イエスは私のために来られた

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ジュディット伝道師によるクリスマス説教、ヨハネ3:16-21。イエスをただの祝祭の飾りとしてではなく、あなたのために個人的に来てくださった救い主として受け入れるための招きです。

序論:イエスは来られた、あなたのために来られた

それはクリスマスの主日礼拝でした。日本語、英語、スペイン語で「メリークリスマス」と挨拶した後、ジュディット伝道師は聖書をヨハネ3:16-21に開き、この説教の題名となった問いを投げかけました。イエスは人類一般のために来られたのでしょうか、それともあなたのために来られたのでしょうか。

彼女にとってクリスマスとは、何よりもまず歴史的な思い出ではありません。それは受肉が実際にあなたの人生に何をもたらすかを、もう一度見つめ直す日です。「今日は、イエスがこの世に来られたことと、その到来が私たち一人一人とどうつながっているかを、共に考えたいと思います」と彼女は語りました。

この後のメッセージは、私たちが同時に抱えるのが難しい二つのことを結び合わせていきます。それは、私たちが罪人であることの深刻さと、ひとり子を送られた父なる神の愛の深さです。前者を欠けば、クリスマスは感傷的な祝祭になってしまいます。後者を欠けば、聖書は重荷になってしまいます。

説教の構成

1.はるか昔から告げられていた救い

ジュディットは、旧約聖書がメシアの到来を明確に預言していることを思い起こさせます。聖書は約千五百年の間に、およそ四十人の記者によって、聖霊の霊感のもとに書かれた六十六巻の書物です。そしてこの数世紀を貫いて、一つの同じ糸が浮かび上がってきます。それは、誰かが来られるということです。

彼女は三つの具体例を挙げます。

  • 創世記3.15、堕落の直後に語られた最初の預言です。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく。」この「女のすえ」こそ、来たるべきキリストです。
  • サムエル記第二7.13、ダビデ契約です。神はダビデに、その王座がとこしえに堅く立てられる子孫を約束されました。イエスはダビデの家系から来られます。
  • 詩篇22篇、ジュディットはこれを読み返して心を揺さぶられたと告白します。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(1節)。「彼らはわたしの衣を分け合い、わたしの下着のことでくじを引く」(18節)。「彼らはわたしの手と足を刺し貫いた。」そこには、十字架が起こる千年も前に、すでに十字架の姿が描かれているのです。

そこから彼女は一つの単純な確信を引き出します。何世紀もの時を超えて、これほどまでに符合する物語を人間が作り上げることなどできません。これらの預言は確かに存在し、時代を超えて失われることなく受け継がれ、そのすべてがイエスを指し示しているのです。

2.罪とは本当は何なのでしょうか

御子が何かのために来られたのだとすれば、それは私たちの罪のためです。ただし、そこで語られている「罪」が何であるかを知る必要があります。

罪を意味するギリシア語「ハマルティア」は、文字どおりには「的を外すこと」を意味します。第一ヨハネ3.4ははっきりとこう言います。「罪は不法です。」的とは、私たち個人の道徳観でも、社会の平均的な価値観でもありません。的とは、神の律法であり、神の御心です。

ジュディットは創世記に立ち返ります。エバが禁じられた実を見たとき、それは「食べるのに良く、目に慕わしく、賢くなるのに好ましい」ものに見えました。これはまさに第一ヨハネ2.16でヨハネが「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」と描写しているものと同じです。堕落は私たちの中に罪のDNAを刻み込みました。人はアジア人からアジア人として、白人から白人として、黒人から黒人として生まれるように、罪人から罪人として生まれるのです。自分には罪がないと主張することは、自分自身のDNAを否定するのと同じくらい不合理なことです。

その後、神は罪を目に見えるものとするために十戒を与えられました。唯一の神を礼拝すること、偶像を作らないこと、御名をみだりに口にしないこと、主の日を守ること、父母を敬うこと、殺してはならないこと、姦淫してはならないこと、盗んではならないこと、隣人について偽証してはならないこと、むさぼってはならないこと。そしてイエスはマタイ5.21〜22マタイ5.28において、律法をさらに徹底したものとされました。兄弟に対して怒る者はすでにさばきを受けるべき者であり、情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫を犯しているのです。

言い換えれば、恵みによって基準が下がったのではありません。むしろ基準は上がったのです。だからこそ、イエスが必要だったのです。

3.「神は世をこのように愛された」、その「世」とは誰のことでしょうか

これがヨハネ3.16〜18の中心です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ジュディットはここで立ち止まります。この「世」とは、あなたのことです。それは抽象的な概念ではありません。父はあなたのひとり子を、あなたのすべての思い、あなたのすべての失敗を知り尽くした上で、あなたのために渡されたのです。ピリピ2.6〜8は、それがどれほどの代価であったかを描いています。「キリストは、神の御姿であられるのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、かえって、御自分を無にして、仕える者の姿をとり…自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」

これが御子の側から見たクリスマスです。それは何よりもまず、かわいらしい馬小屋の情景ではありません。それは自らを捨てる決断です。御子は栄光を離れ、あなたの身代わりに死ぬために来られたのです。

4.信じるとは、ただ「主よ、主よ」と言うことではありません

「あなたは『私はイエス・キリストを信じています』と言うとき、正確には何を信じているのでしょうか」とジュディットは会衆に問いかけます。彼女はその問いをしばらく漂わせた後、こうまとめます。イエス・キリストを信じるとは、御子が神のひとり子であること、救い主として肉体をもって来られたこと、あなたの罪のために十字架で死なれたこと、葬られたこと、そして三日目によみがえり、天に昇られたことを信じることです。これは使徒信条が告白していることです。これが信仰の入り口です。

しかし、その入り口を通ることはゴールではありません。マタイ7.21〜23は容赦ありません。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。」イエスが「わたしはあなたがたを全然知らない」と言われる人々とは、主と呼びながら御心を行わなかった人々のことです。

ジュディットはこの二つを、どちらも薄めることなく共に保ちます。ローマ10.9〜10は真実です。人は心で信じ、口で告白することによって義とされます。しかし、この生きた信仰は、主に従っていく人生を生み出します。そうでなければ、それはローマ10章が語る信仰ではなく、中身を失った言葉にすぎません。

5.光と、闇を好む者たち

「そのさばきというのは、こうです。光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪であったからです」(ヨハネ3.19〜21)。

ジュディットは強調します。本当の分かれ目は、イエスが光であることを知っている者と知らない者の間にあるのではありません。悪魔でさえ、イエスが誰であるかを知っています(ヤコブ2.19)。本当の分かれ目とは、あなたが光のもとに来るか、それとも光から逃げるか、ということです。

彼女は心に響く例えを用います。「朝、妻に『愛している』と言いながら、午後には二重生活を送る夫は、本当に妻を愛しているのでしょうか。」私たちも同じです。「主よ、主よ」と言いながら闇の中に隠れ続けることは、闇を愛していることにほかなりません。イエスを愛するとは、さらけ出すのが恥ずかしいことをも携えて御前に来て、それを洗い清めていただくことです。

6.悔い改め、聖化、戦い

ここで説教はきわめて直接的になります。ジュディットは、救いに入ることと、救いの歩みを続けることとの違いを語ります。

入り口においては、あなたは「価なしに、恵みによって、キリスト・イエスによる贖いのゆえに義と認められ」ます(ローマ3.23〜24)。しかし、あなたはもはや戦う必要のない者にではなく、「赦された罪人」になるのです。ピリピ3.12で、パウロ自身がこう言っています。自分はまだ完全に捉えたわけではなく、今なお走り続けていると。

したがって、クリスチャンの歩みは自分の力によってではなく、「御霊によって」進められます(ガラテヤ5.16〜17)。そして私たちが訓練を受けるとき、それは神が私たちを退けられたしるしではなく、むしろ真の子であるしるしです。「わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない…主はその愛する者を懲らしめられるからである」(箴言3.11〜12)。羊は群れの中で、羊飼いと仲間の羊たちと共に生きます。しかし、やぎは一頭で山へ出て行き、迷い出てしまいます。

最後に、彼女はマタイ23章を思い起こさせます。パリサイ人とは、単に「他の誰か」のことではありません。すべての心には、うわべを取り繕う誘惑が潜んでいます。「白く塗った墓のようです。外側は美しく見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れで満ちています」(マタイ23.27〜28)。解決策は、もっと上手に取り繕うことではありません。その墓を、癒やし主の前に開くことです。

7.告白:なぜこれほど難しいのか、そしてなぜこれほど自由にするのか

ジュディットは会衆に微笑みをもたらす例えを用います。誰かに愛を告白するとき、心臓は高鳴り、恐れを感じ、恥ずかしさを覚えます。なぜでしょうか。それは、自分の尊厳を相手の手に委ねているからです。もし愛していない相手に愛を告白したとしたら、心臓は高鳴らないでしょう。それは嘘だからです。

私たちの罪の告白も同じように働きます。それが本物であるとき、そこには代価が伴います。それを難しくしているのは神ではなく、私たちの高慢です。アダムとエバは罪を犯した後、身を隠しました。私たちも同じことをします。しかし、罪は隠れていることを好みます。そうすることによって罪は大きくなっていくのです。

告白するとは、光のもとに出て行くことです。そして光のもとでは、闇は瞬時に消え去ります。これこそが、クリスマスの恵みです。

心に留めたいポイント

  • イエスは、名もない「世」のために来られたのではありません。イエスはあなたを名前で知った上で、あなたのために来られました。
  • 罪とは、あなたの文化の的を外すことではなく、神の的を外すことです。あなたの置かれている環境に、神が悪と呼ぶものの定義を変えさせてはなりません。
  • 信じるとは、ただ「主よ、主よ」と言うことではありません。それは、信じ、告白し、そして歩むことです。
  • あなたは「赦された罪人」であって、もはや戦う必要のない者ではありません。戦いはゴールに至るまで続きます。
  • 告白が自由をもたらすのは、それが秘密の力を打ち破るからです。あなたが光のもとにさらけ出したものを、悪魔はもはや利用することができません。

自分への適用

  1. 「私はイエス・キリストを信じています」と言うとき、あなたは正確に何を信じているのかを言葉にできますか。使徒信条の五つの要点、すなわちひとり子であること、受肉されたこと、あなたのために十字架につけられたこと、よみがえられたこと、天に昇られたことを、あなたは言い表すことができますか。
  2. あなたの人生の中で、聖書が罪と呼ぶものを、あなたの文化や家族や時代のせいにして正当化している領域はありませんか。
  3. あなたは今、恐れや恥や高慢のために何を隠していますか。今週、それを誰に告白できるでしょうか。まず神に、そしておそらく兄弟姉妹の誰かに。
  4. あなたは群れの中で、すなわち羊飼いと兄弟姉妹のいる地域教会の中で生きていますか。それとも、「聖霊さえいれば十分だ」と自分に言い聞かせて、一人で歩んでいますか。
  5. あなたは今、主の懲らしめとどう向き合っていますか。それを愛のしるしとして受け止めていますか、それとも拒絶として受け止めていますか。

引用聖句

FAQ

「イエスを信じる」だけで天国に行けるのでしょうか

ジュディットは二段階で答えます。はい、入り口は一つだけです。心のすべてで信じ、口でイエスは主であると告白することです(ローマ10.9〜10)。しかし、この信仰は魔法の言葉ではなく、主に従う人生を生み出す生きた信仰です。マタイ7.21〜23は、口先だけの信仰に対してはっきりと警告しています。

御子がすでにすべての代価を払われたのに、なぜ神は私たちを懲らしめられるのでしょうか

懲らしめは代価の支払いではないからです。代価の支払いはすでに十字架で成し遂げられました。懲らしめは、あなたが神の家族に属していることの証しです。箴言3.11〜12はこう言います。「主はその愛する者を懲らしめられる」と。羊は群れの中にとどまり、羊飼いの杖に耐えます。やぎは一頭で出て行き、迷い出てしまいます。懲らしめは、あなたが神の子であることを裏づけているのです。

自分が本当に光の中を歩んでいるかどうかは、どうすれば分かるのでしょうか

ジュディットがヨハネ3.19〜21から示す基準はとても単純です。あなたは自分の恥じるべきことを携えて光のもとに来ますか、それともそれを隠しますか。闇を愛するとは、イエスが光であることを知らないことではなく、自分の人生をその光にさらすことを拒むことです。健全なクリスチャンの歩みは、隠すことによってではなく、告白することによって前進していきます。

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