はじめに
パウロは若い教会をほめています。テサロニケの教会は設立からまだ1年、いえ、わずか数か月ほどしか経っていません。それなのにパウロは、あなたがたの信仰はいたるところに知れ渡っていて、私たちはもう何も言う必要がないほどですと言います(テサロニケ第一1:7、8)。この教会はなぜ、その時代にこれほどの足跡を残したのでしょうか。パウロは9節と10節で、それを三つの言葉にまとめています。彼らは偶像から離れて生けるまことの神に仕え、御子イエスが天から来られるのを待ち望むようになったのです。この方こそ、来たるべき怒りから私たちを救い出してくださる方です。
今のあなたは、この箇所は自分には関係ないと思うかもしれません。あなたは像の前にひざまずいてはいないからです。けれども偶像礼拝は、像から始まるのではありません。それは一つの疑いから始まります。神の善さに対する疑いです。それは、自分の判断のほうが神の判断よりも優れていると、ひそかに思い始めるところから始まります。まさにこれが創世記3章で起きたことであり、パウロがテサロニケの人々をほめている理由を理解するために、私たちはそこまでさかのぼる必要があります。
メッセージの構成
1. 偶像から離れるとは、まず像の問題ではない
ギリシア語の原文で「偶像」とは、実体のない像を意味します。それ自体は空っぽなのに、人はそこに力があると思い込み、そこに信頼を置き、そこに喜びと満足を期待します。「離れる」とは、180度向きを変えることです。テサロニケの人々は、それまで頼ってきたものにイエスを付け加えただけではありません。それまで頼っていたものに背を向け、神だけに頼り、神だけを喜び、神だけに満足するようになったのです。
ですから、あなたが自分に問うべき問いは「私は像の前にひざまずいているだろうか」ではなく、こうです。「祈るとき、私は本当は何に、あるいは誰に頼っているだろうか。選択するとき、私は誰を信頼しているだろうか。私はどこに自分の満足を求めているだろうか。」
2. 創世記3章:偶像礼拝を用意する疑いの始まり
神以外の何かに頼るというこの反射的な傾向がどこから来るのかをたどっていくと、堕落にまでさかのぼる必要があります。蛇は狡猾でした(創世記3:1)。命令もせず、力ずくで迫りもしません。ただ一つの問いを投げかけます。「神は本当にそう言われたのか。」ただの問いにすぎませんが、そこには一つの疑念が忍び込んでいます。もしかすると神は、あなたのために本当に良いことを望んでいないのかもしれない。もしかすると神は、あなたに何かを隠しているのかもしれない、というものです。
エバはこの問いを退けません。答えることで、すでに神の言葉から何かを取り除いてしまいます。神は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われたのに、エバは「どの木からでも」と「思いのまま」という言葉を省いてしまいます。さらに、神が一度も言われなかった「それに触れてもいけない」という言葉を付け加えます。また、神が「あなたは必ず死ぬ」と言われたのに、それを「あなたがたが死ぬといけないから」と弱めてしまいます。この時点で、すでに疑いはその働きを始めています。神の言葉はもはや確かなものとして受け止められていないのです。
そこで蛇は、疑念からまっすぐな否定へと踏み込みます。「あなたがたは決して死にません」(4節)。そして、神は嫉妬深く、エバが当然受けるべきものを与えていないのだとほのめかします。「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになることを、神は知っているのです」と。まるで蛇のほうが、エバ自身の益をよく知っているかのようです。
悲劇的なのは、エバが誰かに強制されたわけではなかったということです。彼女の内にはまだ罪はありませんでした。彼女は神を知っており、神の善さがあふれる園に生きていました。それでも彼女は自分自身の判断を選び取ってしまいます。彼女はその実を見つめ、美しく、おいしそうで、好ましいと感じました。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(ヨハネ第一2:16)が、そのまま働いていきます。そして彼女は手を伸ばしました。そこにいたアダムも食べました。パウロは後に、人類を代表するこの一人の人によって罪が世界に入ったのだと語ります(ローマ5:19、コリント第一15:22)。
3. 生ける神に仕え、救い出してくださるイエスを待ち望む
偶像礼拝が「神は私にとって最善ではないかもしれない」という小さな思いから始まることを理解すると、「生けるまことの神に仕える」ことの意味もわかってきます。それは単に像を捨てることではありません。神に神であっていただくことです。何が良いか、聖いか、正しいか、愛にあふれているかを決めるのは、私たちの内側の物差しではなく、神ご自身であると認めることです。神が私たちの枠組みに合わせるのではなく、私たちが神の枠組みに入っていくのです。
そして、偶像から離れることは、待ち望むことのうちに完成します。「御子が天から来られるのを待ち望む……このイエスが、来たるべき怒りから私たちを救い出してくださる」(10節)。この救い出しは、私たちの宗教的な努力によって生み出されるものではありません。それは、よみがえられ、再び来られるキリストから来るものです。テサロニケの人々の信仰は、この三角形のうちに保たれていました。彼らは偶像を離れ、生ける神に仕え、イエスを待ち望んでいたのです。あなたの信仰も、同じ三角形のうちに保たれることができます。
覚えておきたいポイント
- 偶像礼拝は礼拝の対象から始まるのではなく、神があなたの益を望み、それを行ってくださるという事実への疑いから始まります。
- 神の言葉から何かを取り除いたり、付け加えたり、ひそかにねじ曲げたりすることは、エバのように堕落への準備となります。
- 何が良いか、聖いか、正しいかを決めるのは、あなたの内側の物差しではなく、神ご自身です。
- 祈りが望んでいた答えを受け取れなかったとしても、それは神があなたに無関心であることを意味しません。むしろ神が、あなたの求めた以上のことをしてくださっているしるしかもしれません。
- 偶像から離れることの究極的な意味は、来たるべき怒りから救い出してくださるイエスを待ち望むことにあります。
個人への適用
- あなたが祈るとき、あなたの信頼はどのようなものでしょうか。神に自分の思いどおりにしてくださいと求めているのか、それとも、自分の状況を神にゆだね、神の最善を信じて委ねているのか。
- 今の自分の選択に都合よく合わせるために、神の言葉を取り除いたり、付け加えたり、和らげたりしている領域が、あなたの生活のどこかにありませんか。
- あなたは本当は何に、あるいは誰に頼って、自分の安心、喜び、満足を得ようとしていますか。それを名指しして、神の前に差し出してみてください。
- 自分の生活を他のクリスチャンの生活と比べるとき、その比較はあなたの内にどんな偶像を映し出していますか。
- あなたは本当にイエスの再臨を待ち望んでいますか、それとも、最善のものはこの地上で今すぐ手に入るはずだという生き方をしていませんか。
引用された聖句
- テサロニケ第一1:9-10
- テサロニケ第一1:7-8
- 使徒17:2
- 創世記3:1-7
- 創世記2:16-17
- 創世記3:21
- ヨハネ第一2:16
- コロサイ3:1-5
- ローマ5:19
- コリント第一15:22
- サムエル第一15:23
- 詩篇50:16-22
- 詩篇14:1
- イザヤ42:8
- 列王記第二20章(ヒゼキヤ)
- 民数記11:33
- ヨハネ第一1:5
- ヨハネ8:44
- ヘブル9:22
よくある質問
神に求めた答えが与えられないのは、神が聞いてくださっていない証拠ですか。
いいえ、そうではありません。神はすべての祈りを聞いておられます。ただ神は、私たちの計算どおりにではなく、本当に最善であることに従って行動されます。ヒゼキヤの例は示唆に富んでいます。彼の祈りに応えて、神はさらに15年の命を与えられました(列王記第二20章)。ところが、この期間にヒゼキヤはバビロンの使者たちの前で高ぶってしまい、この時期に生まれた息子マナセは、後にユダで最も悪い王の一人となってしまいます。求めたとおりのものをそのまま受け取ることが、必ずしも最善の恵みとは限らないのです。
私は像の前にひざまずいていません。それなら偶像礼拝とは無縁でしょうか。
いいえ、そうとは言えません。聖書的に言えば、偶像礼拝とは、生ける神から離れて、何か別のもの、評判、健康、夫婦関係、仕事、自分自身の考えなどに頼ることです。サムエル第一15:23には、不従順は偶像礼拝と同じくらい重い罪だとさえ記されています。それは宗教的なしぐさである前に、心の向きが変わってしまうことなのです。
「生けるまことの神」に日々具体的に仕えるとは、どういうことでしょうか。
この箇所から三つの実践が導き出せます。第一に、自分の都合に合わせるために取り除いたり付け加えたりせず、神の言葉をそのままの姿で受け止めること。第二に、地上のものではなく、キリストが座しておられる上にあるものへと目を向け直すこと(コロサイ3:1-2)。第三に、過ぎ去るものに幸せを置かなかった者として日々を生きながら、イエスの再臨を積極的に待ち望むことです。
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