はじめに
赦しは聖書のメッセージの中心にあり、二つの方向を持っています。神が私たちに差し出してくださる赦しと、私たちが人に与えるよう招かれている赦しです。この20の聖書の言葉は、五つの側面に分けています。神が与えてくださる赦し、罪がどのように消し去られるか、私たちが人に与える赦し、どこまでも及ぶ赦し、そこから生まれる自由です。一度に一つの項目をゆっくり読み、あなたの生活のある場面に触れる聖句を書き留めておきましょう。
神が与えてくださる赦し
1. 詩篇103篇12節
「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。」
ダビデは、自分に注がれた神の恵みをたたえています。東と西は決して出会わないという、地理にたとえた表現を使います。それが、告白したあなたの罪と神との間に置かれる距離です。まだそこにあるかのように、もう一度背負う必要はありません。 詩篇103篇を全文で読む。
2. ヨハネの第一の手紙1章9節
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」
ヨハネは、自分たちがなお過ちを犯しうると知っている信徒たちに書き送っています。約束は明快です。罪を告白するなら、神は真実で正しい方なので、赦し、きよめてくださいます。赦しはあなたの功績ではなく神の真実さによるもので、あなたが心から神に語るとき、すでに待っていてくださいます。 ヨハネの第一の手紙1章を全文で読む。
3. イザヤ書1章18節
「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」
神は民を、率直に顔を合わせて問題を解決するよう招かれます。緋のように赤い、目立つ罪であっても、雪のように白くなりえます。この招きはあなたにも向けられています。したことを隠さず、ありのままで来ることができます。 イザヤ書1章を全文で読む。
4. ミカ書7章18-19節
「だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために とがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、 再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を 海の深みに投げ入れ、」
預言者は、赦しを喜び、いつくしみを楽しまれる神に驚嘆しています。私たちの罪が海の深みに投げ込まれると描きます。告白して赦されたものは、ただ隠されるのではなく、道から取り除かれます。それを取りに戻ることなく、前に進めます。 ミカ書7章を全文で読む。
罪を消し去り、思い出されない神
5. イザヤ書43章25節
「わたしこそ、わたし自身のために あなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。」
神は、何度も自分を失望させてきた民に語られます。ご自身のゆえに罪をぬぐい去ると言われます。赦される者の価値のゆえにではありません。この赦しは、ですから、得るものではなく神の性質から来るものです。自分にふさわしくないと感じるときも、変わらず有効です。 イザヤ書43章を全文で読む。
6. エレミヤ書31章34節
「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。」
神は、すべての人が自分を個人的に知るようになる新しい契約を告げられます。それは明確な約束に基づいています。咎を赦し、罪を再び思い出さないということです。記憶から消えるという意味ではなく、あなたに対してその罪を問わないと決められたということです。 エレミヤ書31章を全文で読む。
7. 詩篇130篇3-4節
「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に 目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。 しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。」
詩人は、もし神が私たちの罪を数え上げるなら、だれも立っていられないと認めます。しかし赦しは神のもとにあります。この気づきは恐れではなく深い畏敬を生みます。大きな赦しを受けた人は、それだけ多く愛するからです。 詩篇130篇を全文で読む。
8. 詩篇86篇5節
「主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者に いつくしみを豊かに施されます。」
ダビデは苦しみのときに祈り、自分が神について知っていることを神に思い起こさせます。神は善い方で、赦す用意があり、呼び求めるすべての人に慈愛を豊かに施されます。自分の成績ではなく、この神の性質に寄りかかって、近づく勇気を持つことができます。 詩篇86篇を全文で読む。
私たちが人に与える赦し
9. マタイによる福音書6章14-15節
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」
イエスは、弟子たちに祈りを教えたすぐ後でこの言葉を語られます。受けた赦しと、与える赦しを結びつけておられます。恨みを持ち続けることは、神が与えようとされるものに心を閉ざします。赦すとは、相手が決して返せない負債を手放すと選ぶことです。 マタイによる福音書6章を全文で読む。
10. エペソ人への手紙4章32節
「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」
パウロは、まったく異なる背景の人々が共に暮らす教会に書き送っています。親切、あわれみ、互いに赦し合うことを求めます。模範ははっきりしています。神がキリストにあってあなたを赦してくださったように、です。赦しをあなたが作り出す必要はありません。受けた赦しにならうのです。 エペソ人への手紙4章を全文で読む。
11. コロサイ人への手紙3章13節
「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」
パウロは、共に暮らせば不満が生まれることを認めています。互いに忍び合い、だれかに不満があっても赦し合うよう語ります。傷の存在を否定せず、キリストが赦してくださったように赦しなさいと呼びかけます。赦しは、受けた過ちを認めることから始まります。 コロサイ人への手紙3章を全文で読む。
12. マルコによる福音書11章25節
「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。」
イエスは弟子たちに祈りを教え、実際的な条件を加えられます。だれかに対して恨みがあれば、まず赦しなさいということです。赦しは、心が穏やかなときだけの選択肢ではなく、祈りに伴うものです。心が解き放たれた状態で祈ることは、神との関係の質も変えます。 マルコによる福音書11章を全文で読む。
数えずに、最後まで赦す
13. マタイによる福音書18章21-22節
「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」
ペテロは、七度まで赦せば寛大だと考えます。イエスは、七度を七十倍するまでと答えられます。つまり、数えないということです。虐待を黙認せよと言っているのではなく、赦しは使い切る回数ではなく、心の姿勢だと教えておられます。 マタイによる福音書18章を全文で読む。
14. ルカによる福音書17章3-4節
「あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。」
イエスは、信仰の兄弟姉妹の間の関わりについて語られます。人が罪を犯したなら戒め、悔い改めるなら赦します。一日に何度でもです。ですから赦しは真実を避けません。率直に語ることも、癒やされたいと願う関係の一部です。 ルカによる福音書17章を全文で読む。
15. ルカによる福音書6章37節
「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」
イエスはここで、人と共に生きる方法を教えておられます。さばかない、罪に定めない、赦す。この一つ一つが、それを実行する人を自由にします。人に向けたさばきを手放すとき、あなた自身も内なる平安を取り戻し、息がしやすくなります。 ルカによる福音書6章を全文で読む。
16. ルカによる福音書23章34節
「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。」
イエスは十字架の上で、自分の着物を分け合う兵士たちを前にこの言葉を語られました。ご自分を苦しめる者たちのために赦しを求めておられます。そのような場面で赦しが生まれうるなら、あなたの状況でも、傷が深くても、赦しは生まれえます。 ルカによる福音書23章を全文で読む。
罪に定められず、自由になって歩み出す
17. ローマ人への手紙8章1節
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」
パウロは、キリスト・イエスにある者は、もはや罪に定められることがないと宣言します。この聖句は、過去の失敗を繰り返し突きつける内なる声にも向けられています。神が赦されたのなら、自分を責めるのをやめ、差し出された恵みを受け入れてよいのです。 ローマ人への手紙8章を全文で読む。
18. 詩篇103篇8-10節
「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。 主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。 主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。」
ダビデは神の性質を描きます。あわれみ深く、怒るのにおそく、いつくしみに富む方です。私たちの罪にしたがって扱われることはありません。この描写は、いつでも罰しようとする神という像を正してくれます。恐れずに神のもとに戻り、身軽にやり直すことができます。 詩篇103篇を全文で読む。
19. 詩篇51篇10節
「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。」
ダビデは、重大な失敗の後に祈っています。赦しだけでなく、清い心と新しくされた霊を求めています。赦しは、本当の変化への扉を開きます。この祈りは、ゼロからやり直したいと願うときのためにあります。 詩篇51篇を全文で読む。
20. エペソ人への手紙1章7節
「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。」
パウロは、罪の赦しがキリストにある贖いと結びついており、神の豊かな恵みによると説明します。それは、無理に引き出した好意ではなく、惜しみなく与えられた賜物です。それに値しようとするのではなく、感謝して受け取ることができます。 エペソ人への手紙1章を全文で読む。
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よくある質問
聖書は赦しについてどう語っていますか。
聖書は、神が自分の罪を認めて神に立ち返る人を赦してくださると教えています。そして私たちにも、同じように人を赦すよう招いています。赦しはイエス・キリストにある神の恵みに基づいています。赦しは良心を解放し、壊れた関係を回復させます。
謝らない相手も赦さなければなりませんか。
聖書は、相手が何も求めなくても、心から赦すよう招いています。イエスは十字架の上でそうされました。赦すとは、悪を許すことでも、すぐに信頼を取り戻すことでもありません。復讐したい思いを手放し、正義を神にゆだねることです。
聖書によれば、自分自身をどう赦せばよいですか。
聖書は自分を赦すことについて直接語ってはいませんが、キリストにある者には罪に定められることがないと告げています(ローマ人への手紙8章1節)。神に告白したことを神が赦してくださったのなら、その赦しを受け入れ、自分を責めるのをやめることができます。