マタイ7章:「主よ、主よ」と言うだけでは足りない

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はじめに

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく」。Bertrand Huetz氏は、これが「少し慎重に扱うべきメッセージ」であると最初に認めています。当日の早朝にも読み返し、主が示してくださったことを伝えるために、手元のノートに沿って語っています。

説教者は、すべての民が神の御座の前に集められる大いなる日を思い描くよう招きます。群衆の中には、自信に満ちた人々がいます。説教をし、長い時間祈り、奇跡を見て、悪霊を追い出した人たちです。彼らは「書類を手に」イエスの前に立ち、両手を広げて迎えられると確信しています。それでも、ある人々はこう聞くことになります。「あなたがたを全く知らない。」

説教者は、あなたがこの箇所を恐れをもって読むことも、イエスを受け入れたのに救われていないのではと思って帰ることも望んでいません。誠実にこの箇所を読み、一つの問いを投げかけたいのです。変えられた人の生き方はどのようなものであるべきでしょうか。いつか神から「良い忠実な僕よ」「主人の喜びを共に喜んでくれ」と言われるために。説教者は五つの点で答えます。

メッセージの流れ

1. 山上の説教の終わりにある四つの警告

  • マタイ7章は山上の説教を締めくくります。イエスはそこに四つの警告を残しておられます。
  • 第一の警告(13節と14節):狭い門から入ること。つまり、自分がどの門を選び、どの道を歩むかに注意することです。
  • 第二の警告(15節から20節):羊の衣を着ながら、内側は貪欲な狼である偽預言者に気をつけること。説教者はここで一言添えます。「SNSで出回っているものには気をつけてください。良いものもあれば、あまり良くないものもあります。取捨選択してください。それよりも、神のみことばを読んでください。」
  • 第三の警告(21節から23節):「主よ、主よ」と言う者がみな入るのではありません。
  • 第四の警告(24節から27節):家を砂の上ではなく、岩の上に建てること。
  • イエスがこの一連の警告で締めくくられるのは、「最も大きな危険は、神を公然と拒むことではなく、正しい道を歩んでいると思い込みながら、実は道を誤っていることだ」からです。

2. 神に知られていること

  • 退けられる人々は言います。「わたしたちは預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行ったではありませんか。」彼らの問いは本来こうあるべきでした。「わたしたちはあなたを愛したではありませんか。あなたを知ろうと求めたではありませんか。」すべてが行いにあって、心の姿勢には何もありません。
  • イエスは言われます。「わたしは自分の羊を知り、自分の羊はわたしを知っている」(ヨハネ10:14)、「わたしの羊はわたしの声を聞く。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従って来る」(ヨハネ10:27)。
  • パウロは書いています。「しかし、もし人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである」(コリント人への第一の手紙8:3)。
  • テモテへの第二の手紙2:19では、神の堅固な土台に次のしるしが刻まれています。「主はおのれのものを知っておられる」、また「主の御名を呼ぶ者は、すべて不義を離れよ」。説教者は、印とは何かを思い起こさせます。本物であることを保証し、所有を証明し、破られないように封をするしるしです。
  • これは、わたしたちが完全だという意味ではありません。「私自身が、まず完全ではありません。疑うなら、妻に聞いてください。」けれども、説教者の願いは不義から離れることです。

3. 悔い改めは生活の一部であるべきです

  • パリサイ人と取税人のたとえ(ルカ18:9-14)では、パリサイ人が自分の行いを並べ立てます。「わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています。」取税人は遠く離れて、胸を打ちながら言います。「神様、罪人のわたしをおゆるしください。」義とされて家に帰ったのは、この取税人のほうでした。
  • 教会にいる多くの人が、他の人と自分を比べて、こう思います。「結局、あの人よりひどいわけではないし、むしろ自分のほうがましだ。」
  • 一方パウロは、自分がどこから来たのかを知っていました。自分を罪人のかしらと呼びながら、自分はあわれみを受けたと付け加えています(テモテへの第一の手紙1:15-16)。教会を迫害したので、自分を「使徒の中では最も小さい者」と考えました(コリント人への第一の手紙15:9)。彼はこう書いています。「わたしは、したいと思う善はしないで、したくない悪は、これを行っている」、そして「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙7:19、24)。その後、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は、罪に定められることはない」と宣言します(ローマ人への手紙8:1)。
  • パウロは聖化が進むほど、自分がみじめだと感じました。他の人と比べるのではなく、神に近づき、神の聖さを悟ったからです。説教者は、その反対の行き過ぎ、つまり自分をみじめだと言い続けることにも注意を促します。わたしたちは罪人でしたが、恵みによって、悔い改めを通して救われたのです。
  • 説教者は、罪の自覚がまったくないままイエスのもとに来る人々がいることを残念に思っています。そこにあるのは、ただ「十字架で死に、自分のために命を与えてくださったイエスについての、頭での理解」だけです。
  • ダビデは、預言者ナタンから、バテシバとの姦淫とウリヤの殺害を指摘され、自分の罪を認めます。彼の悔い改めは詩篇51篇に記されています。心の奥底にまことを求めておられる神、という告白です(詩篇51篇の趣旨)。説教者は言います。否認でも、「他の人が悪い」でもなく、まことなのだと。神よ、きよい心を造り、新しく正しい霊を与えてください、という祈りです。
  • これに対してサウルは、言い訳を探します。ギルガルで、サムエルを待たずに燔祭をささげ、要するに「あなたが来るのが遅すぎた」と言います(サムエル記上13章)。その後、アマレク人の王アガグと家畜の最良のものを、いけにえとしてささげるという口実で惜しみます(サムエル記上15章)。サムエルは答えます。従うことは、いけにえにまさるのだと(サムエル記上15:22の趣旨)。
  • 「イエスを愛するなら、わたしはイエスに従います。」新生は悔い改めを通して与えられます。神の聖さを悟ることで、自分のみじめさを悟り、その恵みの大きさを知るのです。

4. 木はその実で分かります

  • 「わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっておれば、その人は実を多く結ぶようになる。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:4-5)。
  • 自然の世界では、体の特徴や声でその人だと分かります。説教者は、ラジオ局Phare FMでの祈りの当番の話をします。ある聴取者がSamuel Peterschmittの電話番号を尋ねました。説教者が番号を教えると、その人の声が変わりました。「ああ、君が私の番号をみんなに教えているのか!」本人だったのです。
  • 「自然の世界で、体の特徴によってあなたを見分けるのなら、霊的な世界では、あなたが実を結んでいれば見分けるでしょう。」
  • この実とは、ガラテヤ人への手紙5:22にあるものです。それは、まず行いの中にあるのではなく、性格においてイエスに似ていく力の中にあります。イエスは「たくさん奉仕した人よ」とも「聖句をたくさん暗記している人よ」とも言われず、「良い忠実な僕よ」と言われます。霊の実のうちの二つ、善良さと忠実さ、そして三つ目は、イエスが入らせてくださる場所にある喜びです。
  • 「他の人と何も変わらないのなら、世に戻りなさい。」説教者は、若い頃は「大変なふくれっ面」で、妻と二、三日口をきかないこともあったと打ち明けます。「けれども、神はわたしを忍耐強い者にしてくださいました。」
  • 何年たっても、相変わらず短気で、怒りっぽく、けちで、ふくれっ面のままなら、傷ついた人を助けずに道の反対側へ避けるなら、「『主よ、主よ』と言うのはやめなさい。あるいは、こう言うために言いなさい。主よ、今日のわたしを変えてください、と。」
  • 呪われたいちじくの木(マルコ11:12-14)は、説教者にとって長年の疑問でした。いちじくの季節ではなかったからです。彼の答えはこうです。「いちじくの木は嘘つきだった。」葉をつけて、実があるように見せかけていたのです。その直後、イエスは祈りのための場所であったのに、もはやそうではなくなっていた神殿に入られます(マルコ11:15-17)。
  • 「ふりをしてはいけません。外見という葉の裏に実が一つもないのに、『主よ、主よ』と言ってはいけません。」

5. 区切られない信仰

  • 区切られた信仰とは、「日曜日と火曜日の夜の信仰」です。わたしたちの信仰は、一日二十四時間、目に見えるものでなければなりません。
  • 説教者は寸劇のように描きます。車の中で妻とけんかをしたクリスチャンが教会に着きます。駐車場ですでに腹を立てている人もいれば、いつもの席を取り戻そうと肘で押し合う人もいます。そして「クリスチャンのコート」をまといます。満面の笑み、上げた手、聖なる口づけ。葉に覆われたいちじくの木のような姿です。
  • 帰りには、そのコートをコート掛けに戻し、車の中でけんかが「一言一句そのまま」再開します。
  • この民は口とくちびるでわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている、と主は言われます(イザヤ書29:13の趣旨)。
  • 状況が厳しいときも、同じ平安を保てているでしょうか。主をほめたたえ続けているでしょうか。証しする喜びを保っているでしょうか。それとも、その機会が来たときに黙っていないでしょうか。
  • 「教会のための主は取っておき、外のための主も持ちなさい。」
  • 休暇中、説教者は神に、証しする機会を求めていました。「人生の映画」をポケットに入れて。ジョギングの途中、70歳か75歳くらいの女性が道に迷って道を尋ねてきたので、一緒に歩きながら自分の信仰を語ることができました。今週は、あるテレフォンオペレーターから電話があり、神が語りかけるのを感じました。「これは、わたしがあなたに与えている機会ではないか。」その人は礼拝を見ると約束してくれたそうです。
  • 日曜日から次の日曜日まで、わたしたちは喜びをもって歩まなければなりません。福音を伝えるにふさわしい者と認められたことを、幸いに思いながら。

6. 犠牲を伴うときも、神が一番

  • 四つ目の点です。「神はわたしの優先事項であり、わたしにとって欠かせない方であり、一番の方です。」説教者は自分も含めて語ります。神が一番であり続けるのは、「神が求めておられることが、何の犠牲も要らないあいだだけ」になっていないでしょうか。
  • 「何も失わないとき、あるいは結局は余ったものを失うだけのときに、『主よ、主よ』と言うのは簡単です。」
  • 貧しいやもめ(ルカ21:1-4)は、小さな二枚の硬貨をささげました。一枚だけでもよかったはずで、誰も責めなかったでしょう。けれども彼女は、持っているすべて、生活に必要なものをささげることを選びました。
  • 「一貫していましょう。」わたしたちの歌は祈りのようなものです。「そうです、すべてを取ってください、主よ」と歌うとき、本当にそうされる覚悟があるでしょうか。
  • パウロとシラスは、真夜中の牢の中で神をほめたたえました(使徒行伝16:25)。彼らにとって大切だったのは、体の自由ではなく、主を愛し、そのみこころを行うことでした。
  • 「理論の上では、神を愛することができます。けれども、神と自分の快適さが対立するたびに、いつも快適さが勝つのなら、それは何かを物語っています。」
  • イエスがその犠牲によってわたしたちに与えてくださった命は、「わたしたちのものではなく、すべてイエスのものです」。

7. みことばへの飢え、そして三つの名前だけの聖句

  • 最後の点は、霊的な飢えの欠如です。「このすばらしいみことばにもう飢えを感じなくなったなら、自分に問いかけなければなりません。」
  • 十人の乙女のたとえ(マタイ25:1-13)では、賢い乙女たちは油を蓄えていました。この油は自分たちの働きを照らすためではなく、花婿が来たときに花婿を照らすために取っておかれたものでした。それは、秘められたところで備えるもの、イエスをもっと深く知るためのイエスとの関係です。
  • 「神のみことばを食べなさい。心に抱きしめなさい。聖句を蓄えなさい。」説教者は、教会の15歳の少女に聖句を教えている話をします。ヨハネ14:6、ヨハネ3:16、そして最も短い「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)。彼女は聖句は覚えましたが、出典は覚えていませんでした。
  • 説教者は旧約聖書で最も短い聖句を探し、歴代志上1:25に見つけました。エベル、ペレグ、リウ(人名のみを挙げた箇所)。三つの名前で、その意味を説教者は説明します。
  • エベルは「渡る」、向こう側へ渡ることを意味します。神から「あなたを知らない」と言われるかもしれない人々の向こう側へ渡ること、快適な場所から出て「主よ、すべてを取ってください」と言うことです。
  • ペレグは「分裂」「分離」を意味します。「わたしたちに何も差し出すものがない」世から離れることです。イエスに従うと、ときに分裂が生まれます。説教者自身、自分の家族の中でそれを経験しました。「わたしたちは世にいますが、もう世のものではありません。キリストを恥じることのないようにしましょう。」
  • アブラハムの先祖であるリウは、神の友、仲間、羊飼い、愛される者を意味します。アブラハムは完全ではありませんでしたが、神の友でした。「イエスはぶどうの木です。実を結ぶために、わたしたちはイエスの近くにとどまらなければなりません。」いつか「良い忠実な僕よ」と聞くために。
  • メッセージは、祈りとイエスを受け入れる招きで終わります。説教者は、前の金曜日に事務室で迎えた家族のことを語ります。「彼らは迷い人として入ってきて、救われて帰っていきました。囚われの身として入ってきて、自由になって帰っていきました。」

要点

  • 最も大きな危険は、神を公然と拒むことではなく、正しい道を歩んでいると思いながら、道を誤っていることです。
  • 悔い改めはクリスチャン生活の一部です。他の人と比べるのではなく、神の聖さの前に立ちます。
  • 木はその実で分かります。外見や活動よりも、性格においてイエスに似ていくことのほうが大切です。
  • 信仰は、教会を出るときにコート掛けにしまうものではありません。教会でのイエスは、外でもイエスでなければなりません。
  • 犠牲を伴うときにも神が一番であること。そして、みことばへの飢えは、秘められたところで養われます。

個人的な振り返り

  1. 神との関係を思うとき、まず自分が神のためにしていることを見ていますか。それとも、神を知り、神に知られていることを見ていますか。
  2. 神の聖さの前に立つのではなく、安心するために他の人と自分を比べることはありませんか。
  3. 何年も変わっていない性格の特徴は何ですか。短気、怒り、ふくれっ面、けちなど。そのことについて、主に何を願いたいですか。
  4. 日曜日にまとい、帰り際にコート掛けに戻してしまう「クリスチャンのコート」はありませんか。
  5. どの分野で、あなたの快適さが神に勝っていますか。そして、今週、秘められたところでどんな油の蓄えを備えますか。

引用された聖句

よくある質問

イエスが「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではない」と言われたのは、どういう意味ですか。

Bertrand Huetz氏によれば、イエスは、説教をし、祈り、奇跡を行ったから正しい道にいると思っている人々に警告しておられます。彼らの確信は、関係ではなく行いの上に成り立っています。最も大きな危険は、神を公然と拒むことではなく、正しい道を歩んでいると思い込みながら、道を誤っていることです。

実を結んでいるクリスチャンは、どのように見分けられますか。

木はその実で分かります。説教者はガラテヤ人への手紙5:22に基づいて語ります。霊の実は、まず行いの中にあるのではなく、性格においてイエスに似ていく力の中にあります。「良い忠実な僕」という言葉の中に、説教者は霊の実のうちの二つ、善良さと忠実さを見いだしています。

いちじくの季節ではなかったのに、なぜイエスはいちじくの木を呪われたのですか。

Bertrand Huetz氏は、そのいちじくの木は「嘘つき」だったと説明します。葉をつけて、実があるように見せかけていたからです。その直後、イエスはもはや祈りの場ではなくなっていた神殿に入られます。外見だけでは十分ではなく、イエスは心の奥深くで起こっていることを見ておられます。

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