はじめに
ヨハネは自らの福音書を、天の御国を示す七つのしるしを軸に組み立てています。ジェームズ・ユティネ牧師が今朝案内してくださるのは、その二番目のしるし、ヨハネ4章43〜54節です。カナからカペナウムまで、王の役人の息子が遠く離れた場所で癒やされる出来事です。死にかけている一人の子ども、必死に懇願しに来る高い地位の父親、そしてイエス様が語られるのはただひと言でした。「行きなさい。あなたの息子は生きる。」
牧師はこの箇所に、ヨハネ20章29節、復活されたイエス様の前に立つトマスの場面から取った題を与えます。「見ないで信じる者は幸いである。」なぜなら、ヨハネ4章では、誰も奇跡を目にしていないからです。役人はカナから、イエス様の言葉だけを携えて、ただ一人帰って行きます。そして彼は信じます。福音書の物語の中で二世紀もの隔たりを持つ二つの箇所が、同じ一つの呼びかけをしています。目に見える証拠なしに、御言葉だけに基づく信仰です。
この役人を軸に、牧師は三種類の信じる者を描き出します。奇跡を見てもなお拒む者、見たから信じる者、見ないで信じる者です。そして率直にあなたに問いかけます。「あなたは、兄弟よ、姉妹よ、どのように信じていますか。」
メッセージの構成
1. 信じる三つの姿勢、あるいは信じることを拒む姿勢
- 牧師はまず、ヨハネ4章43〜54節をその文脈の中に位置づけることから始めます。イエス様はサマリアを通り、ヤコブの井戸で一人の女性と出会われたばかりです。この説教直前の42節は、サマリア人たちの信仰をこうまとめています。「わたしたち自身が聞いて、この方が本当に世の救い主であることが分かったのです。」
- 三つの地域、三つの姿勢です。エルサレム、ユダヤ地方には、パリサイ人や律法学者たちがいます。彼らは奇跡やしるしを見ても、なお信じることを拒みます。北のガリラヤでは、人々はエルサレムの祭りでイエス様が行われた奇跡を見たがゆえに信じます。中央のサマリアでは、しるしを何も見ないままイエス様の御言葉を信じる人たちがいます。
- サマリア人はユダヤ人から見下されていました。二流の民、付き合うべきでない者、異端者として扱われていたのです。アッシリアから来た異邦人と混血したユダヤ人であり、独特の宗教的慣習を持っていました。誰かを「サマリア人」と呼ぶこと自体が侮辱でした。イエス様ご自身もその侮辱を受けられます。
- それでも、奇跡を何一つ見ないまま、イエス様を「世の救い主」と認めたのは彼らでした。「サマリア人たち、よくやった」と牧師は言います。そして読者にこう問いを返します。「あなたは、兄弟よ、姉妹よ、どのように信じていますか。」
2. 役人がイエス様のもとに来る(46〜47節)
- イエス様はエルサレムから上り、再びサマリアを通り抜け、ガリラヤに戻られます。最初のしるし、水がぶどう酒に変わった場所、カナです。そこから35キロ離れたカペナウムで、ヘロデ・アンティパスの役人の一人が、死にかけている息子を抱えていました。彼は自ら、直接イエス様のもとへ来ることを決意します。
- 牧師はこの行動に心を打たれます。この人は決意に満ち、礼儀正しく、へりくだっています。イエス様の評判を耳にしていたに違いありません。飾り気のない一人の人の前に来るために35キロも歩き、こう告げるのです。「主よ。」
- 「この説教には別の題をつけることもできました」と牧師は言います。「一人の主が、まことの主に出会う。」人間的に見れば、「主」と呼ぶべきはこの役人のほうです。地位の高い人物だからです。ところが、その称号をイエス様に与えるのは彼自身なのです。自分の肩書きを脇に置いたのです。彼は主イエス様に望みを置きました。
- これまでどれほど多くの男女が、まさにこのように、悲劇が開いた扉を通って個人的にイエス様のもとに来たことでしょう。会堂司ヤイロは娘を失いかけ、その足もとにひれ伏します。長血を患う女性は群衆をかき分けて、後ろから触れます。盲人バルテマイは「イエス様、ダビデの子よ」と叫びます。しもべが瀕死のローマの百人隊長は「ひと言おっしゃってください」と言います。ニコデモは夜、密かにイエス様を訪ねる律法の教師です。中風の人は屋根を破って下ろされます。それぞれに、それぞれの来方があります。「あなたは、どのようにしてイエス様のもとに来ましたか。」
3. イエス様が役人の信仰を試される(48〜50節)
- イエス様の答えは意外なものです。「あなたがたは、しるしと不思議を見なければ、決して信じない。」これは役人への直接の非難ではなく、問題の根本を思い起こさせる言葉です。すなわち、見なければ信じない信仰です。役人は食い下がります。生きるか死ぬかの問題だからです。しかし「死」という言葉は、二人にとって同じ意味を持ちません。この父にとっては、息子の肉体の死です。イエス様にとっては、ご自分が救おうとしておられる家全体の永遠の死です。
- 役人はイエス様と一緒に帰りたかった、カペナウムまで並んで歩き、道中話をしたかったのです。しかしイエス様はこう答えられます。「行きなさい。あなたの息子は生きる。」イエス様は彼を試されます。目に見えるしるしもなく、御言葉ひとつだけを携えて、一人で帰らせるのです。
- 牧師は見事な点を指摘します。命令を下すことに慣れたこの王の役人が、イエス様の命令に一言も反論せず「従う」のです。彼は向きを変え、一人で帰って行きます。
- なぜこの試練があるのでしょうか。信仰を強めるためです。彼の決意の本気さを試すためです。イエス様にとって大切なのは肉体の癒やしではなく、罪であり、永遠のいのちだからです。「イエス様はあなたの弱さの中に会いに来られます。あなたの魂を癒やしたいと願っておられるからです。」
4. 役人の信仰が強められる(51〜54節)
- 役人はこの上なく尊いものを携えて帰って行きます。主の権威ある御言葉です。彼はそれを、自分の信仰の唯一の土台として心に留めます。昼も夜も、彼は自問し続けたことでしょう。遠く離れたところからの癒やしなど、本当にありうるのか。この方はメシアなのだろうか、と。
- 翌日、しもべたちが彼を出迎えに来ます。息子は生きている、と。彼は時刻を確かめます。それはまさに、イエス様が御言葉を語られたその時刻でした。もはや疑いの余地はありません。カナから遠く離れたところから、息子を救われたのは主ご自身でした。
- 「彼自身も、彼の家の者たちもみな信じた。」十人、二十人、しもべたちも含めてです。家全体が信仰へと踏み出したのです。役人はイエス様の御言葉を経験しました。それは誤りのない、力ある、信じるに値する御言葉です。彼の信仰はもう以前と同じではありません。強められ、新しくされたのです。今や彼は、これができるのは神の御子だけだと知っています。
- 牧師はすぐさま、この出来事をルカ7章の百人隊長の話に結びつけます。侵略者であり、異邦人であったこの人は、しもべが死にかけていました。そして彼はイエス様にこう伝えさせます。「私の家にお入りいただくには及びません。ただひと言おっしゃってください。そうすればしもべは癒やされます。」イエス様はこの人に驚嘆し、こう言われます。「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない。」ヨハネ20章24節へと話を進めます。トマスは釘の跡を見たいと願い、イエス様は彼にこう言われます。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ないで信じる者は幸いである。」
5. なぜイエス様の御言葉だけで十分なのか
- 「信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えない事実を確信することです。もし見えるなら、それはもはや信仰ではありません。」牧師はヘブル人への手紙11章を引用し、ローマ人への手紙10章17節を思い起こさせます。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについての言葉から始まる。」
- 目に見えるものに頼ることは危険です。牧師はいくつかの悪い例を挙げます。「ルルドやファティマの奇跡、ベテスダの池の揺れる水。」信仰を生み出すのは証拠ではありません。それらは「偶像礼拝的な迷信」なのです。信じるためにしるしを見たいと願う眼差しは、信仰ではありません。
- これはすでに、十字架のもとで通行人たちが叫んでいたことです。「十字架から降りて来い。そうすればお前を信じよう。」「兄弟姉妹よ、これは恐ろしいことです。」当時イエス様のもとに来た人々にとって並外れたことは、イエス様と直接顔を合わせることでした。今日私たちにとって並外れたことは、御子と御父が私たちのうちに宿り、その御言葉を絶えず魂の内に持っていることです。
- 「イエス様の御言葉を聞くとき、それは目を引こうとするものではありません。センセーショナルなものを求めているのではありません。それは心を打とうとしているのです。」なぜなら、見ないで信じることができるのは心の中でだからです。見ないで信じるとは、盲目的に信じることではなく、「識別をもって、熟考しながら信じる」ことです。
- イエス様の奇跡は、神が見えないところで行っておられることを示すためだけにあります。イエス様があなたに見せたい本当の奇跡とは、信じて聖霊によって新しく生まれる一人の人間の姿です。そこには天に喜びがあります。「その人にとって、すべてが新しくなる」のです。しるしの目的は見世物ではありません。魂を救い、信仰を呼び起こし、永遠のいのちを与えることです。
6. ニコデモ、新しい契約、ヨハネ3章16節の価値
- 牧師はニコデモ、夜イエス様に相談しに来た律法の教師の話に戻ります。何世紀にもわたってモーセの律法に慣れ親しんできたユダヤ人にとって、ヨハネ3章16節は革命的な言葉だったと牧師は認めます。
- 律法は何と言っているでしょうか。「わたしの掟と定めを実行する者は、それによって生きる。わたしの命令をすべて守りなさい。」しかし、それを実行できた人は一人もいませんでした。もちろん、人の子イエス様だけは別です。それでもなお、大多数のユダヤ人は律法の礼拝に固執し続けています。
- 驚くニコデモを前に、イエス様は新しい契約を宣言されます。「神は人々をそれほどまでに愛し、御独り子をお与えになった。それは、御子を信じる者が一人も滅びず、永遠のいのちを持つためである。」牧師によれば、これは単純で、誰にでも手が届くものです。誰も成し遂げられない律法の達成とは、まったく別物です。
- 「ヨハネ3章16節において、イエス様はいのちを得るための行いをひと払いで退けられます。」ニコデモとの対話は、旧約と新約の間の転換点です。子羊の血による、信仰による新しい契約は、「間違いなく全人類にとって最大の奇跡」なのです。
- 私たちの神は、今この世界を揺るがしている悲劇、災害、試練、洪水、嵐、火事を用いて、人々をご自身のもとへ引き寄せておられるのではないでしょうか。本当の災いとは、いのちの滅びです。そして神は、御自身の子である私たちの試練さえも用いて、私たちを立て直し、その権威ある御言葉によって強めてくださるのではないでしょうか。
- 「私たちの祈りに気をつけましょう。」父なる神の望みに反することを求めるのはやめましょう。神が何よりも望んでおられるのは、私たちの魂の健やかさなのですから。
7. 「預言者は自分の故郷では敬われない」
- この物語は44節で、イエス様の驚くべき言葉から始まります。「預言者は自分自身の故郷では敬われない。」ガリラヤの人々にとって、イエス様は隣人でした。母マリア、大工の父、兄弟姉妹たち。「彼らはみな知っていた」のです。このような普通の人が、どうして神の御子でありうるでしょうか。イエス様の家族自身も、最初は彼を気が狂ったと思っていました。
- それでも弟子たちは「あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます」と言うことをやめませんでした。サマリア人たちが彼を「本当に世の救い主」と認めることもやめませんでした。王の役人が彼を「主」と呼び、彼を信じることもやめませんでした。あらゆる国々から、少なからぬ人々が彼を信じることもやめませんでした。そして今日、私たちが彼を私たちの神、愛する救い主として認めることも、変わらず続いています。
- イエス様は名誉ある者たちにではなく、心の貧しい者たちに良い知らせをもたらすために来られました。牧師は、世界中でまだ力強く、征服者のように、壮大に「鉄の杖で目を引きつける」メシアを待っているユダヤの人々のために祈りをもって支えるよう招きます。彼らは、その最初の来臨のとき、この方を認めることができませんでした。この方は神の子羊、素朴な一人の人として来られ、目ではなく心を打つために来られたのです。
要点
- イエス様の周りには三つの姿勢があります。証拠があっても拒む(エルサレム)、見たから信じる(ガリラヤ)、見ないで御言葉を信じる(サマリア、役人、後の百人隊長)。イエス様が称賛されるのは三つ目です。
- 王の役人は自分の肩書きを脇に置き、イエス様を「主」と呼びます。この逆転こそ、イエス様が私たちに望んでおられることです。自分の地位、力、肩書きを脇に置いて、イエス様の権威を認めることです。
- イエス様は役人の信仰を試されます。「行きなさい。あなたの息子は生きる。」大切なのは肉体の癒やしではなく、家全体の永遠のいのちだからです。これは私たちの祈りの求め方を見直させてくれます。
- 信仰は聞くことから来るのであって、見ることから来るのではありません(ローマ10:17)。信じるために目に見えるしるしを求めることは、イエス様が受け入れられる信仰からすでに遠ざかっていることになります。
- ヨハネ3章16節は、行いを一掃する革命です。信じる者は誰でも滅びず、永遠のいのちを持ちます。狭くもあり、同時に広くもある門です。誰にでも手が届くのです。
- イエス様の奇跡は、神が見えないところで行っておられることのしるしにすぎません。本当の奇跡とは新しい誕生です。御父と御子があなたのうちに宿ることです。
個人への適用
- 三つの姿勢のうち、あなたが最も多く自分を見出すのはどれですか。証拠があっても拒む者、信じるために見る必要がある者、それとも目に見える証拠なしに御言葉を信じる者でしょうか。イエス様はあなたに何を正すよう招いておられますか。
- あなたが身にまとっている「肩書き」、地位や能力や役割の中で、役人のように、ただイエス様を「主」と呼ぶために脇に置くべきものは何でしょうか。
- 今日、あなたが繰り返し神に求めている祈りの中に、肉体の癒やしを求めながら、実は神があなたの魂、あるいはあなたの家族の魂にまず触れたいと望んでおられるようなことはありませんか。あなたの願いをどのように言い換えることができますか。
- どの領域で、あなたは従う前に目に見えるしるしを待っていますか。もしあなたが役人のように、イエス様の御言葉をそのまま受け取り、「一人で」帰って行ったなら、何が起こるでしょうか。
- あなたの心に響くキリストの言葉を一つ選んでください(「思い煩うな」「わたしはあなたと共にいる」「行きなさい。あなたの息子は生きる」など)。今週、それを「あなたの信仰の唯一の土台として心の中に」どのように留めておきますか。
引用聖句
- ヨハネ 4:43-54 · カペナウムの王の役人と、カナから遠く離れた場所での息子の癒やし。ガリラヤでのイエス様の二番目のしるし。
- ヨハネ 4:42 · サマリア人たち「わたしたちは、この方が本当に世の救い主であることを知った。」
- ヨハネ 3:16 · 「神は実に、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを持つためである。」
- ヨハネ 20:24-29 · イエス様がトマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ないで信じる者は幸いである。」
- ヨハネ 14:10 · 「わたしがあなたがたに話す言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、御自分の業を行っておられるのである。」
- ルカ 7:1-10 · ローマの百人隊長「ただひと言おっしゃってください。そうすればしもべは癒やされます。」
- ローマ 10:17 · 「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについての言葉から始まる。」
- ヘブル 11:1 · 「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えない事実を確信させるものです。」
- ヨハネ 11:40 · 「もしあなたが信じるなら、神の栄光を見る、と言ったではないか。」
- ルカ 11:28 · 「いや、それよりも、神の言葉を聞いて、それを守る人たちは幸いです。」
- 第一ペテロ 1:8 · 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、いま見ていなくても信じて、言い表しがたい、栄えに満ちた喜びにおどっています。」
- ヨハネ 5:24 · 「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばかれることがない。」
よくある質問
なぜこの説教はヨハネ4章とヨハネ20章を結びつけているのですか。
牧師はヨハネ4章43〜54節に、ヨハネ20章29節から取った題を与えています。「見ないで信じる者は幸いである。」王の役人は、イエス様が一緒に来られることなく、何のしるしも見ないまま、「行きなさい。あなたの息子は生きる」という御言葉に従います。これはまさに、復活の後にイエス様がトマスに勧められる信仰そのものです。目に見える証拠を求めず、証人たちの言葉を信じることです。この説教の中では、その橋渡しがルカ7章の百人隊長によってはっきりと示されています。イエス様が驚嘆される彼の信仰、「ただひと言おっしゃってください」がそれです。
「見ないで信じる」とはどういう意味ですか。
牧師はこう説明します。「見ないで信じるとは、盲目的に信じることではなく、識別をもって、熟考しながら信じることです。」それは、光がイエス・キリストにおいてこの世に来られたことを認め、心からその御言葉に同意することです。それは目を引くことも、センセーショナルなことも求めません。心を打つことを求めているのです。そして信仰は聞くことから来るのであり(ローマ10:17)、見ることから来るのではありません。
なぜイエス様は息子を癒やす前に、役人の信仰を試されたのですか。
役人は、イエス様が自分と一緒にカペナウムまで下って来てくださることを望んでいました。しかしイエス様はただこう言われました。「行きなさい。あなたの息子は生きる。」イエス様は、彼の信仰を強め、その決意の本気さを試すために、彼を試されたのです。イエス様にとって大切なのは肉体の癒やしではなく、魂の癒やし、役人と彼の家族全体、「十人、二十人、しもべたちも含めて」に与えられる永遠のいのちだからです。肉体の奇跡は、より大きな奇跡、すなわち家族全体の新しい誕生に仕えるものなのです。
Église Protestante Évangélique de Paris Beaugrenelleの説教を見逃さない
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