はじめに
「主よ、私は何を話せばよいのでしょうか。何を語らせてくださるのですか。」伝道集会の前、EMR(Assemblée de Dieu de Montpellier Richter)の説教者は、準備がときに白紙のページのように感じられると打ち明けます。そこで祈ると、神は一つの思いと方向を与えてくださいます。
メッセージの題は、わずか一言「イエスとはだれか」です。説教者は、隣人にイエスのことを話しながら、どこから始めればよいのか、何を話すのがよく、何を避けるほうがよいのかと迷っている兄弟姉妹にも語りかけています。
使徒行伝を読むうちに、彼は気づきました。使徒行伝10章でペテロはイエスについて非常に明確に語り、13章でパウロも同じ流れをたどっているのです。「私たちはしばしばたくさんのことをしようとしますが、大切なことに行き着けばそれで十分です。神が私たちの人生の中で私たちのためにしてくださったことです。」
メッセージの流れ
1. 神はだれも退けない
- ペテロは口を開いて言います。「神は人を分けへだてなさらないかたであること、また、どの国民でも、神をおそれ、正しい行いをする人は、神に受けいれられることが、ほんとうによくわかってきました」(使徒行伝10章34〜35節)。
- この言葉は、「私はこれまでこんな人間だった。神は私を受け入れてくださらない。神は私を赦すことができない」と思っている人にとって大切です。神はえこひいきをされず、だれも退けられません。
- 説教者は一つの細かな点を指摘します。聖書は、正しい行いをする人が救われるとは言っていません。その人は神に受け入れられる、と言っているのです。
2. 肉となった言、すべての人の主
- 36節で、神はイエス・キリストによって平和を告げ知らせて「言を送られた」とあります。説教者はこの節をヨハネによる福音書1章1〜4節に結びつけます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」また14節にはこうあります。「言は肉体となり、わたしたちの間に宿った。……めぐみとまことに満ちていた。」
- イエスは人として、しもべとして、人の住むこの地上に来られました。イエスは私たちを照らすために送られた神の言です。イエスは光です。
- イエスは「すべての人の主」です。ユダヤ人にも、異邦人にも、信じない人々にも及ぶ普遍的な権威を持っておられます。信じるか信じないかは、イエスがどなたであるかを何も変えません。
- しかし、問いは個人的なものになります。「イエスはあなたの救い主ですか。」いつか、「イエスよ、私の主となってください。そして私の救い主にもなってください」と言う決断をしなければなりません。
- ペテロは37節で「あなたがたはご存じです」と言います。今日も多くの人が、イエスの来られたこと、奇跡、癒し、十字架を知っています。「しかし、知っているだけでは足りません。知ることよりもはるかに先へ進まなければなりません。」
- 悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたバプテスマのヨハネは、イエスについてこう言いました。「わたしはその人のくつのひもを解く値打ちもない」(ヨハネによる福音書1章27節)。
3. 聖霊を注がれ、殺され、よみがえられた方
- 38節で、神はナザレのイエスに聖霊と力を注がれました。説教者がここで語っているのはイエスの受胎ではなく、イエスのバプテスマのことです。そのとき神の霊が鳩のようにイエスの上に下りました(マタイによる福音書3章16節)。そこからイエスの働きが始まります。
- イエスの使命のすべては聖霊の力によって成し遂げられました。イエスが癒しや奇跡を行われたとき、御霊がイエスのうちに働いていました。「これがイエスです。力強く、勝利された方です。」
- イエスは無実であるのに殺され、木にかけられ、十字架に釘づけにされました。イエスは言っておられました。だれもイエスから命を取ることはできず、イエスが自分から命を捨てるのだと(ヨハネによる福音書10章18節)。「もしイエスがゴルゴタと十字架を避けると決めておられたなら、今夜私たちはここにいなかったでしょう。私たちの人生に解決はなかったでしょう。」
- しかし40節は希望に満ちています。神はイエスを三日目によみがえらせられました。イエスは死に勝ち、証人たちに現れ、その人たちはイエスと共に食べ、飲みさえしました。説教者は、よみがえられた方が弟子たちと囲んだ食事を挙げ、それがイエスが確かに生きておられた証拠だと語ります。ルカによる福音書24章42〜43節では、イエスは彼らの前で魚を食べられ、ヨハネによる福音書21章9節では、イエスご自身が炭火の上に魚を用意してくださいました。
- 「イエスは今日も生きておられ、父の右に座しておられます。死んではおられません。遠くにもおられません。私たちの声を聞いておられます。」
4. 使命、さばき、そして赦し
- イエスは、民に福音を宣べ伝えるよう命じられました(42節)。「だから私は今夜ここにいるのです。」イエスのこと、イエスが私たちの心を癒し、人生を支え、将来を備えるためにしてくださったことを語るのは、すべてのクリスチャンの使命です。
- イエスはまた、神が生きている者と死んだ者とのさばき主と定められた方です。唯一のさばき主です。
- 43節は「すばらしい」のです。「イエスを信じる者はだれでも、その名によって罪のゆるしが受けられる」。これはペテロの話の流れが行き着いた先です。
- 「私はいい人間だ。周りに悪いことはしていない」と思う人がいます。けれどもいつか、自分が罪人であり、神から遠く離れ、失われていることに気づき、神のもとに帰ろうと決めます。「だれでも」とは、この会場にいるひとりひとり、福音を聞くひとりひとりのことです。
5. パウロも使徒行伝13章で同じ道をたどる
- パウロは立ち上がって言います。「イスラエルの人たちよ、ならびに神をおそれる人たちよ、お聞きください」(使徒行伝13章16節)。説教者はこの呼びかけを取り上げます。すでにイエスを受け入れたクリスチャンの方々、お聞きください。そして、まだ回心を経験していないけれども神をおそれているあなた、このメッセージはあなたのためのものです。
- 「神は、約束にしたがって、このダビデの子孫から救主イエスをイスラエルに送られたのです」(23節)。「言葉を使い、名前を口にすることは大切です。イエスは唯一の救い主です。私はイエスのことを話すのを恥ずかしいとは思いません。」
- パウロはアブラハムとダビデにさかのぼって、イエスがどこから来られたのかを説明します。自分はすべての人にすべてのものとなった、と語っているように(コリント人への第一の手紙9章22節)、聞く人に合わせて語ります。そして穏やかに、大切な点に入ります。イエスの死、その復活、そしてイエスだけが救い、罪を赦してくださるということです。
- 27節では、イエスは知られないまま、罪に定められます。「今日の私たちもまったく同じことを経験していると思います。」人々はイエスの名前は知っていても、本当には知らず、知ろうともしません。私たちの周りではこんな声が聞こえます。「私には関係ない」「弱い人のためのものだ」「やることがないから宗教にすがるのだ」。
- 説教者は、おそらくアメリカの調査として、聖書を読む人はごくわずか、約10%だという話に触れます。「私たちは目を覚まさなければなりません。」神のことばは私たちの糧であり、それがなければ霊的に弱っていきます。「石を投げているのではありません。これはさばきではありません。」
6. 書かれていたことはすべて成就した
- エルサレムの住民とその指導者たちは、イエスに死に当たる罪を何も見いだせませんでした(28節)。ピラトも言います。「わたしはこの人になんの罪も見いだせない」(ルカによる福音書23章4節)。それでもイエスは群衆の声によって十字架につけられました。「私にとって幸いなことに、あなたにとって幸いなことに。」
- パウロは、すべてが書かれていたとおりに起こったと繰り返します。偶然だと言う人に、説教者は約千年前に書かれた詩篇22篇で答えます。「彼らはわたしの手と足を刺し通した。わたしはわたしの骨をことごとく数えることができる。……彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引きにする」(詩篇22篇16〜18節)。イエスの手と足は刺し通され、骨は一本も折られず、衣服はくじ引きにされました。
- イザヤは六、七百年前に、侮られ、捨てられたしもべについて、「ほふり場にひかれて行く小羊のように」と語っています(イザヤ書53章7節)。よく選ばれた表現です。十字架の前から、イエスは打たれ、たたかれ、むち打たれました。「そしてイエスは何も言われませんでした。あなたのために、私のために。」同じ箇所は、イエスの墓が富む者と共にあることも語っており(イザヤ書53章9節)、それはマタイの福音書に見られます。
- 詩篇2篇7節も引用します。「あなたはわたしの子だ。わたしはきょう、あなたを生んだ。」イエスは神の子であり、あなたの人生と私の人生のために、救いの計画を成し遂げるために遣わされました。「神のことばは宝であり、生きた書物です。」
- 詩篇16篇10節です。「あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない。」朽ち果てるとは、体が腐敗することです。神の計画の鍵となる人物ダビデは、その時代に仕え、やがて死んで土に帰りました。「キリストだけが朽ち果てるのを見ませんでした。」
7. 赦し、恵み、そして悔い改め
- パウロはペテロとまったく同じように締めくくります。「この人によって罪のゆるしが、あなたがたに宣べ伝えられている」(使徒行伝13章38節)。「解決はただ一つ、道はただ一つ、それはイエスの道です。あなたも、あなたの行いも、お金も、あなたを救うことはできません。」
- 「また、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事について、信じる者はみな、この人によって義とされるのです」(39節)。律法は良いものであり、イエスは決まりを廃止されたのではありません。けれども救いは、決まりによってではなく、恵みによって得られるのです。
- イエスがどなたで、何を耐え忍ばれたのかを理解したあとに、大切な一歩が残っています。悔い改めです。キリストのもとに帰り、こう申し上げることです。「イエスよ、私を赦してください。私は遠く離れています。私は罪人です。」
- 結びとして、説教者は福音をまとめます。初めから預言者たちによって告げられた神の計画、肉となった言、退けられ、罪に定められ、十字架につけられ、よみがえり、神の右に座しておられるイエス。そして次の段階は、「イエスは私たちのために再び来られる」ということです。
- 福音は良い知らせであり、同時に選びでもあります。信じるか拒むか、悔い改めて赦しを受けるか、すべてを拒むかです。「イエスはメシアであり、ほかにはありません。イエスは救い主であり、ほかにはありません。」
- メッセージは招きで終わります。福音を初めて聞く人にも、離れてしまって戻りたいと思っている人にも向けた招きです。「それは最も美しい後戻りです。来た道を引き返して、イエスのもとに帰るのです。」説教者は、手を挙げた人たちに、ひとりで歩まず、疑問を尋ね、牧師に会うようすすめています。
この説教のポイント
- 神は人を分けへだてなさいません。あなたの過去がどうであっても、神はあなたを退けられません。
- イエスはすべての人の主ですが、イエスを救い主として受け入れることは個人的な決断です。イエスの物語を知っているだけでは足りません。
- 福音を伝えるには、ペテロとパウロのように大切な点に行き着くことです。イエスがどなたか、その死、その復活、罪の赦し、そして悔い改めです。
- 聖書は、イエスの苦難と死と復活を何世紀も前から告げていました。
- 道はただ一つです。私たちは律法や自分の努力によってではなく、イエスを信じることによる恵みによって義とされます。
個人的な適用
- 今日、「イエスは私の主であり、私の救い主です」と言えますか。まだそうでないなら、何があなたを引き止めていますか。
- あなたの中に、「神は私を赦すことができない」と言う声はありませんか。使徒行伝10章34節はその声にどう答えていますか。
- あなたはイエスを知っていますか。それともイエスの名前だけでしょうか。今週、聖書を読むことはあなたの生活の中でどんな位置を占めていますか。
- 隣人にイエスがどなたかを説明するとしたら、どこから始めますか。赦しと悔い改めまで話しますか。
- 神から離れてしまったなら、戻るためにどんな具体的な一歩を踏み出せますか。ひとりで歩まないために、だれに助けを求められますか。
引用した聖書の箇所
- 使徒行伝10章34〜43節
- 使徒行伝13章16〜39節
- ヨハネによる福音書1章1〜14節
- ヨハネによる福音書1章27節
- マタイによる福音書3章16節
- ヨハネによる福音書10章18節
- ルカによる福音書24章
- コリント人への第一の手紙9章22節
- ルカによる福音書23章4節
- 詩篇22篇16〜18節
- イザヤ書53章7〜9節
- 詩篇2篇7節
- 詩篇16篇10節
よくある質問
「イエスとはだれか」という問いに、ペテロとパウロはどう答えていますか。
使徒行伝10章と13章で、ペテロに続いてパウロも同じ流れをたどります。イエスは肉となった言であり、すべての人の主であり、聖霊を注がれた方です。無実であるのに殺されましたが、神は三日目にイエスをよみがえらせられました。イエスを信じる者はだれでも、その名によって罪のゆるしが受けられます。
イエスを知っているだけで救われますか。
いいえ。説教者は、多くの人がイエスがどなたか、その奇跡、その十字架を知っていると述べます。しかし、知っているだけでは足りません。イエスはすべての人の主ですが、イエスを救い主として受け入れることは個人的な選びであり、悔い改め、つまりイエスのもとに帰って赦しを求めることを通ります。
パウロはなぜイエスは朽ち果てるのを見なかったと言うのですか。
使徒行伝13章で、パウロは詩篇16篇を引用します。「あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならない。」ダビデは神のご計画に仕えたのち、死んで朽ち果てました。つまり体が腐敗したのです。けれどもイエスは土に帰りませんでした。神がイエスをよみがえらせられたからです。