はじめに
「神とどれほど長く歩んできたか、信仰がどれほど強いか、どれほど従順であるかにかかわらず、嵐はやって来ます。」ジーザス・ハウス・ロンドンの牧師アグ・イルクウ(Agu Irukwu)は、こう語り始め、「人生の嵐を通り抜ける」と題する2回シリーズのメッセージを開きます。これはその前編です。
牧師はまず現実から話を始めます。嵐に遭わずに人生を通り抜けることは不可能であり、そうでないと考えるのは「愚か者の楽園に住む」ようなものだと言います。聖書の中で心地よい箇所だけを選び、居心地の悪い箇所を避けがちなペンテコステ派の人々を、少しユーモアを交えて笑いながら語ります。しかし、聖書が示す現実は変わりません。
来週は嵐の中の避け所について語る予定ですが、今日はその土台として、嵐について知っておくべき七つの真理を伝えます。「知識は力」であり、無知こそ、敵が神の子どもたちに対して使う最大の武器だからです。
メッセージの流れ
1. 「もし」ではなく「いつか」
- イエスは弟子たちに、そして弟子たちを通してわたしたちに言われます。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。
- イザヤ書43章2節は約束します。「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におり」。牧師は、これらの約束が「もし」ではなく「いつか」という前提で語られていることを指摘します。
- 詩篇の作者は、悪い者に災いが多いとは言わず、正しい者に災いが多く、主がそのすべてから救い出してくださると言います(詩篇34篇19節)。ペテロはこう続けます。あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、驚き怪しんではいけない(ペテロの第一の手紙4章12節)。
- 聖書が一貫して伝えているのは、信じる者が試練を避けられるということではなく、神が試練のただ中で共におられ、耐える力を与え、それを通して形づくり、最後には救い出してくださるということです。
- 牧師は、風速に応じてハリケーンを5段階に分類するサファ・シンプソン・スケールを引き合いに出します。カテゴリー1は時速74マイルから、カテゴリー5は157マイル以上です。そこに人生の嵐の姿を重ねます。親しい友の裏切り、解雇、評判を脅かす告発、結婚を望んでいたのに終わってしまった関係、不合格になった試験、道を踏み外す子ども、病気の診断、痛みを伴う離婚、経済的な危機、崩れていく事業、神に忘れられたと思わせる長い待ち時間、愛する人の死などです。
- 牧師は、一つひとつの試練に等級をつけることはしません。ある人にとってカテゴリー1に見えることが、別の人にはカテゴリー5だからです。ただ、愛する人の死がカテゴリー5の嵐であることには、誰もが同意します。
- 二つの家のたとえ(マタイ7章24〜27節)では、雨も洪水も風も、両方の家を襲います。違いは嵐ではなく、あらかじめ据えられた土台にあります。一人は賢く、もう一人は愚かです。「備えは風が吹き始める前にするもので、吹いている最中にするものではありません。」
2. 神のみこころの中にいても、嵐を免れるわけではない
- 嵐は、必ずしも悪い行いから来るわけではありません。神があなたを罰しているとか、あなたが間違いを犯したということを、必ずしも意味しません。自分で嵐を招くこともありますが、いつもそうとは限りません。むしろ、従ったからこそ嵐が来ることもあります。
- マルコ4章35〜41節で、「向こう岸へ渡ろう」と言われたのはイエスご自身です。弟子たちは、偶然や不従順のせいで嵐の中にいるのではなく、イエスが乗せてくださった舟の中にいるのです。
- 牧師はこれを自分の教会に重ねます。神が方向を示してくださったのに、道中でカテゴリー4や5の嵐を含め、これほど多くの荒波に遭って驚き、不安になっている人がいます。
- パウロは、神が証しのために行くように告げたローマへ向かっています(使徒行伝23章11節)。それなのに、船は激しい嵐に巻き込まれ、「もはや助かる最後の望みもなくなった」のです(使徒行伝27章20節)。
- 「わたしたちにある唯一の保証は、一人で嵐に立ち向かうのではないということです。」
3. 嵐は隠されていたものを明らかにする
- どの嵐も、単に状況による試練というだけではありません。あなたが本当に何を信じているのか、そして土台が何なのかを明らかにします。「圧力は人格の欠点を作り出すのではなく、すでにそこにあるものをあらわにします。」
- イエスはシモン・ペテロに、サタンがあなたを麦のようにふるいにかけることを願ったと告げます(ルカ22章31節)。ふるいにかけても、麦に何かが加わるわけではありません。実と殻を分けるだけです。
- だから、同じ嵐を通ったのに、苦々しく怒りに満ちて出てくる人もいれば、神とのより深く成熟した歩みを得て出てくる人もいます。「結果を決めるのは嵐ではありません。人知れず築かれたものが決めるのです。」
- 同じ歌を歌い、同じクリスチャンの言葉を話し、同じ教会に通うことはできます。外から見れば、二つの家のように、わたしたちの生活は似て見えます。嵐は、それぞれが何の上に立っているかを示します。
4. 嵐は神をより深く知るきっかけとなる
- 舟に乗る前、弟子たちはイエスが病人をいやし、悪霊を追い出し、らい病人を清めるのを見ていました。しかし、自然に命じるお姿はまだ見ていませんでした。
- 嵐が過ぎたあと、彼らは非常な恐れを抱いて言い合います。「このかたは、いったい、だれだろう。風も海も従わせるとは」(マルコ4章41節)。彼らはイエスを知っているつもりでした。教師でありいやし主として知って舟に乗り、万物の主として知って舟から降りたのです。
- 子どもたちも財産も健康も失ったあと、ヨブは言います。「わたしはあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし今、わたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42章5節)。
- 説教はあなたに情報を与えます。しかし、通り抜けた試練は、神についてのあなたの知識を変えます。神は嵐であなたを罰しているのでも、そこであなたを見捨てたのでもありません。あなたが神について知っていることを広げておられるのです。
5. 嵐は過ぎ去り、そしてあなたを形づくる
- とどまり続ける嵐はありません。カテゴリー5のハリケーンでさえ、上陸すれば勢いを失い、沖合では消えていきます。「立ち続けていられるなら、嵐は過ぎ去ります。」
- 「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」(詩篇30篇5節)。パウロは、一時的で軽い患難が、永遠の重い栄光をもたらすと語ります(コリント人への第二の手紙4章17節)。
- マタイ14章25節で、イエスは疲れ果てた弟子たちのところへ、夜の第四時、夜明け直前に来られます。嵐には限りがありました。「どんな嵐も最後の言葉を持ってはいません。朝は必ず来ます。」
- 嵐は信仰と人格も形づくります。ヤコブは、さまざまな試練に会うときには、それを非常に喜ばしいことと思いなさいと言い、その理由を「知っているから」だと述べます。信仰が試されると忍耐が生み出されるからです(ヤコブの手紙1章2〜4節)。この「知っている」がかぎです。そこから何が生まれるかが見えているのです。
- 「抵抗がなければ筋肉をつくるジムはありません。穏やかな海で熟練した船乗りになった人はいません。」あなたが神に避けてほしいと願っていることが、神があなたを形づくるために用いておられることかもしれません。
- わたしたちは患難をも喜んでいます。患難は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み、練られた品性は希望を生むことを知っているからです(ローマ人への手紙5章3〜4節)。
6. 嵐はしばしば次の使命への備えとなる
- 多くの人は昇進や飛躍を望みますが、その道のりに必要な段階である困難は通りたがりません。聖書の大きな転機の多くは、嵐の中、あるいは嵐の直後に訪れます。
- ヨセフは兄たちに裏切られ、奴隷として売られ、ポテパルの妻に偽りの訴えをされ、王の牢獄に送られました。そこは、王が思い出してくれたときにしか出られない場所です。これらの嵐はすべて、神の計画に向けた備えでした。
- ヨセフは兄たちに言います。「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変えて、多くの民の命を救おうとされたのです」(創世記50章20節)。
- ヨナの嵐は彼を滅ぼしませんでした。逃げていた使命へと彼を連れ戻し、聖書に記された最も大きなリバイバルの一つへ導いたのです。
- パウロの難破は、彼をマルタ島へ、そしてローマへと導き、そこで彼の働きが広がっていきました(使徒行伝27章と28章)。
- 「元いた場所に戻ろうとするだけで、嵐を無駄にしてはいけません。」この嵐を通して神が何に向けて備えておられるのか、神に尋ねてください。
7. 嵐の中の神の臨在は、あなたが滅ぼされないことを保証する
- マルコ4章38節で、弟子たちがパニックになっている間、イエスは舟のとものほうで枕をして眠っておられます。無関心だから眠っているのではありません。イエスの平安は状況に左右されないのです。
- イエスの臨在は、嵐が起こるのを防ぎませんでしたし、すぐに静めたわけでもありません。しかし、舟が沈まないことを意味していました。
- 「たとい、わたしは死の影の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23篇4節)。「あなたを見放さず、あなたを見捨てられない」のです(申命記31章6節)。
- 神は黙っているように、眠っているように、無関心であるように見えるかもしれません。しかし、それは真実からほど遠いことです。神は気にかけ、関わり、完全にそこにおられます。
- 「嵐は、神の不在のしるしでも、怒りのしるしでもなく、ましてあなたを忘れたしるしではありません。」嵐はこの世での生活の一部であり、キリストにあって成長することの一部なのです。
- 結びに牧師は、シンプルな問いを投げかけます。イエスは本当にあなたの人生の舟に乗っておられますか。ほかのすべての土台となるのは、創造主との平和です。まだイエスを主、救い主として迎えていない人に、そうするよう招きます。イエスはその人の心の戸をたたいておられるからです。
要点
- 嵐は誰にでも訪れます。問題は、嵐が来るかどうかではなく、あらかじめどんな土台を据えておくかです。
- 嵐は、神の罰でも、あなたの間違いの証拠でもありません。みこころの中心にいても、嵐を通ることはあります。
- 圧力はあなたの中にあるものを作り出すのではなく、あらわにします。人知れず築かれたものが結果を決めます。
- とどまり続ける嵐はありません。嵐は過ぎ去り、あなたの信仰と人格、そして時には次の使命を形づくります。
- 舟の中にイエスがおられても嵐は防げませんが、あなたが沈まないことは保証されます。
個人への適用
- 今、どんな嵐を通っていますか。そして、神があなたを罰している、あるいは忘れたのだと、誤って結論づけていませんか。
- 最近の試練は、あなたの土台について何を明らかにしましたか。苦々しさでしたか、それとも神とのより深い歩みでしたか。
- 過去の嵐の中で、それまで知らなかった神について、何を学びましたか。
- 元いた場所に戻ることだけを求めるのではなく、この嵐が何に向けてあなたを備えているのかを、神に尋ねましたか。
- イエスがあなたの人生の舟に乗っておられると、確信をもって言えますか。
引用された聖句
- マタイ7章24〜27節
- マルコ4章35〜41節
- ヨハネ16章33節
- イザヤ書43章2節
- 詩篇34篇19節
- ペテロの第一の手紙4章12節
- 使徒行伝23章11節
- 使徒行伝27章
- ルカ22章31節
- ヤコブの手紙1章2〜4節
- ヨブ記42章5節
- 詩篇30篇5節
- コリント人への第二の手紙4章17節
- マタイ14章22〜33節
- ローマ人への手紙5章3〜4節
- 創世記50章20節
- 詩篇23篇4節
- 申命記31章6節
よくある質問
神のみこころの中にいるのに、なぜ嵐を通るのですか。
アグ・イルクウによれば、神のみこころの中にいても嵐を免れるわけではありません。弟子たちは、向こう岸へ渡るようにと言われたイエスに従っている最中に、嵐に巻き込まれました(マルコ4章35〜41節)。パウロも、神が遣わされたローマへ向かう途中で難破しました(使徒行伝27章)。嵐は、必ずしも神があなたを罰していることや、あなたが間違いを犯したことを意味しません。唯一の保証は、あなたが一人でそれを通るのではないということです。
嵐はクリスチャンの人生に何を明らかにしますか。
嵐は何か新しいものを作り出すわけではなく、表面の下にあるものを示します。ふるいが良い実と殻を分けるように、圧力は、あなたが本当に何を信じ、何の上に立っているかをあらわにします。だから、試練から苦々しさを抱えて出てくる人もいれば、神とのより深い歩みを得て出てくる人もいます。結果を決めるのは、人知れず築かれたものです。
人生の嵐にどう備えればよいですか。
二つの家のたとえ(マタイ7章24〜27節)では、嵐は両方の建物を襲います。違いは、嵐の前に据えられた土台にあります。アグ・イルクウは、備えは風が吹き始める前にするもので、吹いている最中にするものではないと語ります。ほかのすべての土台となるのは、神との平和です。イエスを主、救い主として迎え、あなたの人生の舟にイエスが乗っておられるようにしましょう。
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