はじめに
教会の中では、この問いは簡単に思えます。イエスの名はすべての名にまさると賛美し、イエスについての説教を聞き、「アーメン」と言って家に帰ります。けれども、イスラム教徒や仏教徒、ヒンドゥー教徒、無神論者があなたの信仰に疑問を投げかけてきたら、どうなるでしょうか。
その日曜日、オーストラリアのHope Church Perthで、Ervinはシリーズの一環として説教しているのではありません。どのテーマを語るべきかを主に尋ね、めったに耳にすることのない問いを選びました。イエス・キリストは神に至る唯一の道なのでしょうか。
彼は、議論に行き詰まると多くのクリスチャンがある決まり文句に逃げ込むと指摘します。「わたしたちは同じ神を礼拝しているのだから、議論する必要はない」。すべての道は神に通じていて、自分の信仰だけが真理だと主張しない限り、だれが何を信じてもよいと、わたしたちは繰り返し聞かされています。これを彼は「唯一の道というつまずき」と呼んでいます。
メッセージの流れ
1. 「道のひとつ」ではなく「わたしは道である」
- 答えはイエスご自身の言葉から始めなければなりません。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14章6節)。
- イエスは「わたしは数ある道のひとつである」とは言われません。「わたしはその道である」と言われます。ここで使われている定冠詞(英語の the にあたる言葉)は、ほかの道が入る余地を残していません。
- なぜ、ほかのグルや師、ほかの化身ではなく、イエスなのでしょうか。なぜ世界はユダヤ人のメシアを信じなければならないのでしょうか。それは傲慢な主張なのでしょうか。これに答えるために、説教者は歴史上のイエスから話を始めます。
2. イエスは異教の神々の模倣なのでしょうか
- よく聞かれる反論があります。キリスト教よりはるか以前から、ギリシア神話には処女から生まれた神々、死んでよみがえる神々、奇跡を行う救い主の神々がいた。新約聖書はギリシア語で書かれているので、福音書の著者たちはそうした物語を写しただけだ、というものです。
- Ervinは、ギリシア語は当時の共通語であって、メッセージの源ではなかったと答えます。キリスト教の神学的なルーツは異教ではなくユダヤにあります。イエスと使徒たちはユダヤ人であり、メッセージはヘブライ語聖書、その約束、預言、契約、そしてメシアに根ざしています。
- 彼はこうたとえます。「わたしが英語で福音を語ったら、キリスト教はオーストラリアの発明になるのでしょうか」。もちろん、そんなことはありません。
3. イエスはインドへ学びに行ったのでしょうか
- 回心して間もないころ、説教者はルームメイトから、イエスを信じないと言われました。イエスはインドへ行ってグルたちから学んだのだから、というのです。師は弟子にまさるのだから、ヒンドゥー教のほうがキリスト教よりすぐれている、という理屈でした。
- イエスがインドやチベット、そのほかの遠い国へ旅したという、信頼できる古代の歴史的証拠はひとつもありません。それは推測にすぎません。説教者は、キリスト教とヒンドゥー教や仏教とのあいだに似ているところは見当たらない、とも付け加えています。
- 聖書は、12歳から30歳までのイエスの生涯を詳しくは語っていません。12歳のとき、ヨセフとマリヤは過越の祭のためにイエスをエルサレムへ連れて行きます。二人は三日間イエスを捜し、宮の中で教師たちのただ中にすわり、彼らの話を聞いたり質問したりしているイエスを見つけます。イエスはその後ナザレに帰り、両親に従って暮らされました(ルカによる福音書2章41-52節)。
- イエスはおそらく大工でした。マルコによる福音書6章3節はイエスを「大工」と呼び、マタイによる福音書13章55節は「大工の子」と呼んでいます。おそらくヨセフのもとで仕事を覚えたのでしょう。
4. 排他的な主張は必ず傲慢なのでしょうか
- 真理についての主張は、どれも本質的に排他的です。あらゆる世界観がそうです。イスラム教はムハンマドが最後の預言者であると主張し、キリスト教はイエスが神であり人類の唯一の救い主であると主張し、仏教は創造主である神の存在を否定します。説教者はまた、仏陀ゴータマ・シッダールタがヒンドゥー教の出身で、自らの宗教を創始したことにも触れています。
- 主張そのものと、それを語る人の態度とを区別する必要があります。医師から「この治療法だけがこの病気を治せます」と言われたと想像してみてください。あなたはその医師を傲慢だと責めるでしょうか。問題は、その医師が本当のことを言っているかどうかだけです。
- キリスト教は、クリスチャンがほかの人より道徳的にすぐれていると主張しているのではありません。「わたしたちもまた、救われるために神の恵みを必要とする罪人なのです」。
- イエスはご自分を、数ある教師のひとりとして示されたのではありません。ペテロもそれを確証しています。「この人による以外に救はない」(使徒行伝4章12節)。パウロはテモテにこう書いています。「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(テモテへの第一の手紙2章5節)。説教者によれば、仏陀もムハンマドも、宗教の創始者でこの称号を主張した人はいません。
- 井戸の底に落ちてしまったと想像してみてください。一人目は登はんの技術について講義をし、二人目は井戸の歴史についての本を渡し、三人目は底で安全に過ごす方法を説明します。四人目ははしごを持ってきて、あなたが安全に上がれるように助けてくれます。イエスがしてくださったのは、まさにこのことです。イエスは単なるすぐれた教師ではなく、橋であり、わたしたちが救われるように道を開いてくださった方なのです。
5. すべての宗教は同じことを言っているのでしょうか
- よくこう言われます。「どの宗教も善い人であるようにと教えている。ただ神を、ヤハウェ、アッラー、ブラフマン、シヴァ、ヴィシュヌと、違う名前で呼んでいるだけだ」。
- 説教者もそれは認めます。ほとんどの宗教には、道徳的な責任、霊的な鍛錬、祈りについて似たような教えがあります。人を殺せとは教えていません。けれども、その中心にある主張は異なっています。
- キリスト教は、神は人格をもつ方であり、救いはキリストにのみあると断言します。イスラム教は、イエスが神の子であることと三位一体を否定します。ヒンドゥー教や仏教の伝統は、神と究極の実在について別の理解をもっています。
- だれかに、どの宗教も同じように正しいと言われたら、穏やかにこう尋ねてみることができます。「あなたは、イエスが神だと信じていますか。それとも、預言者のひとりにすぎないと思いますか」。この問いに対して、キリスト教とイスラム教は同じ答えをしません。
6. イエスについて一度も聞いたことのない人はどうなるのでしょうか
- 説教者は、自分でも感情的に難しいと認める問いに向き合います。生まれてすぐに亡くなった赤ちゃん、理解することのできない知的障がいのある人、アマゾンの奥地や宣教師がまだ一度も訪れたことのない山地に住む人々はどうなるのでしょうか。そして、忠実に祈るイスラム教徒、貧しい人に寛大なヒンドゥー教徒、思いやりにあふれた仏教徒、誠実な無神論者はどうなのでしょうか。
- 彼はまず、誠実さと真理は同じではないと答えます。人は誠実であっても、誠実なまま間違っていることがあります。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある」(箴言14章12節)。
- 聖書ははっきりした答えを示してはいませんが、原則を示しています。神は被造物を通してご自分の存在の十分な証拠を与えておられ、「したがって、彼らには弁解の余地がない」(ローマ人への手紙1章20節)のです。またローマ人への手紙2章は、心に記された律法と良心について語っています。ジャングルの奥深くにいても、人は何が善で何が悪かを知っているのです。
- 彼はこう付け加えます。「わたしたちは神ではありません」。わたしたちは人の永遠の行き先を知りませんし、魂の裁き手になろうとしてはなりません。「全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」(創世記18章25節)。神は、その人の置かれた状況も、動機も、心に隠されたすべての細部もご存じです。
7. 復活、そして招き
- 復活はキリスト教信仰の土台です。「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(コリント人への第一の手紙15章14節)、「あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう」(17節)。
- 復活がなければ、イエスはほかの宗教の創始者たちと変わりません。しかし、もしイエスが三日目によみがえられたのなら、「わたしは道であり、真理であり、命である」という言葉を無視することはできません。
- では、だれかに「それはあなたの聖書が言っているだけだ」と言われたらどうでしょうか。説教者は聖書以外の資料を挙げています。歴史家のタキトゥス、フラウィウス・ヨセフス、スエトニウス、そしてローマの総督だった小プリニウスです。彼はそれぞれの文書の詳細には触れていませんが、彼によれば、そのすべてがイエスが実在したことを裏づけています。
- キリスト教は、人類を救うために神が降りてこられた物語です。多くの人は自分の功績によって神に到達しようとします。「わたしは善い人間だから天国に行ける」。けれども、わたしたちのところに来てくださるのは神のほうです。神はイエスにおいて人となり、生き、死に、そしてよみがえられました。
- この招きは、特定の人種や国民、社会階層だけのものではありません。すべての人に、あらゆる場所で差し出されています。だからこそイエスは弟子たちをすべての国民のもとへ遣わし、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施すように命じ、世の終りまで彼らと共にいると約束されたのです(マタイによる福音書28章19-20節)。
- 勇気をもって宣べ伝えることは、争うことではありません。言い争うことなくだれとでも語り合い、筋道を立てて自分の信仰を弁明し、謙遜に生きることができます。ご自分を唯一の道であると宣言されたイエスは、弟子たちに隣人を愛するようにも命じられました。福音はわたしたちの善良さについてではなく、イエスにおいてわたしたちに示された神の恵みについて語っているのです。
- 「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ローマ人への手紙5章8節)。「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」(エレミヤ書31章3節)。
ポイントのまとめ
- イエスはご自分を数ある道のひとつとしてではなく、「わたしは道である」と示しておられます(ヨハネによる福音書14章6節)。
- キリスト教はギリシア神話ではなくヘブライ語聖書に根ざしており、イエスがインドへ旅したことを裏づける信頼できる古代の資料はありません。
- どの世界観も排他的です。問題は、ある主張が排他的かどうかではなく、それが真理かどうかです。
- 人は誠実であっても、誠実なまま間違っていることがあります。裁かれるのは神だけであり、神は公正に裁かれます。
- 復活は、イエスをあらゆる宗教の創始者から区別します。わたしたちのところに降りてこられるのは神であり、その招きはすべての人に向けられています。
個人への適用
- 信仰に疑問を投げかけられたとき、会話を避けるために「わたしたちはみな同じ神を礼拝している」という言葉の陰に隠れていませんか。
- このメッセージで取り上げられた反論のうち、どれを聞いたことがありますか。今日なら、それに穏やかにどう答えるでしょうか。
- 神に受け入れられるために、少しでも「善い人間」であることに頼っていませんか。
- あなたの家族、近所、職場で、まだ本当の意味で福音を聞いたことのない人はだれでしょうか。今週、争うことなく謙遜に、その人に福音を伝えるにはどうすればよいでしょうか。
- あなたの生活のどの部分が、自分の功績ではなく、受けた恵みをほかの人に示しているでしょうか。
引用された聖句
- ヨハネによる福音書 14:6
- ルカによる福音書 2:41-52
- マルコによる福音書 6:3
- マタイによる福音書 13:55
- 使徒行伝 4:12
- テモテへの第一の手紙 2:5
- 箴言 14:12
- ローマ人への手紙 1:20
- ローマ人への手紙 2:14-15
- 創世記 18:25
- コリント人への第一の手紙 15:14-17
- マタイによる福音書 28:19-20
- ローマ人への手紙 5:8
- エレミヤ書 31:3
よくある質問
イエスが神に至る唯一の道だと言うのは傲慢なことでしょうか。
Ervinにとって、真理についての主張はどれも排他的です。イスラム教、仏教、キリスト教は、それぞれ異なることを主張しています。本当の問題は、ある主張が排他的かどうかではなく、それが真理かどうかです。クリスチャンは自分たちが道徳的にすぐれているとは言いません。彼らは神の恵みを必要とする罪人なのです。
イエスについて一度も聞いたことのない人はどうなるのでしょうか。
説教者は、聖書ははっきりした答えを示してはいないものの、原則を示していると認めています。神は被造物を通して(ローマ人への手紙1章20節)、また良心を通して(ローマ人への手紙2章)ご自分を知らせておられます。わたしたちは魂の裁き手ではありません。全地をさばく方が公義を行われます(創世記18章25節)。
なぜ復活はキリスト教信仰にとって決定的なのでしょうか。
コリント人への第一の手紙15章14-17節によれば、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの信仰はむなしいからです。復活がなければ、イエスは数ある宗教の創始者のひとりにすぎません。もしイエスがよみがえられたのなら、「わたしは道であり、真理であり、命である」という言葉を無視することはできません。