はじめに
「わたしは光として世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまることのないためである。」ヨハネによる福音書12章46節のこの言葉は、ADD Nantesで語られたメッセージの中心です。説教者のは、このメッセージに「もう闇の中にとどまらない」という題をつけました。
ヨハネ12章44-50節です。イエスは公の働きの終わりに来ています。これを公に宣言すれば、背後で扉が閉まり、もう後戻りはできないことを知っておられました。そこでイエスは、最後の呼びかけを大声で叫ばれます。
背景には、使徒ヨハネの悲しい指摘があります。多くの奇跡があったのに、宗教家たちは不信仰のままだったのです。説教者は聖書の本文を一節ずつたどりながら、夜から出て光のもとに来るよう、一人ひとりを招いています。
メッセージの流れ
1. 証拠が足りないから信じないのではない
- ヨハネは37節でこう記しています。「イエスが彼らの目の前で、多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」イエスは行く先々で良いことをなさいました。
- 彼らの不信仰は、証拠の不足では説明できません。イエスは神の子であることを証明されましたし、ヨハネは、この書に書かれていない他の多くのしるしも行われたと述べています(ヨハネ20章30節)。
- ヨハネの福音書で、イエスは「わたしは…である」と語られます。「わたしは道であり、真理であり、命である」「わたしは世の光である」「わたしはよみがえりであり、命である」。説教者は、イエスがここで自分が神であることを明確に、説得力をもって示しておられると語ります。
- それでも人の心は、闇の中にとどまりたがります。彼らは自分たちを治める政治的な王を望みましたが、悔い改めることは拒みました。
2. イエスはなぜ叫ばれるのか
- 本文は、イエスが語られたと言うだけではなく、「叫ばれた」と記しています。別の訳では、群衆の前で大声で語られたとあります。イエスは、このことをすべての人に知ってほしいと願われました。
- ヨハネの福音書には、イエスが叫ばれる場面が三度あります。そのメッセージが重要で、本質的で、「いえ、いのちに関わるもの」だからです。
- 一度目は、ヨハネ7章37節の招きです。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」説教者は問いかけます。あなたは平安、愛、赦しに渇いていませんか。この世は、ひびが入って水の漏れる水ためのようなものです。そこから汲んでも、決して満たされません。生ける水の源であるイエスのもとに行かなければなりません。
- 二度目は、ラザロの墓の前です(ヨハネ11章43節)。説教者は、ある説教者の言葉を引きます。イエスがラザロの名を呼ばれて本当によかった。そうでなければ、死者がみな出てきてしまったでしょう。そして今日、主は誰かの心の中で「出てきなさい」と叫んでおられるのかもしれません。
- 三度目が、この箇所です。イエスは、ご自身が世に来られた目的と、ご自分を拒む者を待ち受けるものについて、最後にもう一度宣言されます。
3. イエスを見る者は父を見る
- 「わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである」(ヨハネ12章45節)。イエスは父との一つであることを強調されます。「父とわたしは同じ言葉を語っている。」
- イエスは遣わされた方であり、父は遣わす方です。イエスが語り、行われたすべては、父のためになされました。「何という調和でしょう。」イエスは最後まで忠実で、父が与えられた者を一人も失われませんでした。
- だれも神を見て生きることはできません。しかしイエスを見た者は、父を見たのです。「わたしたちは天に上ったのではありません。しかしイエスは、降りてこられることで、天をわたしたちのところまで運んでくださいました。」
- 御使いや大天使やセラピムのことを知る必要はありません。イエスを知るとき、あなたはイエスにおいてすべてを満たされているからです(コロサイ人への手紙2章10節)。「わたしはイエスを見たことがない」と言うなら、説教者は、兄弟姉妹を通してイエスを見ているのだと答えます。
- もう闇の中にとどまらないとは、暗がり、薄暗がり、夜から出ることであり、沈黙やあいまいさ、ぼやけた状態から出ることでもあります。イエスは光の神です。
4. イエスを拒むことは父を拒むこと
- イエスは父の完全な現れでした。イエスを拒むことは、神ご自身と神の国を拒むことです。「単純な教えですが、何と深いことでしょう。」
- 多くの人がこのメッセージを聞き、拒みました。「わたしには足りない。イエスはいらない。」
- 説教者は、ルカ16章の金持ちを思い起こさせます。彼は神を恐れることなく、華やかで楽しい生活を送っていました。死は、ラザロにも彼にも訪れました。ラザロはアブラハムのふところに運ばれ、金持ちは苦しみの場所にいました。彼は祈りましたが、聞き入れられませんでした。
- 人間は一度だけ死ぬことが定まっていて、そのあとにさばきがあります(ヘブル人への手紙9章27節)。ですから、イエスに応えるべきなのは、この地上で生きている間なのです。
5. すべての人のために来られた光
- イエスは「わたしはユダヤ人だけの光である」とは言われませんでした。イエスは世の光であり、すべての人のための光です。
- そのためにイエスは、永遠の昔からほめたたえられ、礼拝されていた栄光の天を離れられました。ご自分を無にして(ピリピ人への手紙2章7節)、ひとりの人として来られ、「あなたであり、わたしである」罪人のために十字架で死なれました。
- だれもイエスに強いたのではありません。それは意図された行為であり、神の愛と恵みの現れです。私たちの誰一人として、それに値する者はいません。そして、ほかの道はありません。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。
- 肉体の目ではよく見えます。しかし霊的には、イエスのいない人は闇の中にいます。ヨハネ9章の生まれつき盲人だった人が宗教家たちに言ったように、この方がどなたかを彼らが知らないとは驚くべきことです。
- イエスは、あなたがもう隠れて生きないよう招いておられます。イエスが神の子であると信じ、その言葉に耳を傾け、信頼し、従い、ついていくと決心することです。「イエスについて歩むのは、たしかに簡単ではありません」。けれども、その歩みには価値があります。御子を持つ者は命を持っています(ヨハネの第一の手紙5章12節)。
6. 救うために来られたが、御言葉がさばく
- 「わたしがきたのは、世をさばくためではなく、世を救うためだからである」(ヨハネ12章47節)。説教者は、これが最初の来臨のことだと説明します。イエスは、ご自分に何が起こるかを知ったうえで来られました。闇の中を歩む人間がどうなるかを知っておられたからです。
- イエスは、創世記3章15節で告げられた女の子孫であり、蛇である悪魔の頭を砕く方です。イエスはゴルゴタの十字架でそれを砕かれました。
- 父ご自身が私たちを愛しておられます。私たちがイエスを愛し、イエスが神から出て来られたことを信じたからです(ヨハネ16章27節)。
- イエスの言葉を拒むことは重大です。「わたしが語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネ12章48節)。救いを差し出した御言葉が、罪に定められる根拠になるのです。「あなたはその御言葉をどうしましたか。」
- イエスはご自分から語られたのではありません(49節と50節、ヨハネ8章28節も参照)。父の言葉から一点一画も削らず、はみ出すこともありませんでした。ですから私たちは、キリストの言葉を父の言葉として受け入れることができます。
7. 人の栄光か、神の栄光か
- 43節で、ヨハネはある人々がイエスに従わなかった理由を説明しています。彼らは、神の栄光よりも人の栄光を愛したのです。
- 彼らはイエスが良いことを行い、神の国を宣べ伝え、父を現されるのを見ましたが、多くの人が神の永遠の栄光よりも、人のはかない栄光を選びました。あなたは今日、何を望んでいますか。
- 永遠の栄光は、イエス・キリストのうちにあります。ヨハネ8章12節で結びます。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」
心に留めたいこと
- 不信仰は証拠の不足から来るのではありません。人の心は闇の中にとどまることを好むのです。
- イエスは、そのメッセージが命に関わるものだから叫ばれます。今日も、来て飲むように、出てくるように、信じるようにと呼びかけておられます。
- イエスを見る者は父を見ます。イエスにおいて、私たちはすべてを満たされています。
- イエスは救うために来られましたが、イエスが語られた御言葉が、終わりの日にそれを拒んだ者をさばきます。
- 世の光であるイエスに従うとは、人のはかない栄光よりも、神の永遠の栄光を選ぶことです。
個人への適用
- あなたの人生のどの部分で、まだ闇の中、薄暗がり、ぼやけた状態にとどまっていますか。
- 今日、あなたは何に渇いていますか。平安、愛、赦しでしょうか。その渇きをいやすために、どこへ汲みに行っていますか。
- すでに聞いたイエスの言葉を、あなたはどうしましたか。
- 主があなたに呼びかけておられるのに、あとまわしにしていることはありませんか。応えるべきなのは、生きている間です。
- あなたは神の栄光よりも、人の栄光を求めていませんか。
引用された聖句
- ヨハネ12章37-50節
- ヨハネ20章30節
- ヨハネ7章37-38節
- エレミヤ書2章13節
- ヨハネ11章43節
- ヨハネ14章6-9節
- 出エジプト記33章20節
- コロサイ人への手紙2章10節
- ルカ16章19-31節
- ヘブル人への手紙9章27節
- ピリピ人への手紙2章7節
- ヨハネ9章30-32節
- ヨハネの第一の手紙5章12節
- 創世記3章15節
- ヨハネ16章27節
- ヨハネ8章12節
- ヨハネ8章28節
- 詩篇119篇11節
よくある質問
ヨハネ12章44節で、イエスはなぜ叫ばれるのですか。
本文には、イエスが叫ばれ、群衆の前で大声で語られたとあります。説教者は、ヨハネの福音書でイエスが三度叫ばれることを指摘しています。渇く者を招くとき(ヨハネ7章37節)、ラザロの墓の前(ヨハネ11章43節)、そしてこの箇所です。イエスが叫ばれるのは、そのメッセージが命に関わるものであり、すべての人に知ってほしいと願われるからです。
「わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見る」とはどういう意味ですか。
イエスは父との一つであることを宣言されています。だれも神を見て生きることはできませんが、遣わされた方であるイエスは、遣わす方である父を完全に現しておられます。私たちが天に上ったのではなく、イエスが降りてこられることで、天を私たちのところまで運んでくださいました。ですから、イエスを拒むことは神ご自身を拒むことなのです。
イエスがさばくために来られたのでないなら、終わりの日にはだれがさばくのですか。
最初の来臨で、イエスは世をさばくためではなく、救うために来られました。しかしイエスは、ご自分が語られた御言葉が、終わりの日にそれを拒む者をさばくと言われます(ヨハネ12章48節)。救いを差し出す御言葉は、それを聞きながら軽んじた者にとって、罪に定められる根拠となります。