はじめに
今朝、神様はあなたを探しておられます。これはたとえ話ではありません。ある兄弟が祈っているあいだ、賛美が捧げられているあいだ、御言葉が読まれているあいだに、実際に起こっていることです。あなたがこの場所に足を踏み入れてから、神様はあなたに語りかけておられます。賛美を通して、祈りを通して、御霊の賜物を通して、即興の歌を通して。神様は語っておられます。一度目で従う人もいれば、二度目でようやく従う人もいます。
ステファン・申命記30章4節からメッセージを始めます。「たとえあなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される」。どんなに遠くにいても、神様はあなたを迎えに来てくださいます。神様はご自身だけで完全であり、本来なら私たちを必要とはされません。すべてを知っておられ(全知)、どこにでもおられ(遍在)、すべてに力を持っておられます(全能)。それなのになぜ、神様はあなたを探し求められるのでしょうか。それは、あなたを愛しておられるからです。ひとり子イエスを犠牲としてあなたのために与えてくださったほどに、あなたを愛しておられるのです。
聖書全体が、この物語を語っています。創世記から黙示録まで、神様は人を探し求めておられます。神様はご自身の愛と謙虚さのゆえに、あえてご自身を制限してまで、人を呼び求められます。そして今朝も、あなたを呼んでおられます。最初の一歩を踏み出してくださった方に、どう応えるか。ここに四つの道があります。
説教の構成
1. 恵みの御座に近づきなさい
ヘブル人への手紙4章16節はこう言います。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。この箇所は偉大な大祭司、イエス様について語っています。なぜイエス様は他のだれよりも偉大なのでしょうか。それは、後継者を必要としないからです。旧約時代の大祭司たちは罪人であり、死ぬべき存在でした。しかしイエス様は聖く、永遠です。彼らは自分自身の罪のためにも、いつもいけにえを献げなければなりませんでした。しかしイエス様は、ただ一度、ご自身を献げることで、あなたの罪を消してくださいました。
このイエス様は、もろもろの天を通られました(ヘブル4章14節)。天の栄光を離れられました。ベツレヘムでお生まれになり、人となられ、疲れ、飢え、渇き、誘惑を経験されました。ですから、あなたの弱さに同情することがおできになるのです(ヘブル4章15節)。そしてイエス様は、あなたも使うべき武器で誘惑者に打ち勝たれました。それは神の御言葉です。荒野で、攻撃を受けるたびに、イエス様は聖書を引用されました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタイ4章4節)。父なる神との、この完璧な交わりこそが、イエス様を罪に勝る強さへと導いたのであり、あなたも求めるべき交わりなのです。
ですから、あなたは大胆に近づくことができます。それは、神の子どもとしてのあなたの特権です。多くの人は、まずこの世の保証を気にかけます。家、健康、車。しかし、値段のつけられない保証、天の保証、霊的な意味であらゆる危険を覆う保証があります。それはすでに、イエス様によって十字架の上で支払われています。パウロが言うとおりです。「死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、ほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8章38-39節)。ステパノが石打ちにされたとき、彼は神の右に立っておられるイエス様を見ました。彼にはこの確信がありました。地上のいのちは終わっても、永遠のいのちは続くのです。
気をつけてください。恵みの御座は永遠に続くわけではありません。ある日、それは裁きの御座に変わります。黙示録20章11節は、死者が行いに応じてさばかれる大きな白い御座について語っており、いのちの書に名が記されていない者はみな、火の池に投げ込まれると告げています。明日に先延ばしにしないでください。今日は恵みの日です。この御座に急いで近づいてください。あなたの必要(健康、仕事、家族、行き詰まった状況)は、主によって助けられ得るのです。詩篇103篇13節にはこうあります。「父がその子をあわれむように、主はご自分を恐れる者をあわれまれる」。
2. 真心をもって近づきなさい
ヘブル人への手紙10章19-22節はこう言います。「兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆に聖所に入ることができるのです。イエスは、私たちのために、垂れ幕、すなわちご自分の肉体を通して、新しい生ける道を開いてくださいました……ですから、私たちは、心に血が振りかけられて良心のとがめが除かれ、からだをきよい水で洗われて、真心から誠実な信仰をもって、神に近づこうではありませんか」。
十字架の前は、聖所はだれもが近づけるものではありませんでした。幕屋は二つの区域に分かれていました。聖所(燭台、供えのパンの机、香の祭壇)には、順番に従ってレビ族の祭司たちだけが入ることができました。垂れ幕の奥にある至聖所、契約の箱が置かれている場所は、年に一度、しかも定められた大祭司しか入ることを許されませんでした。彼の足には綱まで結びつけられていたと言われます。もし垂れ幕の奥で命を落としても、中に入らずに遺体を引き出せるようにするためです。神の臨在の場所は、それほどまでに近づき難いものだったのです。
しかし、イエス様は十字架で死なれました。そして神殿の垂れ幕(数センチの厚さがあり、裂けるはずのないもの)は、上から下まで真っ二つに裂けました(マタイ27章51節)。まさに奇跡です。これは、イエス様が神の聖なる臨在への新しい道を開いてくださった証拠です。今日、至聖所は、キリストにあって来るすべての人に開かれています。イエス様ご自身がこう言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」(ヨハネ10章9節)。
この十字架は、ヘブル人への手紙12章2節では、イエス様があなたのために耐え忍ばれた恥辱(公の場での大きな不名誉)として描かれています。父からの拒絶という最も過酷な仕打ちを、イエス様はこの道を開くために受けられました。そして今、私たちにはただひとりの大祭司がおられます。それはアロンの位(死ぬべき、一時的な位)によるのではなく、メルキゼデクの位によるものです。ヘブル人への手紙7章3節は、メルキゼデクについて「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく」と語っています。キリストは永遠に祭司であり続けられます。後継者を必要とされません。
ですから、真心をもって近づいてください。偽善も、不誠実さも要りません。自分の心を吟味してください。神様に自分を試していただくよう求めてください。あなたは神様を欺くことはできません。神様はあなたの心をご覧になっています。アナニアとサッピラは、クリスチャンでありながら、二心と偽りをもって神様に近づき、厳しく罰せられました(使徒5章1-11節)。神様は二心を喜ばれません。
また、信仰に満ちた確信をもって近づいてください。これこそイエス様が強調されたことです。信仰です。マルコ11章24節にはこうあります。「祈って求めるものはすべて、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」。疑いながら祈るなら、祈りの働きにブレーキをかけてしまいます。私たちは、目に見えるものよりも神様の言われることを信じられるように、自分の信仰を鍛える必要があります。それはもはや、目に見えるものに影響される信仰ではなく、目に見えるものに影響を与える信仰です。あなたの心はまた、良心のとがめから清められている必要があります。告白されていない罪はすべて、あなたと神様との間の壁となります。告白は、その関係を回復させます。神様は、時が来れば約束を果たしてくださる、誠実な方です。
3. 神に近づきなさい。そうすれば神もあなたに近づかれます
ヤコブの手紙4章7-10節はこう言います。「ですから、神に従いなさい。悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清くしなさい……主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主はあなたがたを高くしてくださいます」。
最初の動詞は、神に従うことです。これこそ、霊的な権威の鍵です。多くのクリスチャンは、罪や悪の力に打ち勝ちたいと願いながら、自分のいのちを主に明け渡すことを拒みます。しかし、服従なしに勝利はあり得ません。霊的な次元でも、物理的な次元でも、これは一つの法則です。あなたが神に従わなければ、悪魔に立ち向かうことはできません。悪魔は、あなたの大きな声を恐れているのではありません。あなたの服従から生まれる権威を恐れているのです。あなたの意志は、しばしば神様の意志とは正反対の方向を向いています。それを正しい方向に立て直す必要があります。ヨブ記23章12節はこう言います。「彼の御口から出るおことばを、私は自分の分よりも大切にしてきました」。
次に、最初の一歩を踏み出しなさい。敵は、あなたが祝福されることを知っているからこそ、あなたを思いとどまらせ、遠ざけようと全力を尽くします。神に近づいてください。約束ははっきりしています。神もあなたに近づいてくださいます。あなたが従順で真心があるなら、敵は退き、神は近づいてくださいます。
心を清くしなさい。いいかげんな心や、悪い思いに満ちた心で神様に近づくことはできません。私たちの生活は、御言葉に沿って整えられている必要があります。中には、主に近づきながらも、なお同棲生活を続けたり、聖書が姦淫と呼ぶ状況(たとえこの世がそれを当たり前のことにしていても)の中で生きている人たちがいます。真心をもって近づくために、あなたの生活を御言葉に合わせてください。イザヤを見てください。彼が神殿で主の幻を見たとき、その聖さに触れて、御使いが来て彼の唇を清めました(イザヤ書6章1-7節)。私たちも、神に近づくときには、この大いなる聖さを実感する必要があります。
へりくだりなさい。詩篇51篇19節でこう言っています。「神へのいけにえは、砕かれたたましいです。神よ、あなたは、砕かれた、悔いた心を蔑まれません」。これは、私たち自身が取り組むべきことです。神様に低くされるよりも、自分から低くなるほうがよいのです。神様は高ぶる者に敵対されるからです。謙虚さを保ってください。高ぶりの思いはすべて退けてください。それはいつも、あなたを弱くするだけです。
4. 生ける石に近づきなさい
ペテロの手紙第一2章4-5節はこう言います。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがたも、生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえを献げなさい」。
生ける石とは、イエス様のことです。私たちはみな、隅の親石であり土台である、この方の周りに集められる小さな石です。人々はこの方を拒みました(ユダヤ人たちはメシアと認めず、ローマ人たちは十字架につけました)。しかし神様はこの方を選び、尊い方であると宣言されました。大切なのは、宗教やこの世が何と言うかではなく、神様が何と言われるかです。神様はイエス様を尊いと言われます。そして、それこそが価値を持つのです。
表面的には、十字架は失敗に見えました。イエス様は死に、弟子たちは逃げ去り、群衆はあざけりました。物理的な次元では、完全な崩壊です。しかし霊的な次元では、コロサイ人への手紙2章15節がこう明らかにしています。「神は、支配と権威を武装解除し、十字架によってそれらに打ち勝ち、それらをさらしものとして、公然と勝利の行進をされました」。だれもそれを肉眼で見ることはできませんでした。しかし私たちは、信仰によってそれを悟ります。十字架は、罪に対する真実の勝利なのです。
今、私たちは霊の家を形づくっています。これは、私たちが互いに愛し合い、一つになるべきだということを意味します。争いや分裂、緊張の機会は、これからも必ずあるでしょう。しかし教会の中で、私たちは兄弟姉妹であり、互いに愛し合わなければなりません。それは主の命令です。私たちはまた、霊のいけにえを献げます。かつては動物でしたが、今は私たちの賛美であり、礼拝であり、祈りです。「霊とまことによる礼拝」です(ヨハネ4章24節)。私たちは選ばれた種族、聖なる国民、王である祭司です(ペテロの手紙第一2章9節)。この世から分けられ、神様のために取り分けられ、この方に仕える祭司であり、王なのです。
覚えておきたいポイント
- 神様は先に動かれます。神様は本来、私たちを必要とはされません。それでも、あなたを愛しておられるからこそ、あなたを探し求めておられます。イエス様を与えることで、最初の一歩を踏み出されたのは、神様ご自身です。
- 恵みの御座は、今日開かれています。それは永遠には続きません。ある日、裁きの御座へと変わります。明日に先延ばしにしないでください。
- 垂れ幕は裂かれ、道は開かれました。門であられるイエス様が、神様の聖なる臨在への自由な入り口をあなたに与えてくださいます。真心をもって近づいてください。
- 服従なしに、霊的な権威はありません。悪魔は、あなたの大きな声を前にして逃げるのではなく、主への服従から生まれる権威を前にして逃げます。
- あなたは生ける石です。キリストの周りに集められ、兄弟姉妹とともに、賛美と祈りと礼拝を献げる霊の家を形づくっています。
自分自身への適用
- 今日、神様はどんな「追放」(霊的な、道徳的な、人間関係の)から、私を連れ戻そうとしておられるでしょうか。私はその招きに応えるでしょうか、それとも明日に先延ばしにするでしょうか。
- 私は大胆さをもって恵みの御座に近づいているでしょうか、それとも告白していない罪が私の祈りを妨げているでしょうか。今朝、私が告白すべきことは何でしょうか。
- 私の意志は、どんな分野で神様の意志と正反対の方向を向いているでしょうか。ヨブ(23章12節)のように、自分の意志を御言葉に従わせる用意があるでしょうか。
- 私の信仰は、神様が言われることよりも、目に見えるものに影響されてしまっているのはどこでしょうか。今週、見える状況に反してでも信じ抜く約束は何でしょうか。
- 生ける石として、私は具体的にどのように、愛と祈りと礼拝と奉仕によって、自分の教会を築き上げているでしょうか。
引用された聖句
- 申命記 30:4 ・「あなたの神、主はそこからあなたを集め……そこからあなたを連れ戻される」。
- ヘブル 4:14-16 ・偉大な大祭司。大胆に恵みの御座に近づこう。
- マタイ 4:4 ・「人はパンだけで生きるのではなく……」。
- ローマ 8:38-39 ・何ものも神の愛から私たちを引き離せない。
- 黙示録 20:11-15 ・大きな白い御座の裁き。
- 詩篇 103:13 ・「父がその子をあわれむように」。
- ヘブル 10:19-25 ・イエスの血による自由な入り口。真心をもって近づこう。
- マタイ 27:51 ・神殿の垂れ幕が上から下まで裂けた。
- ヨハネ 10:9 ・「わたしは門です」。
- ヘブル 12:2 ・イエス様は十字架の恥辱を軽んじられた。
- ヘブル 7:3 ・メルキゼデク、永遠の祭司。
- マルコ 11:24 ・「すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」。
- 使徒 5:1-11 ・アナニアとサッピラ、二心。
- ヤコブ 4:7-10 ・神に従い、近づき、へりくだりなさい。
- ヨブ 23:12 ・「彼の御口から出るおことばを、私は大切にしてきました」。
- イザヤ 6:1-7 ・神殿での主の幻。
- 詩篇 51:19 ・「砕かれた、悔いた心を蔑まれません」。
- ペテロ第一 2:4-9 ・生ける石、霊の家、王である祭司。
- コロサイ 2:15 ・十字架、支配と権威への勝利。
- ヨハネ 4:24 ・霊とまことによる礼拝。
よくある質問
神様はご自身だけで完全なのに、なぜ私を探し求められるのですか。
それは、あなたを愛しておられるからです。神様は全知であり、遍在であり、全能です。本来なら、あなたを必要とはされません。それでも、その愛と謙虚さのゆえに、人を呼び求めることを選ばれます。それは、ひとり子イエス様を与えてくださったこと(ヨハネ3章16節)、申命記30章4節ですでに、天の果てにいてもあなたを迎えに行くと約束してくださったことに表れています。神様が探し求められるのは、あなたの功績によるのではありません。神様の愛によるのです。
「恵みの御座に近づく」とは、具体的にどういうことですか。
それは、大祭司であるイエス様がすでに代価を払ってくださったことを知って、大胆に神様のもとに来ることです(ヘブル4章16節)。具体的には、自分の罪を告白し、自分の必要(健康、仕事、家族、行き詰まった状況)を差し出し、主の助けを待ち望むことです。この御座は今日開かれています。しかしそれは永遠には続きません。明日に先延ばしにしないでください。
なぜ、神様に従うことが悪魔に立ち向かうための条件なのですか。
ヤコブの手紙4章7節が、その順序を示しているからです。まず神に従い、それから立ち向かう、という順序です。悪魔は、あなたの大きな声を恐れているのではありません。主への服従から生まれる権威を恐れているのです。この服従なしには、霊的な権威は持てません。ヨブ(23章12節)のように自分の意志を御言葉に合わせ、神様に向かって最初の一歩を踏み出してください。そうすれば、神様もあなたに近づいてくださいます。
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