はじめに
メッセージの聞き方には二通りあるとジャン=マルク・リュフェナハト牧師(Gospel Center Lausanne)は語ります。ひとつは、スマートフォンを手にしたまま受け身で聞く方法。もうひとつは、「主よ、今朝わたしに何を語りたいのですか」と心を整えて聞く方法です。心を整えると、神は語り始めてくださいます。ときには、説教者が取り上げていない話題についてさえ語ってくださいます。
教会は、神の栄光と臨在に実際に出会う時を過ごした教会の週末を終えたところです。説教者は、神が蒔き始められたことを続けようとしておられると確信しています。そこから出てくる最初の問いは、「今、わたしたちはどんな季節にいて、神はわたしの中で、そして教会の中で何をしようとしておられるのか」というものです。
その答えは二つの鍵にまとまります。父の心を知ること、そして父に従うことです。説教者はこれをヨハネ15章から、さらにアブラハムの物語を通して解き明かします。アブラハムは約束を受け、疑い、自分の力で成し遂げようとしました。それでも神は、語られたことを繰り返し告げ続けられました。
メッセージの流れ
1. 従順によって神の友となる
- 神の心を知ることは、神のみこころに協力し、神がわたしたちの人生の中に形にしたいと願っておられることに加わる機会となります。「神がわたしの人生で何をしたいのか知らなければ、神と協力することもできません。」
- イエスはこう言われます。「わたしはもうあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを、みな あなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)。神の友であるからこそ、神の心にあるものが分かるのです。
- この節は、その前の節と切り離して引用されることがよくあります。「あなたがたにわたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:14)。「神とただの仲良しになって、好きなように生きて、神の声には耳を傾けない、というわけにはいきません。」従順は神との友情への入口となり、その友情の中で神は父の心を示してくださいます。
- どんな友情もそうであるように、この友情も築かれていくものです。小さな一歩、育っていく信頼、共に過ごす時間によって。
- 良い知らせは16節にあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」最初の一歩を踏み出してくださるのは神であり、「あなたを選ぶ。わたしの友になってほしい」と語りかけてくださいます。
2. アブラムは約束を受け、歩み出す
- 創世記13章で、ロトと別れた後、主はアブラムに言われます。「目をあげて、あなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。あなたが見わたすすべての地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます」(創世記13:14-15)。主は、地のちりのように数多くの子孫を約束されます。
- アブラムが最初にしたことは、天幕を移してマムレのかしの木のかたわらに住み、そこに主のために祭壇を築くことでした(創世記13:18)。彼は約束を聞いて、すぐに行動したのです。
- わたしたちは皆、約束を受けています。説教者は、それは個人的に聞いた言葉だけではないと補足します。神がみ言葉の中で癒やしたいと宣言しておられるなら、それは自分の人生のためにつかむことのできる約束です。
- けれども、受けた約束がまだすべては実現していない人も多くいます。アブラムも同じでした。彼の妻は不妊だったのです。
3. 疑いは神を怒らせない
- 創世記15章で、アブラムは疑います。「それは当然のこと」だと説教者は言います。神は彼に言われます。「恐れてはならない、アブラム、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう。」アブラムは、自分には子がなく、家の僕であるダマスコのエリエゼルが跡を継ぐことになる、と答えます(創世記15:1-3)。
- 時間が過ぎました。「疑わない人がいるなら、どうやっているのか教えてください。わたしは疑い始めていますから。」
- 神は答えられます。彼自身から生まれる子が跡継ぎになる、と。そしてアブラムを外に連れ出し、こう言われます。「天を仰いで、星をかぞえることができるなら、かぞえなさい。あなたの子孫はこのようになるでしょう。」アブラムは主を信じ、主はこれを彼の義と認められました(創世記15:5-6)。
- 「主は、わたしたちが主の前で正直になり、疑いを抱えたまま主のもとに来ることを、気分を害されたりしません。」神の前で立派なクリスチャンを演じる必要はありません。ときには、神に来ていただいて語っていただき、約束を思い出させていただく謙遜さが必要です。
- 神は、最初は疑ったアブラムの信頼を義と認められました。説教者にとって、これは完全な信仰が必要だという考えからの解放を意味します。
4. 約束を自分の力で成し遂げようとするとき
- 創世記16章で、サライはエジプト人の女奴隷ハガルをアブラムに差し出します。「主はわたしに子を授けられませんでした。どうぞわたしの女奴隷の所にはいってください。たぶん彼女によってわたしは子をもうけることができるでしょう」(創世記16:2)。イシマエルが生まれ、アブラムは86歳でした。
- 「神の約束を自分の力で成し遂げようとしたことのある人はいますか。有罪です。」時間が過ぎ、忍耐を失い、手綱を握ってしまいます。昔もそうでしたし、今もそうです。
- それでも神はそこで手を引かれません。アブラムが99歳のとき、神は現れて言われます。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫をふやすであろう」(創世記17:1-2)。人間的には、90歳の妻がいる状況で、成就は不可能です。
- 説教者は、神がまず自らをささげてくださることに注目します。神が道を開いてくださり、そのうえでわたしたちが神に身をささげることができるのです。
- 神は四度目に約束を繰り返し、アブラムの名をアブラハムに改められます。「わたしはあなたを多くの国民の父とするからである」(創世記17:5)。サライの名もサラに改め、彼女に男の子を与えると約束されます。
5. アブラハムとサラの笑いからイサクの誕生へ
- アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言います。「百歳の男にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができよう。」そして付け加えます。「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」(創世記17:17-18)。
- 神はこの笑いや信仰の足りなさを問いただしに来られません。約束されたことを立て直し、強めてくださいます。サラは男の子イサクを産み、契約はイサクと結ばれるのです(創世記17:19)。
- 父なる神のイメージは、経験によってゆがめられていることがよくあります。「神は怒っていて、雷を落とすのではないかと思ってしまいます。」けれども神は愛と忍耐に満ちた方です。笑いを受け流し、真理を繰り返してくださいます。
- 創世記18章では、神に遣わされた三人の人が、サラに男の子が生まれると告げます。今度はサラが天幕の入口で笑います。「わたしたちは、ときに信仰のなさにおいてとても粘り強いものです。」
- 主は答えられます。「主にとって不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、定めの時に、わたしはあなたのところに帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」(創世記18:14)。ある時点で、主が介入して宣言されるのです。
- 創世記21章で、主は言われたとおりにサラを顧みられます。イサクは定められた時に生まれ、アブラハムは百歳でした。サラは言います。「神はわたしを笑わせてくださいます。これを聞く者は皆わたしに笑いかけるでしょう」(創世記21:1-7)。
- 神はわたしたちの状況を用いて、周りの人々に語りかけられます。説教者は問いかけます。約束がまだ見えないまま、三度目の思い起こしの中にいる自分は、他の人の証しをどう受け取っているでしょうか。
- 後に、神はアブラハムにイサクをささげるよう求められます(創世記22章)。説教者は聖書箇所を詳しく扱わず、ひとつの姿勢だけを取り上げます。神が与え、成し遂げてくださったことは、わたしたちの所有物にはならないということです。それは神がわたしたちに託された贈り物であり、神がなさったことの証しは神のものです。
6. 信仰を広げるための季節
- 8月の初めから、教会は生きた信仰、癒やしのための信仰、加速の季節、神のご性質、み言葉の黙想、賛美、聖霊について聞いてきました。説教者は、神が心を整え、みこころに協力できるようにし、一人ひとりに信仰を広げるよう促しておられると確信しています。
- 神がアブラハムに対して忍耐を尽くされたように、わたしたちにも忍耐を尽くしてくださいます。「ああ主なる神よ、あなたは大いなる力と、伸べた腕とをもって天と地とを造られました。あなたにとって難しいことは何もありません」(エレミヤ32:17)。不可能を可能にする神、それが神のご性質です。
- 神は個人にご自身を現されました。目の見えない人、体の不自由な人の癒やし、よみがえらされたラザロ。群衆にもご自身を現されました。開かれた紅海、周りを回った後に崩れたエリコの城壁、男性だけで5,000人、女性と子どもを含めれば1万5千人から2万人ほどだったかもしれない群衆が、五つのパンと二匹の魚で養われたことです。
- ひとりの子どもが持ってきたものでそれを成し遂げられた神なら、わたしたちがささげられるわずかなものでも、どれほど大きなことをしてくださるでしょうか。「そして、わたしたちがささげられるわずかなものとは、従順です。」
- 神にとって、難しさの度合いというものはありません。わたしたちは、あることには他のことより信仰が持てるものです。説教者は、死者がよみがえるのを見ることより、神の臨在を感じることのほうに信仰があると率直に認めています。「けれども、同じ神です。」
7. 手放し、悲しみを通り、従順へ戻る
- 説教者はいくつかの段階を挙げます。自分のコントロールを手放すこと、神を信頼すること、神はわたしにとって良い方だと信じることです。アブラハムは、自分の力で子どもを得るという考えを、自然な意味で悲しんで手放さなければなりませんでした。
- 失望や、試みたけれど実らなかったことを抱えているなら、神とともにその悲しみの道を歩んでください。牧会チームも寄り添うことができます。心に怒りが残っている間は、不可能に対する新しい信仰を受け入れることは難しいものです。
- 「望みが延ばされると、心を悩ます」(箴言13:12)。延ばされたその望みを父の前に置き、そこで癒やしを見いだすことが許されています。
- 説教者は自分自身の不従順も分かち合います。神は、ある期間ソーシャルメディアをやめるように求められました。最初は「いいえ」と答えました。神が何度か繰り返されたあと、やめました。すると身軽さを取り戻し、聖書を読むことは再び重荷ではなく、インスピレーションになりました。ただし、皆にソーシャルメディアをやめるよう求めているわけではないと断っています。
- 「従順にはコストがかかります。けれども神を信頼できます。従順の後に神が備えておられるものは良いものです。」父の心はこう語ります。「解き放ちたいことがたくさんある。ただ小さな『はい』が必要なのです。」
- メッセージは、全員での悔い改めの祈りで終わります。神が心に示される不従順についてゆるしを求め、神の忍耐とゆるしに感謝し、すみやかな従順のうちに神と歩むことを喜びます。悔い改めは重いものではありません。それは良いもの、軽やかなものであり、父の心へと近づけてくれます。
心に留めたいこと
- 父の心を知ること、そして父に従うこと。この二つが、わたしたちの季節に神がなさっていることの中へ入る鍵です。
- 従順はイエスとの友情への入口となり、その友情の中でイエスは父から学ばれたことを知らせてくださいます。
- 神はわたしたちの疑いを怒られません。アブラハムに対しても、責めるのではなく、約束を繰り返し、強めてくださいました。
- 約束を自分の力で成し遂げようとしても、神は見捨てられません。神は不可能を可能にする神であり続けます。
- わたしたちが神にささげられるわずかなものは従順であり、悔い改めは軽やかに神の心へ連れ戻してくれます。
個人的な適用
- 今、あなたはみ言葉をどのように聞いていますか。受け身で聞いていますか。それとも、神があなたに語りたいことを聞くために心を整えていますか。
- まだ実現を待っている神の約束はどれですか。疑いを抱えたまま、そのことを神に話す勇気がありますか。
- どの分野で、約束を自分の力で成し遂げようとしましたか。
- 父の前で悲しんで手放す必要のある失望や、延ばされた望みはありますか。
- 神の求めの中で、答えないままにしているものは何ですか。今週、どんな「小さな『はい』」を神にお返しできますか。
引用した聖書箇所
- ヨハネ15:14-16
- 創世記13:14-18
- 創世記15:1-6
- 創世記16:1-2, 16
- 創世記17:1-19
- 創世記18:9-14
- 創世記21:1-7
- 創世記22章
- エレミヤ書32:17
- ヨハネ6:9-13
- 箴言13:12
よくある質問
神の心にあるものを知るには、どうすればよいですか。
ジャン=マルク・リュフェナハト牧師はヨハネ15:15に基づいて語ります。イエスはわたしたちを友と呼び、父から聞いたことをみな知らせてくださいます。ただし14節には条件があります。「あなたがたにわたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友である。」従順がこの友情への入口となり、この友情の中で父はご自身の心を示してくださいます。
約束を疑うと、神は怒られますか。
いいえ。アブラハムは疑い、百歳で男の子が生まれるという約束を聞いて笑いさえしました。それでも神は彼を打たれませんでした。約束を繰り返し、強めてくださったのです。疑いの後、アブラムは主を信じ、主はこれを彼の義と認められました(創世記15:6)。わたしたちが正直な心で神のもとに来るとき、神は気分を害されません。
なぜ悔い改めは重荷ではないのですか。
ジャン=マルク・リュフェナハト牧師によれば、わたしたちは悔い改めを重いものと考えがちですが、本当は良いもの、軽やかなものであり、父の心へと近づけてくれます。神には解き放ちたいことがたくさんあり、ただ「小さな『はい』」、つまり従順への最初の一歩を待っておられます。