はじめに
その朝、ジャン=ブレーズ・アムグ牧師は会衆に、決して軽くはない問いを投げかけました。あなたの人生は、この地上でどんな神の姿を映し出していますか。理屈ではありません。教理でもありません。本当の姿、あなたの同僚や隣人、家族があなたとすれ違うときに見ているもの、それです。なぜなら聖書は明言しているからです。あなたは神のかたちに創られました(創世記1章27節)。それは抽象的な肩書きではなく、一つの召しです。あなたの人生は神がどんな方であるかを映し出すべきです、その関係、聖さ、愛を。それでも、神が望んでおられることと世界が実際に目にすることの間には、しばしば隔たりがあります。この説教は、その隔たりを正直に測り、その原因を見極め、父なる神を忠実に映す鏡へと立ち返るための具体的な一歩を踏み出すための招きです。
メッセージの構成
1. 神のかたちの本質:あなたが映し出すよう召されているもの
- 神は動物を人よりも先に創られましたが、すべては一つの独自の存在において頂点に達します。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう」(創世記1章26節)。あなたこそ、この最後の創造物であり、治め、そして映し出すように召されています。
- モーセは神の栄光を映し出し、神の前にいた後には顔が輝くほどでした。ダビデは神の力を映し出しました。だからこそ、獅子も熊もゴリアテも打ち破ることができたのです。では、あなたは何を映し出していますか。
- 神のかたちを映し出すことは、まず神との関係と交わりから始まります。神はあなたを遠くから見守るために創られたのではありません。ご自分と共に、親しく歩むために創られたのです(ヨハネの第一の手紙1章3節)。
- それは次に聖さとして現れます。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(ペテロの第一の手紙1章15-16節)。聖霊があなたの内に住まわれるとき、その臨在は感じ取れるものとなります。牧師によれば、ある人々は何かを感じ取り、理由も分からないまま逃げ出す不信者のように、あなたから離れていくことさえあるといいます。
- そして最後に、神のかたちの本質は愛と憐れみです。神は愛です。私たちがまだ罪の中にあったときから、神は先に愛してくださいました(ヨハネによる福音書3章16節)。この愛はあなたのすべての関係に刻まれるべきものです。「互いに親切にし、心の優しい者となり、互いに赦し合いなさい」(エペソ人への手紙4章32節)。
2. あなたの映し出す姿を曇らせる課題
- この世の気を散らすもの。物質的な心配、ストレス、悪い影響、これらはすべて、あなたを本来の姿から遠ざけます。「世と世にあるものとを愛してはいけません…すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、御父から出たものではなく、世から出たものだからです」(ヨハネの第一の手紙2章15-17節)。世は過ぎ去ります。神のみこころを行う者はいつまでも生きるのです。
- 個人的な葛藤。怒り、恨み、恐れ。牧師は会衆と共に笑いながら語ります。私たちは何にでも怖がってしまう、地下鉄の中の咳にも、飛び回るハエにも、止まっている鳩にも。この恐れがあかしを曇らせるのです。ローマ人への手紙12章1-2節にあります。あなたの体を生きた供え物としてささげ、この世と調子を合わせず、心の一新によって自分を変えていただくことです。
- 偏見と決めつけ。ヤコブの手紙2章1-4節は、ある痛いところを突きます。教会では、金の指輪をはめ立派な服を着た人は歓迎されるのに、みすぼらしい身なりの貧しい人は隅に追いやられる、と。それは神のまなざしではありません。「愛は、悪を思わない」(コリント人への第一の手紙13章)。あなたが愛に満たされているなら、なぜそんなに早く人を裁くのでしょうか。なぜ、相手について見えていると思っていることに、そこまで確信を持てるのでしょうか。
3. 忠実に神のかたちを映し出すための三つの具体的な一歩
- 毎日みことばを学び、思い巡らす。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(テモテへの第二の手紙3章16-17節)。そして詩篇の記者はこう付け加えます。「あなたに罪を犯すことのないように、私はあなたのみことばを心にたくわえます」(詩篇119篇11節)。神があなたに愛しなさいと言っておられるのに、あなたが愛さないなら、もはやそのみこころを行っていないことになります。みことばは飾りではありません。それは、あなたの人生を神のかたちへと形づくる型なのです。
- 仕えることとへりくだりを実践する。主であり、神ご自身であるイエスは、ひざまずいて弟子たちの足を洗われました。キリストのからだの中で、誰も誰より上ではありません。私たちには、いちばん小さな者もいちばん大きな者も必要です。ある一つの部分が苦しめば、からだ全体が苦しみます、傷ついた指一本がからだ全体を動けなくしてしまうように。神の家が必要としているとき、あなたは立ち上がり、財布に手を伸ばし、自分の時間をささげる備えができているでしょうか。それこそが、仕えるということです。
- 神の愛を喜び、分かち合う。「もしあなたがたの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネによる福音書13章35節)。そしてイエスはこう付け加えます。「あなたがたは、もしわたしを愛するなら、わたしの戒めを守るはずです」(ヨハネによる福音書14章15節)。神を愛すること、隣人を自分自身のように愛すること。そのためにはまず、あなた自身を神の素晴らしい創造物として見ることを学ぶ必要があります。そうでなければ、どうして兄弟を自分自身のように愛せるでしょうか。相手を見るとき、もはやライバルや敵として見るのをやめましょう。相手の中に神を見てください。そうすれば、相手もあなたの中に神を見ることができるのです。
心に留めておきたいこと
- あなたは神のかたちに創られました(創世記1章27節)。あなたの人生は決して中立ではなく、常に神の何かを、あるいはその不在を、映し出しています。
- 神のかたちを映し出すとは、まず神との関係に入ること、次に聖さの内に生きること、そして憐れみをもって愛することです。
- この姿を曇らせる三つの妨げがあります。この世の気を散らすもの、個人的な葛藤(恐れ、怒り、恨み)、そして他者への偏見です。
- それを回復する三つの習慣があります。みことばの日々の黙想、仕えることとへりくだりの実践、そして一つ一つの関わりの中で神の愛を具体的に表すことです。
- 赦しは決定的な試金石です。赦しのないところに祝福はありません。なぜなら、神ご自身は決して赦すことをやめられないからです。
あなた自身への適用
- もし今週、同僚や隣人、家族の誰かに「あなたから見て、私の人生はどんな神の姿を映し出していると思う?」と尋ねたら、どんな答えが返ってくるのが怖いでしょうか。
- 今日、あなたの人生のどの領域が神の姿を曇らせていますか、気を散らすもの、恐れ、それとも他人に対して抱いている偏見でしょうか。
- あなたの聖書を読む習慣は、日々の習慣になっていますか、それとも単なる意図にとどまっていますか。今週、それを中心に置き直すために取れる小さな決断は何でしょうか。
- 今週、家庭で、教会で、地域で、見返りを期待せずに具体的に仕えられる場はどこにあるでしょうか。
- まだ赦していない人、あるいは赦しを求めるべき人はいませんか。祝福が再び流れ出すために。
引用聖句
- 創世記1章25-27節 · 神は人をご自分のかたちに創造された
- ヨハネの第一の手紙1章3節 · 御父および御子イエス・キリストとの交わり
- テモテへの第一の手紙2章8節 · 怒りや疑いを離れ、清い手を上げて祈ること
- ペテロの第一の手紙1章15-16節 · わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない
- エペソ人への手紙4章32節 · 互いに親切にし、心の優しい者となり、互いに赦し合いなさい
- ガラテヤ人への手紙5章19-21節 · 御国を相続できない肉のわざ
- ヨハネによる福音書3章16節 · 神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された
- ヨハネの第一の手紙2章15-17節 · 世をも世にあるものをも、愛してはいけません
- ローマ人への手紙12章1-2節 · 自分の体を生きた供え物としてささげる
- ヤコブの手紙2章1-4節 · 人を分け隔てしない信仰
- コリント人への第一の手紙13章 · 愛は寛容であり、愛は親切です
- テモテへの第二の手紙3章16-17節 · 聖書はすべて神の霊感による
- 詩篇119篇11節 · 私はあなたのみことばを心にたくわえます
- ヨハネによる福音書13章35節 · それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認める
- ヨハネによる福音書14章15節 · もしわたしを愛するなら、わたしの戒めを守るはずです
よくある質問
自分の人生が実際にどんな神の姿を映し出しているか、具体的にどう知ることができますか?
最良の判断基準は、あなた自身の自己評価ではありません。あなたを理想化せずに接している人、同僚、隣人、まだ信仰を持っていない家族、の目です。彼らがあなたの中に見るもの(忍耐か苛立ちか、寛大さか物惜しみか、平安か不安か)が、あなたの人生が映し出している神の姿をかなり正確に示してくれます。ジャン=ブレーズ・アムグ牧師は、以前の職場に戻ったときのエピソードを語っています。上司から「使命のために私たちのもとを去ったのか?」と言われたそうです。彼が何も宣言せずとも、周りの人々は彼が何者であるかを知っていたのです。
聖さとは、手の届かない理想にすぎないのではありませんか?
聖さとは、まず道徳的な達成度を測るスコアではありません。それは聖霊を通してあなたの内に住まわれる神の品性です。「あなたがたを召された聖なる方にならって、あなたがた自身も、すべての行いにおいて聖なる者となりなさい」(ペテロの第一の手紙1章15-16節)。あなたは自分の力で聖くなるのではありません。聖霊にその品性をあなたの内に生み出していただくのです。あなたの責任は、扉を開き、みことばの中にとどまり、その聖さに反することに「いいえ」と言うことです。
どうしても好きになれない人を、どうやって愛せばいいのでしょうか?
牧師はコリント人への第一の手紙13章を思い起こさせます。愛はすべてを耐え忍び、悪を思わず、不義を喜ばず、真理を喜ぶ、と。愛するとは、温かい感情を抱くことではありません。神があなたを扱ってくださるように、相手を扱うことを選び取ることです。牧師はさらに、相手の中に神の素晴らしい創造物を見ることを学ぶ必要がある、と付け加えます、ライバルでも、裁く者でも、問題でもなく。このまなざしがすべてを変え、赦しが可能になります。なぜなら、神ご自身は、あなたから赦しを取り去られたことなど一度もないからです。
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