はじめに
イエス・キリストの十字架とは、イエスが死なれたローマの処刑の道具のことです。クリスチャンにとって、十字架はゆるしのシンボルになりました。イエスはそこで人々の罪を負い、人々を神と和解させてくださったからです。復活と合わせて見ると、神の愛は死よりも強いということも意味しています。
教会の屋根にも、アクセサリーにも、旗にも、あちこちで十字架を見かけますが、それが何を表しているのかはよく知らないという方も多いでしょう。でもこのしるしは、約二千年前にエルサレムで起きた、ある具体的な出来事を指しています。このページでは、十字架の意味を知りたい方のために、当時の十字架とは何だったのか、何が起きたのか、新約聖書は何を伝えているのか、そしてなぜ世界中の何百万もの人が十字架を信仰の中心にしているのかを説明します。
十字架とは何か、なぜこのシンボルなのか
ローマ帝国では、十字架刑は奴隷や反逆者、犯罪人に科される刑罰でした。立てられた柱に罪人をつけ、権力に逆らうとどうなるかを群衆に見せるために、人々の目の前で行われました。飾りなどではなく、死と、とりわけ恥のための道具でした。
だからこそ、初期のクリスチャンの選択は衝撃的でした。彼らは屈辱のしるしを、自分たちの象徴にしたのです。つまり「十字架」という言葉は、本来はアクセサリーのことではありません。罪のない一人の人が、最も低い罪人として扱われることを受け入れた場所を指しています。
ゴルゴタで何が起きたのか
ゴルゴタとはアラム語で「されこうべ」を意味し、エルサレムの近くでイエスが十字架につけられた場所です。イエスの生涯を伝える四つの記録、福音書は、痛みを長々と描くことはせず、抑えた筆致でこの場面を語っています。強調されているのは、イエスが何を語られたか、そしてこの時をどのように通られたかです。
ルカによる福音書23章33-34節
「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。」
苦しみの真っただ中で、イエスは誰ものろいませんでした。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」という祈りに、十字架のメッセージの中心が表れています。求められる前から差し出されるゆるしです。 ルカによる福音書23章を全文で読む。
聖書によれば、十字架は何を成し遂げたのか
聖書の後半部分である新約聖書は、いくつかのイメージで十字架を説明しています。一つ目はゆるしで、借金や告発状が取り消されることです。二つ目は和解で、神から遠ざかっていた人々との間に平和が回復されることです。三つ目は、悪の力に対する勝利です。
コロサイ人への手紙2章13-15節
「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」
パウロは、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書が「十字架につけてしまわれた」と書いています。これは証書が破棄されたというイメージです。イエスの敗北に見えたものが、この箇所では勝利となります。 コロサイ人への手紙2章を全文で読む。
ローマ人への手紙5章8-10節
「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」
ここで十字架は、愛の証拠として示されています。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さった」のです。神は、わたしたちが完全になるのを待たずに、最初の一歩を踏み出してくださいました。 ローマ人への手紙5章を全文で読む。
ペテロの第一の手紙2章24節
「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」
ペテロは、イエスが「わたしたちの罪をご自分の身に負われた」と語ります。目的は罪悪感を抱かせることではなく、わたしたちが罪の重荷から解き放たれて生きられるようにすることです。 ペテロの第一の手紙2章を全文で読む。
なぜクリスチャンは十字架を自分たちのしるしにしたのか
最初の弟子たちにとって、十字架は悲しい思い出ではなく、希望の源でした。そこに、神の愛が最後まで示された時を見ていたのです。やがて十字架は、互いを見分け、言葉なしに「イエスがわたしたちの人生の中心です」と伝えるしるしになりました。
ガラテヤ人への手紙6章14節
「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」
パウロは「わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」と断言します。自分の功績ではなく、イエスが自分のためにしてくださったことを誇りとしているのです。 ガラテヤ人への手紙6章を全文で読む。
十字架と復活はなぜ切り離せないのか
もし物語がイエスの死で終わっていたなら、十字架は数ある悲劇の一つにすぎなかったでしょう。クリスチャンは、三日後にイエスが生き返られたと信じています。十字架はなぜイエスが死なれたのかを説明し、復活は死が最後の言葉ではなかったことを証明します。この二つで一つのメッセージです。
実際、クリスチャンの十字架の多くは空っぽです。イエスはもうそこにはおられないことを思い起こさせるためです。イエスの体を表す伝統もあれば、そうでない伝統もありますが、どれも同じ希望を語っています。
コリント人への第一の手紙15章3-4節
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、」
パウロは、自分が最も大事だと考えることを要約しています。キリストは「わたしたちの罪のために死んだ」こと、そして「三日目によみがえった」ことです。死と復活は一つにつながっています。 コリント人への第一の手紙15章を全文で読む。
「自分の十字架を負う」とはどういう意味か
この表現は、つらい試練を指す言葉として日常でも使われるようになりました。聖書ではもっと明確な意味があり、自分を何事の中心にもしないで、イエスに従うことを選ぶという意味です。苦しみを求めるのではなく、イエスに従うには代価があることを受け入れるということです。
ルカによる福音書9章23節
「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」
イエスは聞いているすべての人に、「日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われます。この招きは日々のもので、個人的なものであり、自由です。応えるかどうかは、一人ひとりが決めます。 ルカによる福音書9章を全文で読む。
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よくある質問
クリスチャンにとって十字架は何を象徴しますか?
十字架は、イエスの犠牲を象徴します。クリスチャンは、それによって自分の罪がゆるされ、神との関係が回復されたと信じています。また神の愛を表し、復活と合わせて、死に対する勝利をも表しています。
なぜイエスは十字架で死なれたのですか?
歴史的には、この刑罰を用いていたローマの権力によって有罪とされたためです。聖書によれば、イエスは自ら進んでそれを受け入れられました。神に立ち返るすべての人にゆるしを差し出すために、いのちを与えられたのです。
十字架と十字架像(クルシフィックス)はどう違いますか?
十字架は、二本の木が交差しただけの形です。十字架像には、それに加えてイエスの姿があります。どちらかを使うキリスト教の伝統もあれば、どちらも使わない伝統もありますが、そのことで信仰が変わるわけではありません。
クリスチャンになるには、十字架を身につける必要がありますか?
いいえ。アクセサリーや物は聖書が求めているものではありません。大切なのは、イエスが十字架でしてくださったことを信じ、日々イエスに従うことを選ぶことです。