はじめに
「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。」ステファン・ビュルゴス(Stéphane Burgos)牧師は、ルカ4章18節のこの言葉から、トゥールーズ・ウエスト神の教会(Assemblée de Dieu de Toulouse Ouest)でのメッセージを始めます。イエスは油を注がれた方であり、それは明確な目的のためでした。
教会では、さまざまなテーマの素晴らしいメッセージをたくさん聞きます。けれども、イエスご自身に立ち止まる時間は、どれほどあるでしょうか。牧師は説教の準備をしていたとき、最初は癒やしの奇跡についてのメッセージを書いていました。しかし心に平安がありませんでした。祈り続けるうちに、主が自分にイエスを示そうとしておられると悟ったのです。「イエスは救ってくださいますが、救ってくださるのはイエスご自身です。イエスは癒やしてくださいますが、癒やしてくださるのはイエスご自身です。」
そこでこの朝、牧師は「イエスについて、イエスだけについて」語ります。イエス・キリスト、救う神、メシヤ、神の子、ダビデの子でありアブラハムの子、シロ、王であり祭司、そして三位一体におけるイエス・キリストです。
メッセージの流れ
1. イエス、救う神
- 御使いはヨセフに言います。「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」(マタイ1:21)ヘブル語ではイェシュア、ギリシャ語ではイエースース。この名は「主は救い」「神は救う」という意味です。
- 聖書には、この名を持つ人が他にもいます。パウロの同労者でユストと呼ばれたイエス、イエスの系図に出てくる先祖たち、祭司ヨシュア、そしてモーセの後継者であるヌンの子ヨシュアです。
- ヨシュアは影にすぎず、イエスこそ実体です。ヨシュアはヨルダン川を渡らせ、イエスは死を越えさせてくださいます。ヨシュアはイスラエルをカナンの地へ導き、イエスは私たちを神の御前へ導いてくださいます。
- 聖書では、名前は偶然に付けられることはありません。イエスの名は、その使命を表しています。イエスは、あなたの人生をよくするためや、物質的に祝福するためだけに来られたのではありません。あなたに代わって、他の誰にもできないことをなさるため、すなわちあなたを罪から救うために来られたのです。
- 正しい発音について議論する人もいます。イェシュア、イエス、ヘスス。牧師にとって大切なのは発音ではなく、あなたが誰を呼び求めているかです。「この人による以外に救はない。」(使徒4:12)天の下には、人が救われるべき名として、ほかに与えられた名はないのです。
- 本当の問いは、あなたは主を知っているか、ということです。その名を何度口にしても、歌っても、主を知らないままでいることはできます。本当に主に出会うとき、あなたの人生は変えられます。
2. イエス、メシヤ
- イエスは名前であり、キリストは称号です。キリストはギリシャ語のクリストスに由来し、ヘブル語のマシアハ、すなわちメシヤ、油を注がれた者を訳した言葉です。
- アンデレは兄弟のシモンに、メシヤ(訳せば、キリスト)に出会ったと告げます(ヨハネ1:41)。預言者たちが告げていた方、イスラエルが何世代も待ち望んでいた方が、ここにおられるのです。サマリヤの女も、この方を待ち望んでいました(ヨハネ4:25)。
- 旧約聖書では、油注ぎは三つの務めのために与えられました。王、祭司、そして預言者です。イエスはこの三つを同時に併せ持っておられます。
- 牧師は「イェシュア・ハマシアハ」という賛美を取り上げます。小さな「ハ」という言葉が決定的な違いを生みます。サウルやダビデは「油注がれた者の一人」と呼ばれ得ましたが、イエスは「あの」メシヤ、唯一の方なのです。
- モーセは、主が自分のような預言者を立てるので、その言葉に聞き従いなさいと告げていました(申命記18:15)。モーセは律法とともに来られ、イエスは恵みとともに来られました。
- イエスを知ることは、謙遜へ導きます。群衆が従っていたバプテスマのヨハネは、「わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない」(マルコ1:7)、そして「彼は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3:30)と言いました。
- 人に見られたい、拍手されたい、感謝されたいという思いで神に仕えているなら、まだイエスが誰かを理解していないのです。主の偉大さを知れば知るほど、自分が小さくなることを受け入れられるようになります。
3. イエス、神の子、ダビデの子、アブラハムの子
- 大祭司の前で、神の子キリストなのかと問われ、イエスは「あなたの言うとおりである」と答えます(マタイ26:63-64)。大祭司は衣を引き裂きます。「わたしはキリスト、神の子だ」と言うことは、「わたしは神だ」と言うことだからです。
- イエスは、単に霊感を受けた人でも、神のしもべにすぎない方でもありません。「イエス・キリスト」と言うことは、「神の子イエス」と言うことなのです。
- ユダヤ人に向けて書いたマタイは、福音書をこう始めます。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」(マタイ1:1)
- アブラハムの子であるのは、アブラハムに与えられた約束、「地のすべての民は、あなたによって祝福されるであろう」(創世記12:3)が、イサクやイシマエルではなく、イエス・キリストにおいて完全に成就したからです。
- ダビデの子であるのは、約束されたメシヤが王だからです。エリコの盲人は「ナザレのイエス」とは叫ばず、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫びました(マルコ10:47)。イエスはユダ族の獅子、エッサイの根から出た芽、ダビデの王座を継ぐ方です。
4. イエス、シロ
- 「つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時まで及ぶ。もろもろの民は彼に従う。」(創世記49:10)牧師によれば、これは聖書の中でシロ、すなわち平和とともに来られる方について語る唯一の節です。
- ここで預言しているのは、人生の終わりを迎えたヤコブで、息子たちが周りに集まっています。
- 牧師は、父親、祖父、そして母親たちのために、ここで少し脇道に入ります。私たちは去る前に、お金や物質的な財産よりもはるかに大切なもの、すなわち約束、預言、そして子どもたちの人生への良いものを残すように召されているのです。
- イエス・キリストはこの言葉を成就されました。イエスは平和の王、サレムの王です。地上に来られただけでなく、とこしえに治めておられ、その支配に終わりはありません。
5. イエス、王であり祭司
- イスラエルでは、ユダ族が王権を、レビ族が祭司職を担っていました。イエスはその両方です。「あなたこそは、メルキゼデクの位にしたがい、永遠に祭司である。」(ヘブル7:17)サレムの王メルキゼデクは、いと高き神の祭司でもありました(創世記14:18)。
- 今日、イエスは父の右の座におられ、あなたのためにとりなしておられます。これが祭司としての働きです。「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」(マタイ28:18)と言われるとき、イエスは王としての権威について語っておられます。
- イエスは高く上げられた方であり、同時に低くなられた方です。王でありながら、弟子たちの足を洗われました。完全な王であり、完全な祭司です。
- イエスは私たちを王なる祭司としてくださいました。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神につける民である。」(1ペテロ2:9)祭司の側面は、祈ること、とりなすこと、礼拝すること、身をささげること、聖さを求めることです。王の側面は、権威を行使すること、責任を引き受けること、神の義にしたがって生きること、周囲に良い影響を与えること、神から任されたものを管理することです。
- 祭司職だけでは、王権が欠けています。王権だけでは、祭司職が欠けています。どちらも欠けてはバランスを失います。私たちの模範はイエス・キリストだからです。
- 私たちは闇の中にいましたが、闇から驚くべき光の中へ招き入れてくださった方の美徳を宣べ伝えるように召されています。神の子どもであることは、主に対する責任を伴います。
6. イエス・キリストと三位一体
- 三位一体は、知性だけで理解しようとすると頭が痛くなるかもしれません。牧師にとって、神は霊によって理解するものです。だから教会学校の子どもたちのほうが、高い教育を受けた大人よりも、神が誰かをうまく言い表せることがあるのです。
- 「三位一体」という言葉が聖書にないのは確かです。しかしその実体は聖書に見ることができます。父は子ではなく、子は父ではなく、聖霊は父でも子でもありません。そして父は神であり、子は神であり、聖霊は神です。
- 聖霊は人格を持つ方です。悲しませることができ(エペソ4:30)、パウロがビテニヤへ行くのを許さなかったことから意志があることが分かり(使徒16:7)、教え(ヨハネ14:26)、ピリポに語りかけます(使徒8:29)。
- 聖霊は神です。ペテロはアナニヤに、聖霊を欺いたと言い、続いて神を欺いたと言います(使徒5:3-4)。神であるとは、遍在し、全知で、全能であることです。父、子、聖霊はこれらの条件をすべて満たしています。
- では神は三人いるのでしょうか。いいえ。「トゥールーズ・ウエストでは、私たちは唯一の神を信じています。」神のかたちに造られた私たちには、体と魂と霊がありますが、それでも一人の存在です。天井にはいくつもの光源がありますが、光は一つです。
- イエスのバプテスマのとき、三位一体が姿を現します。ヨルダン川におられる子、鳩のように下る御霊、そして天から語る父。「これは、わたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」(マタイ3:16-17)
7. イエスを知ることを求めましょう
- 「私たちはイエスについてたくさんのことを語りましたが、同時にほとんど何も語っていません。」イエスは、数分で語り尽くせるものよりはるかに偉大な方だからです。
- メッセージの中心はこれです。イエスを求め、主との親しい交わりの中で時間を過ごしましょう。主を知れば知るほど、まだ知らないことが見えてきます。主の御臨在を味わえば味わうほど、もっと求めたくなります。
- 主は私たちの言葉では言い尽くせないほど偉大で、知性では測れないほど深く、理屈では捉えきれないほど栄光に満ちておられます。それでいて、聖霊によって私たちのうちに住み、私たちを愛し、手を取ってくださるほど近くにおられます。
- 牧師は告白で締めくくります。「わたしはイエス・キリストを愛しています。主は本当にわたしの人生の主です。」
心に留めたいこと
- イエスの名は「神は救う」という意味です。他の誰にもできないこと、あなたを罪から救うことを、あなたの人生でなさるために来られました。
- キリストは名字ではなく称号です。イエスはメシヤであり、王であり、祭司であり、預言者でもあります。
- イエスをより深く知ると、人は謙遜になります。「彼は必ず栄え、わたしは衰える。」
- 王であり祭司であるイエスは、あなたを王なる祭司としてくださいました。祈りと権威、聖さと責任は、ともにあるものです。
- イエスは、あなたの想像をはるかに超えて偉大な方であり、同時にあなたのうちに住むほど近くにおられます。
個人への適用
- あなたはイエスを個人的に知っていますか。それとも名前だけですか。主に出会ってから、あなたの人生で何が変わりましたか。
- 神に仕えるとき、人に見られたい、拍手されたい、感謝されたいと願っていませんか。
- あなたの人生で最も弱い面はどちらですか。祈りと礼拝ですか、それとも権威と責任ですか。
- 物質的な財産のほかに、子どもたちや身近な人に何を伝えていますか。
- 今週、イエスとの親しい交わりを求めるために、どれだけの時間を取りますか。
引用された聖書箇所
- ルカ4:18
- マタイ1:21
- 使徒4:12
- ヨハネ1:41
- ヨハネ4:25
- 申命記18:15
- マルコ1:7
- ヨハネ3:30
- マタイ26:63-64
- マタイ1:1
- 創世記12:3
- マルコ10:47
- 創世記49:10
- ヘブル7:17
- 創世記14:18
- マタイ28:18
- 1ペテロ2:9
- エペソ4:30
- 使徒16:7
- ヨハネ14:26
- 使徒8:29
- 使徒5:3-4
- マタイ3:16-17
よくある質問
イエスの名にはどんな意味がありますか。
ヘブル語ではイェシュア、ギリシャ語ではイエースースといいます。この名は「主は救い」または「神は救う」という意味です。ステファン・ビュルゴス牧師にとって、この名はイエスの使命を告げています。イエスは、ご自分の民をその罪から救うために来られたのです(マタイ1:21)。発音がどうであれ、大切なのは、あなたが誰を呼び求めているかです。
キリストはイエスの名字なのですか。
いいえ。イエスは名前で、キリストは称号です。キリストはギリシャ語のクリストスに由来し、ヘブル語のマシアハ、すなわちメシヤ、油を注がれた者を訳した言葉です。旧約聖書では、油注ぎは王、祭司、預言者に与えられました。イエスはこの三つの務めを同時に併せ持っておられます。
1ペテロ2:9の「王なる祭司」とはどういう意味ですか。
イエスはメルキゼデクの位にしたがう王であり祭司であって(ヘブル7:17)、ご自分に従う者たちを王なる祭司としてくださいました。ステファン・ビュルゴス牧師によれば、信じる者は二つの面を生きることになります。一方は祈り、とりなし、礼拝、聖さ、もう一方は権威、責任、正義です。