ヨハネ5章:自分からは何もしない子のへりくだり

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はじめに

「主なるわたしは変ることがない。」マラキ書3章6節のこの言葉で、2026年10月11日のエグリーズ・プロテスタント・エヴァンジェリック・ド・ナミュール(Église Protestante Évangélique de Namur)の礼拝は始まりました。秋が深まり、もうすぐ冬時間に切り替わります。日も短くなってきました。「時は過ぎ、季節は移り、わたしたちを取り巻く環境も変わります。わたしたちの人生も変わっていきます。」けれども神は、変わらずご自身に忠実であられます。

礼拝を導くローランは、一見つながりのなさそうな2つの賛美を続けて歌います。「王の王」、そして「主よ、赦してください」です。けれども、そこにはつながりがあります。イエスが王の王であるなら、わたしたちは自分の過ちをイエスの前に差し出さなければなりません。そして次の対比が続きます。王の王から「神のへりくだり」へと進むのです。

聖餐の前に、クロードはヨハネ5章からこの思いをさらに深めます。「わたしを離れては、あなたがたは何一つできない」と言われた方は、「子は自分からは何事もすることができない」とも言われた方です。これこそ神のへりくだりであり、パンと杯を受けるときに、わたしたちが見つめるよう招かれているものです。

メッセージの流れ

1. 神は変わらない、あなたがどんな季節にあっても

  • 「5年前、わたしたちはどこにいたでしょうか。5年後にはどこにいるでしょうか。それは誰にも分かりません。」わたしたちの心配ごとは毎朝新しくなりますが、神はこう言われます。「主なるわたしは変ることがない」(マラキ書3章6節)。
  • 神の愛は季節によって左右されません。遠く離れているように感じるときでも、神は忠実であり続けます。「主はいつくしみ深く、そのあわれみはとこしえに絶えることなく、そのまことは世々に及ぶからだ」(詩篇100篇5節)。
  • 日曜日にいちばん難しいのは、心を整え直すことです。携帯電話を切り、静まり、十字架に目を上げます。「あなたがたに語られるのは、キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外にはありません。」
  • イエスは過去の人物、「おそらく歴史上もっともよく知られた人物」にとどまりません。今も生きて治めておられ、「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」方です(ヘブル人への手紙13章8節)。だからこそ、わたしたちは確信をもって近づくことができます。
  • 神の偉大さは自然の中にも見えます。葉を落とす木、その木を養う腐葉土、将来の姿のすべてをすでに宿している種。それは樫の木にも、トネリコにも、ハシバミにもなります。

2. 神の真実は、わたしたちの過ちを見過ごしにはしない

  • わたしたちの生き方は、歌っていることをいつも映し出しているわけではありません。「愛が足りないことがあります。忍耐が足りないことがあります。信仰さえ足りないことがあります。」
  • 「神は良い方だから赦してくださる、分かってくださる」と言う人もいます。けれども聖書はこう言っています。「もしわたしたちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネの第一の手紙1章9節)。赦しは告白を通して与えられます。
  • 礼拝の時は、「他の人を吟味する前に、それぞれが」自分自身を吟味する時です。そして「主よ、わたしの人生の何が変わらなければなりませんか」と尋ねる時でもあります。
  • どう祈ればよいか分からなくなったときにも、賛美歌があります。「わたしたちが神の前に出るのは、完全だからではありません。神を必要としているから出てくるのです。」
  • いずれにしても、ありのままで来る以外に道はありません。神はわたしたちの思いも、その週の言葉も、誰にも打ち明けないことも知っておられます。

3. 福音の中心:神が先に動かれる

  • 「わたしたちの望みは、完全になれる自分の力にはありません。」それは、神がイエス・キリストにおいて成し遂げてくださったことにあります。
  • 「しかし、まだ罪人であったとき、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ローマ人への手紙5章8節)。神は、わたしたちにふさわしさがあったから愛されたのではありません。
  • アダムとエバの物語と同じように、先に動かれるのは神であり、わたしたちのほうへ来てくださるのも神です。
  • この愛は、信仰を持った日だけのものではありません。「わたしたちが強いときも、神は忠実です。弱いときも、神は忠実です。何も分からなくなったときも、神は忠実です。」

4. 僕となられた王の王

  • イエスは言われます。「わたしは心がやさしく、へりくだっている」(マタイによる福音書11章29節)。イエスはとても質素な境遇に生まれ、疲れ、飢え、苦しみ、拒絶を知っておられました。
  • パウロはこう書いています。「キリスト・イエスにあるこの思いを、あなたがたのうちに現しなさい。彼は神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり」(ピリピ人への手紙2章5〜8節)。
  • ここにパラドックスがあります。すべての栄光を受けるにふさわしい方が辱めを受け入れ、人々から仕えられることもできた方が仕えるために来られたのです。それでもイエスは神であることをやめたことはありません。自ら進んでこの立場を取られたのです。
  • 「その愛とは、ご自身を与えることです。その真実は、物事の最後までやり遂げられます。」ところがわたしたちは、認められること、正しいと言われること、仕えるよりも仕えられることを求めがちです。
  • このへりくだりは聖餐の食卓にも見えます。何枚かの板を組み合わせた台、アルミのトレイが2枚、小さなプラスチックのカップ。パンと、少しのつぶしたぶどう。「『これはわたしの体、これはわたしの血』と言われる王の王の、なんとへりくだっておられることでしょう。」

5. 子は自分からは何事もすることができない

  • 賛美「神のへりくだりを見なさい」は、アッシジのフランチェスコの言葉とされる文章に基づいています。その没後800年(1226年10月)が記念されています。ここにも謙遜の教訓があります。「21世紀のわたしたちは、先人たちを見下しがちです。」
  • イエスは言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしを離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネによる福音書15章5節)。ほかの人がこう言ったなら、いったい何様のつもりかと思うでしょう。
  • ヨハネ5章で、イエスはベテスダの池で38年間病に伏していた人をいやされます。そして「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と宣言されます。ユダヤ人たちはイエスが自分を神と等しい者としていると理解しますが、イエスはそれを訂正しません。イエスは本当に神の子であり、父と同じく本当に神であられるからです。
  • けれども、イエスはこう付け加えます。「子は、父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることはなんでも、子もそのとおりにするのである」(ヨハネによる福音書5章19節)。「わたしを離れては何一つできない」と言われた方が、子は父を離れては何もできないとも言われるのです。
  • 父はすべてのさばきを子にゆだねられました。すべての人が父を敬うように子を敬うためです(ヨハネによる福音書5章22〜23節)。それでもイエスは繰り返されます。「わたしは自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを求めているからである」(ヨハネによる福音書5章30節)。

6. へりくだりは偽りの謙遜ではない

  • クロードはファッションショーの例を挙げます。最後にモデルたちが舞台の奥にいるデザイナーを呼びに行き、デザイナーは断るふりをします。「いえいえ、わたしは自分の仕事をしただけです。」これが偽りの謙遜です。
  • 「へりくだるとは、謙遜な人を演じることではありません。」イエスは「心がへりくだっている」方であり、うわべだけの謙遜とは正反対です。
  • さばくことは、人間に任された最も難しい務めのひとつです。裁判官の話を聞くと、判決を言い渡すことほど重いものはありません。子はさばくすべての権威を受けていますが、自分からそれをするのではないと言われます。
  • ですから、他の人をさばく前に「自分自身をさばき、自分自身を吟味しなさい」(コリント人への第一の手紙11章28節参照)。「正しいのはわたしだ」と考える高慢な者として、パンと杯を受けることのないようにしましょう。

7. イエスに追いついていただく

  • 翌日の聖書の箇所、ヨハネ6章には、イエスが水の上を歩かれた出来事が記されています。とても短い一節です。「舟に乗りこみ、海を渡ってカペナウムの方へ向かって行った。既に暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにこられなかった」(ヨハネによる福音書6章17節)。
  • 「もしかすると、わたしたちはときどき、あなたがともにおられるかどうかを確かめもせずに、舟に乗り込んでいるのではないでしょうか。」主は毎日ともにいると約束してくださいますが、わたしたちは主に追いついていただかないまま、計画に乗り出してしまうことがあります。
  • 別のとき、弟子たちはイエスより先に進み、叫んでいる盲人を黙らせようとします。「ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」(ルカによる福音書18章38〜39節)。「主の前を行くのは、わたしたちの役目ではありません。」
  • それでも、なんという恵みでしょう。イエスはまだ彼らのところに来ておられませんでしたが、驚くべき方法で彼らのもとへ行ってくださったのです。
  • 聖餐の言葉もそれを思い起こさせます。わたしたちは、やぎや小羊の血によってではなく、神の子が流してくださった血によってきよめられるのです(ヘブル人への手紙9章12節参照)。「救いのためだけでなく、あなたなしには何もできないことを教えてください。」

心に留めたいこと

  • 神は変わりません。その真実は、季節にも、あなたの心の状態にも左右されません。
  • 神の真実は、わたしたちの過ちを見過ごしにはしません。赦しは告白を通して与えられます。
  • 王の王は自ら進んで僕となられましたが、神であることをやめたことはありません。
  • 子ご自身が父なしには何もしないと言われます。ましてわたしたちは、イエスなしには何もできません。
  • 本当のへりくだりは心の問題です。うわべだけの謙遜でも、他の人をさばく目でもありません。

自分への問いかけ

  1. あなたは日曜日、どのような心の状態で礼拝に来ていますか。神に心を向け直すのを妨げているものは何ですか。
  2. 特定の過ちを告白しなくて済むように、神の優しさをあてにしていませんか。
  3. 人生のどの分野で、イエスなしでも何かできるかのように行動していますか。
  4. 謙遜な人を演じてしまうことや、自分のものではないさばきを他の人に向けてしまうことはありませんか。
  5. イエスがともにおられるかを確かめないまま、どの「舟」に乗り込んでしまいましたか。

引用された聖書の言葉

よくある質問

イエスは「わたしを離れては何一つできない」と言いながら、どうして謙遜でいられるのですか。

ただの人間の口から出た言葉なら、これは高慢の極みでしょう。けれどもそれを語られた方は、ヨハネ5章で、子は父がなさるのを見ること以外、自分からは何もできないとも言われています。子ご自身が父に依存して生きておられる。そこに神のへりくだりが現れています。

へりくだりと偽りの謙遜は、何が違うのですか。

偽りの謙遜は、謙遜な人を演じます。ファッションショーのデザイナーが、拍手を断るふりをするようなものです。イエスのへりくだりは見せかけではありません。ご自身を心がやさしく、へりくだっていると語り、神であることをやめることなく、自ら進んで僕の立場を選ばれました。

ヨハネ6章の「イエスはまだ彼らのところにこられなかった」とは、どういう意味ですか。

弟子たちはイエスなしで、夜に舟に乗りました。この一節は、主がともにおられるかを確かめないまま、あるいは主に追いついていただかないまま、わたしたちも計画に乗り出していないかと問いかけます。それでも物語の中で、イエスは驚くべき方法で彼らのもとへ行ってくださいました。

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