は、大人ではなく子どもであることを教えているのです。
  • 父であり祖父でもある牧師は、親たちにこう助言します。「子どもに、何を考えるかを教えないでください。どう考えるかを教えてください。」聖書の読み方を教え、さらに聖書に自分を読ませることも教えてください。
  • 「確実性と真理は同じものではありません。」厳しい宗教的規則を守っていても、嫉妬深く、不誠実で、残酷で、高慢なままの人がいます。牧師は信仰を持ったばかりのころ、「集会を一度も休まなければ、決して後退しない」と聞かされました。けれども隣に座っていたのは、集会を一度も休まないのに苦々しさでいっぱいの人たちでした。
  • まさにその日、教会の前で、ホームレスの男性が低体温症で通りの真ん中に倒れ込みました。人々は礼拝に来るために、その人をまたいで通りました。「何かがおかしいと思いませんか。」
  • 神の国が問うのは「何をしているか」だけではありません。「何になりつつあるか」を問います。私はより寛大になっているでしょうか。赦すことを学んでいるでしょうか。他の人の成功を喜べているでしょうか。人前でも一人のときでも、同じ私でいるでしょうか。
  • 罪責感は行動を変えても、願いを変えることはできません。恐れは従順を生んでも、愛を生むことはできません。ドアに鍵をかければ行動は防げますが、愛のある人にはなれません。サイトをブロックすればポルノから遠ざかれても、聖さへの願いは生まれません。予算は支出を抑えても、満足を生みません。「それができるのは、イエスだけです。」

5. 第三のしるし:知恵の外観はあるが、力がない

  • 「これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見える」(コロサイ人への手紙2章23節)。パウロは、偽りの宗教が愚かに見えるとは言っていません。賢そうに見えるのに、何も変えないのです。
  • 「カルトがイエスを取り除くことはめったにありません。イエスを王座から降ろすのです。」偽りの教えは、イエスを本来あるべきよりも小さくし、私たちを変えることのできない義務のリストを差し出します。
  • 美しい照明、力強い音楽、心を打つ言葉、自信に満ちた宣言は、私たちを深く揺さぶることがあります。「しかし、感情への影響は、霊的な権威と同じものではありません。」
  • こうした実践は行動を整え、イメージを修復することはできますが、「ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない」のです。乱れた願いを癒やすことはできません。
  • 聖霊は外に立って指示を叫んでいるのではありません。私たちの内に住んでおられます。聖書を霊感によって書かせた方が、聖書が語る方、主イエスへと私たちを導いてくださいます。
  • 「イエスは改良される必要がありません。『イエス2.0』は要りません。」イギリスの価値観をすべて認めてくれる流行のイエスではなく、私たちの価値観の上に立ち、ご自分に従うよう招いてくださるイエスが必要なのです。

6. 質疑応答:預言、文化、結婚、迷い込んだ身近な人

  • 預言を吟味する。神のことばによって吟味します(ヨハネの第一の手紙4章1節)。それはイエスを高めているでしょうか。聖書を尊んでいるでしょうか。自由へ導いているでしょうか、それとも束縛へでしょうか。あなたが聞きたいことを言っているでしょうか、それともあなたが聞く必要のあることを言っているでしょうか。マタイによる福音書7章は四つのテストを加えます。狭い門、実、イエスの主権、そして雨と風が来ても倒れない家です。
  • 文化と聖書。文化的に広まっているからといって、正しいとは限りません。文化を聖書の下に置くのであって、その逆ではありません。パウロは自分の特権をふん土のように思いました。「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに」(ピリピ人への手紙3章8節)です。ただ、それらが自分を形づくったことは否定していません。アイルランド人である牧師は、訛りともてなしの心を保ちつつ、伝わるように言葉を調整しています。
  • 牧師は、ある母親の話をします。その母親は、入学試験に落ちた10歳の娘に「あなたは失敗作だ」と言うよう、彼に求めました。彼はひざまずいて言いました。「あなたは失敗作ではありません。」イエスは、誰かに何かに失敗したと言うことはあっても、失敗作だと言うことは決してありません。
  • 結婚。聖書的な結婚は、公の場での、生涯にわたる、忠実さと一夫一婦制の契約的なコミットメントを前提としています。従うことは夫が妻を殴ってよいという許可だと主張するのは異端です。「女性に手を上げる男は誰でも罪を犯しています」。逆も同じです。誓約を支配のために使ったり、「結婚するのだから、今から一緒に寝よう」と言ったりすることは、相手を物として扱うことです。
  • 偽りの教えに捕らわれた身近な人を助ける。正面からぶつかると、かえって遠ざけてしまいます。一緒に聖書を読もうと誘ってください。十字架のわざにはローマ人への手紙、イエスの神性にはコロサイ人への手紙、裁きの霊にはヨハネの手紙、聖霊の力にはエペソ人への手紙1章と3章です。
  • 自分の力で誰かを説得することはできません。その人の知性は暗くなっています(エペソ人への手紙4章18節)。必要なのは聖霊、祈り、ときには何か月もの祈り、あわれみ、忍耐です。サタンは光の御使に変装します(コリント人への第二の手紙11章14節)。答えは、その人をイエスのもとへ繰り返し連れ戻すことです。「イエスは私たちよりも、人を解放するのが上手です。」
  • 牧師には、偽りの教えを指摘する責任があります。たとえ不人気になってもです。「牧師であり教師である者の務めは、人気者になることではなく、人々を真理に導くことです。」

7. 異言を語ること:圧力も公式もなく

  • パウロはコリントの人々に、異言は優越性の証明にならないと書いています。しかし同時に、「わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい」(コリント人への第一の手紙14章5節)、「霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい」(同14章1節)とも言っています。ですから、この賜物を神に求めてよいのです。異言を語るかどうかで、その人の霊性を判断してはいけません。
  • 異言はまず祈りの賜物です。「異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである」(コリント人への第一の手紙14章2節)。牧師は毎日異言で祈っています。聖霊と協力しているのであって、自分で作り出しているのではありません。
  • 誰かがマイクで会衆に向けて異言を語るとき、牧師は、いったん止まって解き明かしを待つことを望みます。それは預言ではなく神に向けた言葉であり、聖書に照らして吟味するものです。ケンジントン・テンプルは、異言で共に祈り、共に礼拝する力を教えてくれました。
  • この賜物を願う人へ。求め続けてください。神がいくつかの音を与えてくださったら、毎日それを使ってください。子どもは2歳でシェイクスピアを暗唱しません。牧師の孫の一人は、唇にこぶがある状態で生まれ、2、3年のあいだほとんど言葉が聞き取れませんでした。今ははっきり話します。「誰も何を言っているのか分からないときにも、毎日話していたからです。」
  • 牧師は、自分が信仰を持ったとき、教会の二人の男性に異言を語るようしつこく迫られたと打ち明けます。うんざりして、とうとう彼らの出す音をまねしたところ、二人は「ハレルヤ」と叫びました。「それは罪でした。誇れることではありません。」
  • 3週間後、ベルファストの祈り会の最中に、通りで武装した集団どうしの銃撃が起こりました。彼がイエスに叫ぶと、聖霊が彼を満たしました。神が最初におっしゃったのは、あの二人に謝りに行きなさい、ということでした。彼は謝りに行きました。「成果を出さなければというプレッシャーがどんなものか、私は知っています。人にそれをしないでください。」

ポイント

  • 偽りの教えは、自分が偽りだとはめったに名乗りません。確信に満ち、聖書を引用し、賢そうに見えることがあります。
  • イエスに何かを付け加えるもの、つまりシステム、教師、個人的な啓示は、イエスを王座から降ろします。イエスは主であり、出発点ではありません。
  • 忠実な指導者は、あなたを自分ではなくイエスに依存させます。神の国の権威は、誰かを説明責任から守ることはありません。
  • 外側の規則は行動を変えることはできても、心を変えることはできません。願いを変えられるのはイエスだけです。
  • 権威は聖書にあります。自分で読み、受け取るものを吟味してください。

個人的な適用

  1. 今、あなたを最も形づくっている声は何ですか。それはあなたをイエスに向かわせていますか。
  2. 自分で聖書を読むこと以上に、頼りきっている教師、ミニストリー、インフルエンサーはいませんか。
  3. どの分野で、心が本当に変わらないまま、宗教的な項目にチェックを入れていますか。
  4. 人前でも一人のときでも、同じ人でいますか。より寛大に、より赦しに早くなっていますか。
  5. 偽りの教えに捕らわれている人で、忍耐と祈りをもって一緒に聖書の一巻を読める人を知っていますか。

引用された聖書箇所

よくある質問

コロサイ人への手紙2章によると、偽りの教えはどう見分けますか。

マルコム・ダンカンは、コロサイ人への手紙2章20~23節から三つのしるしを挙げています。第一に、偽りの教えはイエスに何かを付け加え、イエスだけでは足りないかのように言います。第二に、内面の変革の代わりに外側からの管理を持ち込みます。さわるな、味わうな、触れるな、というものです。第三に、知恵の外観はあっても、心を変える力がありません。

受け取った預言のことばは、どう吟味しますか。

ヨハネの第一の手紙4章1節が勧めるように、神のことばによって吟味します。それはイエスを高めているでしょうか。聖書の教えを尊んでいるでしょうか。自由へ導いているでしょうか、それとも束縛へでしょうか。牧師はさらに、マタイによる福音書7章のテストを加えています。狭い門、実、イエスの主権、そして嵐に耐える家です。

偽りの教えに捕らわれた身近な人を、どう助けられますか。

正面からぶつかるのではありません。マルコム・ダンカンは、一緒に聖書を読もうと誘い、ふさわしい書を選ぶよう勧めています。十字架にはローマ人への手紙、イエスの神性にはコロサイ人への手紙、裁きの霊にはヨハネの手紙、聖霊の力にはエペソ人への手紙1章と3章です。あわせて、祈り、あわれみと忍耐をもって、その人をイエスのもとへ繰り返し連れ戻すことが大切です。

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