はじめに
ダビデはようやく落ち着いた生活を送っていました。国は平和になり、彼は美しいレバノン杉の宮殿に住んでいます。そのとき、ある思いが彼の心をよぎります。自分は立派な家に住んでいるのに、神の箱はまだ簡素な天幕の下にある、と。この善意から一つの計画が生まれます――神のために神殿を建てようというのです。しかし、預言者ナタンを通して主がダビデに語られる答え(サムエル記第二 7:1-17)は、彼の心を大きく裏切るものでした。神はまず石に投資されるのではありません。神は民に投資されるのです。そして、この御言葉は今日のあなたにも関わっています。
メッセージの構成
1. 三つの重要な箇所、一つの神のご計画
- ここ数週間、この箇所は他の二つの基礎的な箇所――創世記 12:1-3(アブラハムの召命)と出エジプト記 19:4-6(シナイでの出会い)――と照らし合わせて読まれてきました。サムエル記第二 7章は、この一連の流れに加わります。
- 神が人間のもとに来て、ご自分の計画を示される三つの重要な瞬間があります。
- アブラハムには、神は多くの子孫を約束され、その子孫が地上のすべての家族の祝福の源となると告げられます。
- シナイのイスラエルには、神は、解放された奴隷の民を聖なる国民、祭司の民、すなわち世界に神を知らせる使命を担う民とすると告げられます。
- そしてダビデには、それから約300年後、神は預言者ナタンを通して重要な御言葉を語られます。
2. ダビデの計画――神のために神殿を建てること
- 神がこの御言葉をダビデに語られたのは、すべてが順調なときでした。国は平和で、繁栄しており、ダビデは美しい宮殿に住んでいます。
- まさにこうしたときにこそ、人は神を思うことを忘れがちです。しかしダビデは、神のことを考え始めます。
- 彼の思いは単純です。自分はレバノン杉の美しい家に住んでいるのに、神は天幕の下におられるだけだ、と。
- ダビデは自分の計画を説明する必要すらありませんでした。ナタンはすぐに理解します。「あなたの心にあることを、すべて行いなさい。」レバノン杉の見事な梁を用いた、立派な神殿を建てなければならない、というわけです。
- ダビデの意図は何だったのでしょうか。おそらく、自分の基準からすると神よりも良い住まいにいることへのいくばくかの心のとがめだったかもしれません。あるいは、大聖堂を建てた人々のように、神に栄光を帰す場所を捧げたいという、より高貴な意図だったかもしれません。
- ダビデはちょうどエルサレムに契約の箱――モーセの律法の板が納められ、その上に神が臨在を現された箱――を運んで来たばかりでした。この箱を、定まった住まいもないままにしておいてよいのでしょうか。
- ダビデの動機を正確に知ることはできません。おそらく、心のとがめと神を敬う純粋な願いの両方が少しずつあったのでしょう。
3. 三段階に分かれた神の答え
- 神はダビデに三段階で答えられます。この答えは、今日の私たちにとっても豊かな教えに満ちています。
- 第一段階――「わたしは家に住みたいと求めたことは一度もない。わたしは天幕とともに移動してきた。」
- 第二段階――「あなたがわたしのために家を建てるのではない。わたしがあなたのために家を築くのだ。」
- 第三段階――「わたしのために神殿を建てるのは、あなたの子孫である。」神はそれでもなおダビデの意図を尊重しつつ、その真の意味を明らかにされます。
4. 「わたしは家に住んだことはない。わたしは天幕とともに移動してきた」
- ここでの動詞に注意してください。この章の冒頭には、ダビデがエルサレムの自分の家に「住んでいる」(1節)とあります。神は6節で、ご自分は家に「住んだ」ことは一度もないと言い返されます――ヘブライ語では全く同じ動詞です。
- その代わりに、神はいつもご自分の民とともに「移動」してこられました。それは天幕だからこそ可能であり、しっかりとした家では不可能なことでした。
- 神殿には一つの欠点があります。それは、そこに人が住み着き、民が閉じこもってしまう場所――さらに悪いことに、民が神を閉じ込めようとしてしまう場所になりかねないという点です。
- しかし神は、閉じ込められた神になりたいとは望まれません。ご自分の民が、閉じこもった民になることも望まれません。
- 創世記12章と出エジプト記19章が示すように、この民の使命は、地上のすべての家族にとって祝福の源となること、あらゆる国々に向かって神を知らせに行く民となることです。それには、移動する民であることが求められます。
- これは教会にも当てはまります。神は、どれほど美しくても、神殿の壁の中に閉じこもった民に私たちがなることを望んではおられません。
- ヨハネがキリストの到来について語るとき、「言(ことば)は私たちの間に天幕を張った」(ヨハネ 1:14)と書いています。注解者たち、とりわけ『新フランス語共通訳』の注は、このギリシア語の動詞が本当に会見の天幕を暗示していることを指摘しています。
- イエスは神殿に閉じ込められるために来られたのではなく、弟子たちとともに世界の道を歩むために来られました。福音書を読めば十分わかります。イエスはめったにその場にとどまらず、常に道の途上におられ、常に人々と出会っておられます。
- 「門を開き、王を告げ知らせよ。イエスを入らせよ」と歌う賛美歌があります。ある言葉巧みな牧師はこう付け加えました。そして、イエスを外へ出させよ、と。イエスを教会の外へ出させましょう。イエスは私たちとともに、世界の道を移動したいと望んでおられるのです。
5. 「あなたがわたしのために家を建てるのではない。わたしがあなたのために家を築くのだ」
- 1節では、ダビデが自分のために美しい家を建てたと述べられていました。それにもかかわらず、神はこう言われます。わたしがあなたのために家を築こう、と。
- 神が語っておられるのは、明らかに石造りの家のことではなく、「家族」、子孫、王朝のことです。『新フランス語共通訳』は「あなたに子孫を与えよう」と訳し、『スムール訳』は「あなたに王朝を与えよう」と訳しています。
- 12節はそれを裏づけています。「あなたの日が満ちて、あなたが先祖とともに眠るとき、わたしはあなたの後に、あなたの身から出る子孫を起こす。」
- ここで神の御言葉は、創世記15:4で神がアブラハムに語られたときと全く同じ表現を用いています。「あなたの身から出る者」。ダビデにもアブラハムにも、同じ表現が二度繰り返されているのです。
- 神がまず関心を持っておられるのは、しっかりした家を建てることではありません。神が築こうとしておられるのは「家族」です――ダビデにもアブラハムにも同様に。
- 今日のメッセージの題を、こうまとめることができるでしょう。「神が投資されるのは石ではない。神は民に投資される。」
- イエスもまさに同じことを、「わたしは、わたしの教会を建てる」と告げられたときに語っておられます。建物のことではなく、民のこと、家族のことを語っておられるのです。
- この答えによって、神はダビデに考えさせようとしておられます。神殿がいけないというわけではありません。結局のところ、後にそれは建てられます。しかし、民を犠牲にしてまで神殿を建てることは決してあってはならないのです。なぜなら、主が投資しようとしておられるのは、その民の中だからです。
- そしてこれは、私たちにも考えさせるはずです。私たちは何に投資しているでしょうか。
6. 「わたしのために神殿を建てるのは、あなたの子孫である」
- 神はダビデの提案を完全に退けられたわけではありません。神殿は建てられますが、それはダビデの子孫によってです。
- その子孫とは誰でしょうか。まずはソロモンです。この御言葉が語られた時点では、ソロモンはまだ生まれていませんでした。列王記第一 5:19は、このナタンの御言葉を踏まえて、エルサレムに神殿を建てた人物としてソロモンを明確に示しています。もっとも、その建設は民に重い負担を強いるものでもあったので、いくらか民を犠牲にした面があったかもしれません。
- それから数百年後、ゼカリヤ書 6:13は、このナタンの御言葉を再びダビデの別の子孫――バビロンの捕囚から民を連れ帰り、バビロン人によって破壊された神殿の再建工事を再開したゼルバベル――を指すものとして引用しています。
- この地上において、石造りの建物にはそれなりの意義があります。神殿は神の民に、そしてその民を通して神ご自身に、目に見える形を与えます。神殿は人々が集まる場所を与え、礼拝を捧げる場所を与えます――今朝のように。もっとも、プロテスタントにおいて、この場所を「神殿」と呼ぶべきかどうかについては議論の余地があるでしょう。なぜなら、神は集められたご自分の民の真ん中に住んでおられるからです。
- しかし私たちは、黙示録に描かれる新しいエルサレムにはもはや神殿がないことも知っています。「わたしはその都に神殿を見なかった。全能者である神、主とその子羊とが、都の神殿だからである」(黙示録 21:22)。神の臨在は、ただそこに、民の真ん中に、そのままあるのです。
- しかし、その治世が永遠に確立されるダビデの真の子孫は、さらにその先におられます。新約聖書は、この子孫をイエス・キリストと同一視しています。
- イエスは新約聖書の冒頭から、ダビデの子孫であり同時にアブラハムの子孫として示されています。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ 1:1)。イエスは、いわば与えられた御言葉のとおり、アブラハムとダビデの身から出た方なのです。
- そしてこのイエスがこう言われました。「この神殿を壊してみよ。わたしは三日でそれを建て直す」(ヨハネ 2:19)。福音書記者はこう説明を加えます。イエスは、ご自分の体という神殿について語られたのだ、と。
- 体をもって復活されたキリストのうちに、神は完全に住んでおられ、神を求める者は、今やそこで神と出会うことができるのです。
7. 新しい神殿――御霊が宿る民
- 復活されたキリストにあって、新しい民、新しい体、御霊によって神が住まわれる新しい神殿が現れます。
- 使徒パウロが教会に語っているのは、まさにこのことです。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたのうちに住んでおられることを知らないのですか」(コリント人への第一の手紙 3:16)。
- あえてこのイメージを重ねて言うなら、正しい場所に投資する神殿になりましょう。閉じ込める神殿ではなく、神の御霊が住まわれる神殿になりましょう。
- 御霊は、御心のままに吹く方です。その御霊の力によって、私たちは証人とされます――神殿の壁の中でではなく、地の果てにまで及ぶ証人として。
- そここそが、神が来てくださった場所であり、神が投資された場所です。すなわち、世界の道をともに歩むことのできる神殿、民なのです。
覚えておきたいポイント
- 神はまず石に投資されるのではありません。神が投資されるのは、民、家族、そしてキリストに至るまで幾世紀にもわたって受け継がれる王朝です。
- 神殿は罠にもなり得ます。民を閉じ込め、神を閉じ込めようとする場所になり得るのです。神は、動かない家よりも、移動する天幕を好まれます。
- 御言葉は「わたしたちの間に天幕を張られ」ました(ヨハネ 1:14)。イエスは神殿に閉じ込められるためではなく、弟子たちとともに他の人々のもとへ歩むために来られました。
- ダビデの真の子孫はイエス・キリストであり、その復活の体こそが、神が完全に住まわれる新しい神殿です。
- 今日、教会がこの新しい神殿です。御霊が宿る民として、四方の壁に留められることなく、地の果てにまで遣わされているのです。
実践への適用
- 今日、あなたは自分の時間、エネルギー、お金を具体的に何に投資していますか。「石」(構造、建物、体裁)にでしょうか、それとも「民」(人々、宣教、兄弟姉妹の交わり)にでしょうか。
- すべてが順調なとき――国が平和で、家庭が安定し、状況が快適なとき――あなたはダビデのように、神のことを思い起こしていますか。それとも、繁栄の中でこそ神を忘れてしまいますか。
- あなたの教会生活の中で、場所や建物、日曜礼拝そのものを目的にしてしまう誘惑はありませんか。扉を閉ざしてしまうのではなく、天幕を開いたままにしておくには、どうすればよいでしょうか。
- あなたはむしろ、神殿の壁の中に「住み着いた」クリスチャンでしょうか。それとも、イエスとともに世界の道を「歩み続ける」クリスチャンでしょうか。
- あなた自身が御霊の住まわれる神殿であるからこそ(コリント人への第一の手紙 3:16)、今週、あなたの周りの誰が、あなたの生き方を通して神と出会うことができるでしょうか。
引用聖句
- サムエル記第二 7:1-17――ナタンからダビデへの御言葉
- 創世記 12:1-3――アブラハムの召命
- 創世記 15:4――あなたの身から出る者
- 出エジプト記 19:4-6――祭司の国、聖なる国民
- 列王記第一 5:19――ソロモンが主の御名のために家を建てる
- ゼカリヤ書 6:13――主の神殿を建てるのはこの人である
- マタイ 1:1――アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト
- ヨハネ 1:14――言はわたしたちの間に天幕を張られた
- ヨハネ 2:19――この神殿を壊してみよ、三日で建て直す
- コリント人への第一の手紙 3:16――あなたがたは神の神殿であり、御霊が住んでおられる
- 黙示録 21:22――わたしは神殿を見なかった
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よくある質問
神が石に投資されないのなら、建物を建てたり改修したりする教会は批判されるべきなのでしょうか。
いいえ、このメッセージは神殿の建築を否定するものではありません。神ご自身がソロモンに神殿を建てることを許し、後にゼルバベルにはその再建を許しておられます。礼拝の場所には、この地上での意義があります。それは神の民に目に見える形を与え、人々が集まることを可能にし、礼拝を捧げる場所を提供します。本当の警告は、決して「民を犠牲にしてまで」神殿を建ててはならないということです。神の優先順位は石ではなく、キリストを通して形づくられる家族にあります。
「私たちは神の神殿である」とは、具体的にどういう意味なのでしょうか。
使徒パウロはコリント人への第一の手紙 3:16で、教会――そしてそれを通してすべての信者――が、神が御霊によって住まわれる場所となったと説明しています。神の臨在は、もはやエルサレムの神殿のような聖なる建物に結びついてはいません。それは、御霊が宿り、遣わされ、動き続ける民に基づいています。これはあなたの日々の生活を変えます。あなたの体、あなたの人間関係、あなたの仕事が、世界における神の臨在の場所となるのです。あなたはその臨在を、あなたが行くところどこへでも運んでいくのです。
なぜ神は、ダビデのこれほど美しい計画に「否」と答えられたのでしょうか。
神はダビデの敬虔な意図そのものに「否」と言われたのではありません。むしろ、子孫がこの神殿を建てると約束することで、その意図を尊重してもおられます。しかし、神はダビデの視点を正されます。アブラハム以来の神の真のご計画は、地上のすべての家族を祝福する民、諸国民に向かって歩み続ける民です。しっかりした家は、この民を定住させ、閉じ込めてしまう危険があります。神はむしろ、まず彼に「家族」を築こうとされます――それはキリストにまで至る王朝であり、神はそのキリストのうちに完全に住んでおられるのです。ダビデの意図は良いものでした。しかし神の優先順位は、さらに大きなものだったのです。
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