はじめに
「これは暗い日々ではない。偉大な日々だ。」ウィンストン・チャーチルは1941年、第二次世界大戦が始まって2年が経ち、ヨーロッパが占領され、ロシアが侵攻を受けていた時期に、こう語りました。人々の心を奮い立たせようとしたのです。しかし、この戦争の惨禍を知っている今の私たちから見れば、そのような強がりはほとんど現実を見ていないように聞こえる、と説教者は述べています。
神の民が暗い日々を通るとき、聖書は希望をもって、しかも現実から目をそらさずに、どのように語るのでしょうか。それは、あなた自身の生活の中でも、信仰生活の中でも、また国や世界の情勢が暗くなっていくように見えるときも同じです。これは、オーストラリアのSummer Hill Churchで、列王記の連続講解の一環として語られたメッセージが投げかける問いです。
この箇所の物語は不思議で、ときに戸惑うものです。塩でいやされた水、二頭の雌ぐま、毒の入ったなべ。けれども、これらはこの問いに真正面から答えています。神はイスラエルの暗い日々を取りつくろいません。命をもたらす言葉を語る預言者エリシャを遣わされます。そしてこの預言者は、自分よりも偉大なかたを指し示しているのです。
メッセージの流れ
1. 神はチャーチルのようには語らない
- 列王記の初めでは、ソロモンへの油注ぎがイスラエルの黄金時代の幕開けのように見えました。けれども実際には、彼の王国はトランプで作った家のようなもので、次の世代にはもう崩れてしまいました。
- 王たちの霊的な失敗は、民を最も暗い日々へと突き落とし、大預言者エリヤでさえ深い落胆に沈むほどでした。
- 列王記は何も飾り立てません。神はこの暗い日々を、姿を変えた偉大な日々として示されることはありません。神は二人の救い手に油を注ぐよう命じられます。命の言葉を語る預言者エリシャと、さばきを行う王エヒウです。
- 前の週、エリシャはエリヤの霊の二倍の分を受けていました。この日曜日の問いは、彼がその力で何をするのか、ということです。
2. エリコ:いやされた水、解かれたのろい
- 荒野から戻ったエリシャは、再びヨルダン川を渡ってエリコに入ります。町の人々は言います。この町の場所は良いが、「水が悪いので、この地は流産を起すのです」(列王記第二2章19節)。
- 彼は水源に塩を投げ入れて宣言します。「主はこう言われる、『わたしはこの水を良い水にした』」。22節で「良い水になって」と訳されている言葉は、「いやす」と同じ語です。
- これは病人のいやしではなく、町そのもののいやしです。約600年前、イスラエルがヨシュアとともにこの地に入って以来、エリコはのろわれた町でした(ヨシュア記6章26節)。
- ひとつかみの塩と神の言葉によって、命が戻ります。しかも一時的にではなく「今日に至る」まで続きました。エリシャがこの地に最初の一歩を踏み入れたときから、彼の言葉は命をもたらします。
3. ベテルのあざける者たち:命の言葉を退ける
- ベテルへ向かう道で、若者の一団がエリシャをあざけります。「はげ頭よ、のぼれ」。すると林の中から二頭の雌ぐまが出てきて、そのうち42人を引き裂きました。この箇所は戸惑いを覚えさせ、多くの疑問を残します。
- 幼い子どもを思い浮かべがちですが、ここで使われている言葉は、乳飲み子から大人になる直前の若者まで指すことができます。説教者は、これは威圧的な若者の集団だったと考えています。
- エリヤは毛ごろもを着た人として知られていました(列王記第二1章8節)。エリシャは、自分の師が頭上高く天に取り上げられるのを見たばかりです。彼を「はげ頭」と呼ぶのは、頭髪のことではありません。「エリヤのいないあなたに何の値打ちがあるのか」と言って、彼に霊的な権威などないと決めつけているのです。
- ホセア書13章は、このような場面を暗示しているようです。そこでは、神が子を奪われた雌ぐまにたとえられています。ホセアはこの脅しを、まさにベテルで行われていたバアルと金の子牛の礼拝に結びつけています。偶像礼拝によって無防備になった民を守るために、神が怒りをもって来られる、という姿です。
- 預言者を軽んじることで、この若者たちは、神がご自身の言葉によって与えようとされる命といやしを軽んじています。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがない」(ヨハネによる福音書3章36節)。命の言葉を語るかたを退けることは、その命にあずかる道を失うことです。
- しかしエリシャと違って、イエスは自らのろいを十字架の上で負うことを受け入れられました。そして、あざけりに対してこう答えられました。「父よ、彼らをおゆるしください」(ルカによる福音書23章34節)。神のいやしと恵みを語るイエスの力は、エリシャにできたことをはるかに超えています。
4. やもめの油:神が思いやりを向けられるところ
- 4章では、エリシャの行いがイエスの行いと驚くほど似ています。ルカによる福音書は、しばしば見過ごされるこの比較に私たちが気づくことを願っています。
- エリシャの弟子のひとりの妻が彼に叫びます。夫は死に、債権者が来て二人の息子を奴隷として連れて行こうとしている、と。暗い日々を通っている人がいるとすれば、まさに彼女です。残っているのは、小さな油のつぼだけでした。
- エリシャは、隣人たちから空の器をすべて借りてくるように言います。わずかな油はそのすべてを満たし、借金を払い、その後の暮らしも支えるのに十分でした。
- この物語は、私たちの無謀な事業計画を神が祝福してくださるという約束ではありません。暗い日々の中で神の思いやりがどこに向かうかを示しています。「しえたげられる者のためにさばきをおこない、[...]みなしごと、やもめとをささえられる。しかし、悪しき者の道を滅びに至らせられる」(詩篇146篇7〜9節)。
- これはイエスにおいていっそう明らかです。イエスはやもめの家を食いつぶす者たちを責め(ルカによる福音書20章47節)、あきらめずに願うやもめの訴えを神が聞いてくださると保証し(ルカによる福音書18章1〜8節)、ひとり息子を失ったやもめにその息子を返してくださいました(ルカによる福音書7章11〜17節)。
- 説教者は自分自身のこととして語ります。困難な日々には、自分の安全を確保することに忙しくて、やもめや孤児や寄留者のことを忘れがちです。けれども、やもめの隣人たちは、空の器だけだったとしても、自分の持っているわずかなものを分かち合いました。
- 隣人たちがやもめの救い主なのではありません。油を与えたのは神です。あなたが世界を救う必要はありません。それはあなたの力をはるかに超えた務めです。けれども、隣人があなたの家の戸をたたくとき、その人が神の目に持っている価値は、あなたの応じ方を導いているでしょうか。
5. なべの中の死:神は私たちの愚かさをあがなうことができる
- 飢饉のときです。エリシャのしもべは、だれも知らない野うりを摘んできて煮物に入れ、預言者のともがらは叫びます。「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」(列王記第二4章40節)。
- 説教者は笑顔で言います。食べられる野草を探すときの第一のルールは、知らないものを食べないことです。最近、兄弟と南オーストラリアを車で移動した際、道端に不思議な実を見つけ、食べられるのだろうかと思ったそうです。ふたりは口にしませんでした。
- この預言者たちには見分ける力がありません。申命記は、神の民をこれと同じ愚かさをもって描いています(申命記29章18節、32章32節)。苦い根でも何でも食べてしまう採集者のように、イスラエルは、道で出会うどんな神にでも身を養わせていました。
- 最も暗い日々にこそ、愚かさはいちばん入り込みやすいものです。「やってはいけないとわかっているけれど、これ以上悪くなりようがない」。そうして私たちは神の知恵を手放し、口の中で死に変わるものを食べてしまいます。
- エリシャが少しの粉をなべに投げ入れると、害になるものは何もなくなりました。同じように、私たちが神の言葉に立ち返るなら、神は過去の愚かさの最も苦い味さえもあがなうことができます。他の神々を追いかけたイスラエルの愚かさほど大きな愚かさはありませんが、それでも神はそれを再び命へと変えることができます。
- それでもイエスは、私たちが霊的な飢えをどんなもので満たしているのか、見分けるよう呼びかけておられます。「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」。「わたしは命のパンである」(ヨハネによる福音書6章27節、35節)。
6. 大麦のパン20個:命を語る油注がれたかた、イエス
- ひとりの男がエリシャに大麦のパン20個を持ってきます。しもべは言います。「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。エリシャは答えます。「彼らは食べてなお余すであろう」(列王記第二4章43節)。そして主の言葉のとおりになりました。
- イエスが20個ではなく5つのパンで五千人を養われたのを見た人々は、この類似に気づかないはずがありませんでした。その直後、イエスは尋ねられます。「群衆はわたしをだれと言っているか」。人々は、バプテスマのヨハネ、エリヤ、昔の預言者のひとりだと答えます。ペテロは言います。「神のキリストです」(ルカによる福音書9章20節)。
- 「キリスト」または「メシア」は「油注がれた者」という意味です。王も祭司も預言者も油を注がれました。説教者によれば、ペテロは群衆の答えを否定しているのではなく、群衆が感じ取っていたことをさらに明確にし、広げているのです。あなたは預言者のひとりにとどまらず、この暗くなった世界に命の光をもたらすために神が定められたかたです、と。
- イエスは、預言者たちが素描することしかできなかったものを成し遂げられます。罪とあざけり、死と負債、過去の愚かさの苦み、そして私たちが差し出せるものがいつも少し足りないこの世界で、イエスは今も神の生ける言葉を語り続けておられます。
- イエスは神に油注がれた王であるだけではありません。最も困難な日々にうめく人々に、預言者のように命の言葉を語られるかたでもあります。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」(ヨハネによる福音書6章68節)。
- 結びの祈りで、説教者はラザロを墓から呼び出されたかたに感謝をささげます(ヨハネによる福音書11章43〜44節)。そのかたは、いつの日か私たちをも、墓の闇から呼び出してくださるのです。
心に留めたいポイント
- 神は暗い日々を偉大な日々に見せかけることはなさいません。その中に御言葉を遣わされ、その御言葉が命をもたらします。
- 神の言葉を携えるかたを軽んじることは、その言葉が差し出す命を自ら手放すことです。一方イエスは、のろいを負い、あざける者たちのために祈られました。
- 暗い日々には、神の思いやりはやもめ、孤児、寄留者に向かいます。あなたが誰かの救い主になる必要はなく、それでもあなたの心を神の心に合わせることができます。
- 過去の愚かさのうち、神のあがないの手が届かないものはありません。神の言葉に立ち返りさえすればよいのです。
- イエスは油注がれたかたです。エリシャが予告したことを成し遂げ、永遠の命の言をもっておられます。
個人への問いかけ
- 今あなたは、個人の生活、信仰生活、あるいは世の中の出来事において、どのような暗い日々を通っていますか。持ちこたえるために、どの言葉に向かっていますか。
- 心を乱されるからという理由で、あざけったり、遠ざけたりしている神の言葉はありませんか。
- プレッシャーの中にいるとき、あなたは周りのだれを見落としていますか。今週、どんな「空の器」を貸すことができるでしょうか。
- 過去の愚かさの跡を、一生背負い続けると思っていることはありませんか。なべに投げ入れられた粉のイメージは、あなたにとって何を変えますか。
- もし今日イエスが「あなたは、わたしをだれと言うか」と尋ねられたら、あなたは何と答えますか。
引用された聖句
- 列王記第二 2章19-25節
- 列王記第二 4章1-7節
- 列王記第二 4章38-44節
- ルカによる福音書 9章10-20節
- 列王記第二 1章8節
- ヨシュア記 6章26節
- ホセア書 13章
- ヨハネによる福音書 3章36節
- ルカによる福音書 23章34節
- 詩篇 146篇7-9節
- ルカによる福音書 20章47節
- ルカによる福音書 18章1-8節
- ルカによる福音書 7章11-17節
- 申命記 29章18節
- 申命記 32章32節
- ヨハネによる福音書 6章27節
- ヨハネによる福音書 6章35節
- ヨハネによる福音書 6章68節
- ヨハネによる福音書 11章43-44節
よくある質問
なぜエリシャはベテルの若者たちをのろったのですか。
「子供ら」と訳されている言葉は、大人になる直前の若者を指すことがあります。彼らは「はげ頭」と叫ぶことで、師エリヤを失ったエリシャをあざけり、預言者としての権威を否定しました。ベテルは金の子牛の礼拝が行われた場所であり、ホセア書13章は神を子を守る雌ぐまにたとえています。命の言葉を携えるかたを退けることは、その命にあずかる道を失うことです。
聖書はエリシャとイエスをどのように結びつけていますか。
エリシャは大麦のパン20個で百人を養い、イエスは5つのパンで五千人を養われました。その直後、ペテロはイエスを「神のキリスト」、つまり油注がれたかたと告白します。説教者によれば、ペテロはイエスを預言者だと見る群衆を正したのではなく、さらに先へ進んだのです。イエスは、預言者たちが素描することしかできなかったものを成し遂げられます。
列王記第二4章のやもめの油の物語から何を学べますか。
これは、私たちの無謀な計画を神が祝福してくださるという約束ではありません。この物語は、暗い日々の中で神の思いやりがどこに向かうかを示しています。やもめ、孤児、しえたげられる者たちです(詩篇146篇7〜9節)。隣人たちは器を貸しますが、油を与えるのは神です。私たちは世界の救い主ではありませんが、私たちの心を神の心に合わせることはできます。