携挙のあと、天であなたを待っているもの

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はじめに

「終わりの時」シリーズの第二回にあたるこの教えは、ジャン=クロード・ヴィラ牧師(教会ラ・リアーヌ)によるもので、金曜の夜に語られたメッセージの続きです。金曜には教会の携挙について語られました。主が来られ、クリスチャンたちがキリストと結び合わされる出来事です。これはキリストの再臨とは区別して考えるべきものです。今日は視点が変わります。私たちはすでに天にいるという前提で、キリストが地上に戻られる前に天で何が起こるのかを見ていきます。

語られている立場ははっきりしています。携挙は前千年王国的で、患難期前的なものです。教会は大患難の前に、そして千年王国の前に携挙されます。「神は私たちを怒りに定められたのではなく、救いを得させるようにされたのです」(テサロニケ人への第一の手紙 5:9)。そのとき、天であなたを待っている出来事は三つあります。キリストの裁きの座、報い、子羊の婚姻です。

このメッセージの目的は、あなたに日付やシナリオを推測させることではありません。ごくシンプルな問いに答えてもらうことです。あなたは備えができていますか。「準備をしていますか」ではありません。イエスは「準備しなさい」とは言わず、「備えていなさい」と言われます。この違いは大きいのです。

メッセージの構成

1. 振り返り:携挙とは本当は何か

先に進む前に、ジャン=クロード・ヴテサロニケ人への第一の手紙4章17節コリント人への第一の手紙15章52節から、携挙の聖書的な特徴を振り返ります。

ギリシャ語の言葉。「共に引き上げられる」と訳されるこの言葉は、文字通りにはつかまれる、奪い取られる、捕らえられるという意味です。暴力的な意味合いはなく、この言葉が強調しているのは突然さです。イエスが盗人について語るときと同じ言葉が使われています。自分のかばんがなくなったことに気づいたときには、もう遠くへ行ってしまっているのです。

この来臨を表す三つの形容詞。

  • 秘密である。キリストは「輝く明けの明星」(ヨハネの黙示録 22:16)として来られます。まだ誰も見ていない、夜明け直前に輝く星です。この出来事を見る者はいません。教会だけが見ます。なぜなら、去っていくのは教会自身だからです。
  • 選び分けられる。「善を行った者は生命を受けるためによみがえり、悪を行った者は裁きを受けるためによみがえる」(ヨハネによる福音書 5:29)。救われるのは行いによるのではありませんが、この箇所ははっきりとした区別を示しています。主に属する者は、命へとよみがえるのです。
  • 突然である。「一瞬のうちに、またたく間に、終わりのラッパの響きと共に」(コリント人への第一の手紙 15:52)。ラッパは(かつての軍隊のように)召集の合図ですが、すべての人がそれを聞くわけではありません。教会だけがそれを聞き、去っていくのです。

そして、繰り返し出てくる問いがあります。「クリスチャンの運転手が携挙されたら、バスはどうなるのですか」。牧師の答えはこうです。「それは主にお任せしなさい。大切なのは、あなた自身が備えているかどうかです。」

2. 天にて:裁きではなく、三つの出来事

携挙された教会は、天で続けて三つのことを経験します。

  1. キリストの裁きの座(ベーマ)。
  2. 報い
  3. 子羊の婚姻

この三つの出来事は脅しではありません。牧師は何度もそこに立ち返ります。私たちは、宣告を恐れる被告として立つのではありません。私たちはすでに救われ、すでに栄光の体、朽ちることのない、不滅の体をいただいているのです。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることはない」(ローマ人への手紙 8:1)。

3. キリストの裁きの座:断罪ではなく、明らかにされる場

「なぜなら、わたしたちはみな、キリストの裁きの座の前に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体によってした行為に応じて、報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙 5:10)。パウロが書き送っているのはコリントのクリスチャンたちであって、町の住民全般ではありません。ですから、もしあなたがキリストのものであるなら、この箇所はまさにあなたに語られているのです。

「裁きの座」にあたるギリシャ語はベーマです。これは行進の際の閲兵台のような、高く設けられた壇や台を指します。イストミア大会やオリンピックの審判たちが、勝者に賞を授けていたのがこの台からでした。ギリシャ人、ローマ人、旧約聖書を知らない諸国民出身のクリスチャンたちに宣教していたパウロは、彼らが理解できる言葉で教えを語り直しています。競走、戦い、勝利、報いという言葉です。

そこで使われている動詞は、文字通り「明らかにされる」(ギリシャ語 ファネロテーナイ)です。「わたしたちはみな、キリストの裁きの座の前に明らかにされねばならない」。明らかにされるのは、あなたが何をしたかだけではなく、あなたがどのような者であったか、そしてその行いをしたときの動機です。

「もしこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどを用いて建てるなら、おのおのの働きは明らかにされる」(コリント人への第一の手紙 3:12-13)。説教者、証しをする人、仕える人が、どんなにすばらしいことをしても、それはどんな心で行われたのでしょうか。人に注目されるため、「あの兄弟はすごい、あの姉妹はすばらしい」と言われるためでしょうか。それとも、主への愛、兄弟姉妹への愛からでしょうか。

良い動機から行われたことは、金や宝石で建てることです。悪い動機から行われたことは、木や草やわらであり、それは火に焼かれてしまいます。ここでの「悪」というギリシャ語は、罪という道徳的な意味合いを持つのではなく、役に立たないこと、価値がないこと、神にとって何の意味もないことを指しています。

結果として、主はあなたの罪のためにあなたを罰することはありません(すでに赦されているからです)。主は価値のないものを取り除き、価値のあるものだけを残してくださいます。そのうえで、報いを与えてくださるのです。

4. キリストの裁きの座で何が調べられるのか

牧師は、調べられることになる主な項目を順に取り上げていきます。

行い。「今から後、主にあって死ぬ死人は、さいわいである。御霊も言う、しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、その行いは彼らについていくであろう」(ヨハネの黙示録 14:13)。「労苦」(ギリシャ語 コポス)という言葉は、重くのしかかるもの、苦しいものを表しています。主は、クリスチャン生活がいつも簡単ではないことをご存じです。そして行いは、あなたについていくのであって、先立つのではありません。天国の扉を開くのは行いではないのです。

労苦と動機。「神は不義なかたではないから、あなたがたのわざと、御名のために示した愛の労を、お忘れになるようなことはない」(ヘブル人への手紙 6:10)。大切なのは、誰のためにそれを行ったかです。

奉仕。「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者が教師にならないがよい。わたしたちが人一倍きびしいさばきを受けることが、わかっているからである」(ヤコブの手紙 3:1)。この警告はまず教える立場の人に向けられていますが、「奉仕」という言葉は「仕えること」を意味し、私たちはみな、神から与えられたものをもって、神に仕える者として召されています。主の前には「大きな」奉仕も「小さな」奉仕もありません。タラントのたとえは「十タラントの者にはよくやった、五タラントの者には何もなし」とは言っていません。忠実な僕にはみな同じ言葉が語られます。「よくやった、良い忠実な僕よ」(マタイによる福音書 25:21)。

賜物の用い方。「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良い管理人として、その賜物を用いて互に仕えなさい」(ペテロの第一の手紙 4:10)。信仰歴が五十年でも三日でも、神はあなたに、他の人のための賜物を与えてくださいます。キリストの体には手も足も口も目も必要である、とパウロはコリント人への第一の手紙12章で強調しています。

物質的な財の用い方。「尽きることのない財布を天に、すなわち、盗びとも近寄らず、しみもいためない宝を天に積みなさい」(ルカによる福音書 12:33)。またルカによる福音書14章13〜14節も。人を招くときには、お返しのできない人を招きなさい、そうすればあなたの報いは正しい人々の復活の時に受けるであろう、とあります。そしてテモテへの第一の手紙6章17〜19節では、富んでいる人々に対して、気前よく、惜しみなく、良い行いをするようにと語られています。

堅く立つことと希望。「だから、あなたがたは、確信を捨ててはいけない。その確信には大きな報いが伴っている」(ヘブル人への手紙 10:35-36、忍耐が必要であることも共に語られています)。そしてマタイによる福音書5章11〜12節。「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい」。主のゆえにあざけられるときのことです。

忠実さ。「そこで、いったい管理人には、忠実であることが要求されているのである」(コリント人への第一の手紙 4:2)。神があなたに求めておられるのは、成功することでも、大きな能力を持つことでもありません。忠実であることです。

5. まず自分自身を裁く

「だから、人はまず自分自身を吟味すべきである」(コリント人への第一の手紙 11:28)。この箇所は聖餐の文脈にあります。パウロが言う「主の体をわきまえる」とは、単に十字架で傷ついたキリストの体を思い起こすことだけでなく、教会という体を見分けることでもあります。

コリントの教会には分裂がありました。愛餐の席で食べ過ぎる者もいれば、何も持たない者もいました。パウロは厳しく言います。「あなたがたが集まるのは、かえって害になるためである」。そして、体をわきまえないなら、自分自身に対するさばきを招くことになる、と付け加えています。

具体的にはこういうことです。顔を合わせたくないクリスチャン、口をきかないクリスチャン、会堂で互いを避けているクリスチャンがいます。それなのに、パンとぶどう酒を共に受けるために立ち上がる。こうしたことは、できれば今のうちに、主の前で解決しておくべきです。

「子たちよ。今、彼のうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨の際に、恥じ入って御前から退くことのないためである」(ヨハネの第一の手紙 2:28)。

6. 報い:王冠ではなく、栄冠

「植える者と水を注ぐ者とは一つであって、おのおのその労苦に応じて、それぞれ自分の報酬を受けるであろう」(コリント人への第一の手紙 3:8)。おのおの。自分自身の報酬です。すべての人に報いがあるのです。

ここで訳の落とし穴に注意しましょう。ギリシャ語には「冠」を表す言葉が二つあります。

  • ステファノス:勝利者の月桂冠。オリンピックのメダルのように公の栄誉のしるしです。栄誉のしるしであって、決して王権のしるしではありません。
  • ディアデーマ:王権の記章です。聖書全体を通して、ヨハネの黙示録も含めて、ディアデーマを身につけるのはただ一人、イエスだけです(ヨハネの黙示録 19:12)。

よくある誤解があります。ヨハネの黙示録6章2節には、白い馬に乗り冠をかぶった者が登場します。「これはイエスだ」と言う人がいますが、違います。これはイエスに似せた反キリストです。なぜそう分かるのでしょうか。この者がかぶっているのは「ステファノス」であって、「ディアデーマ」ではないからです。まことの王は複数のディアデーマを身につけておられます(ヨハネの黙示録 19:11-13)。御言葉には正確でいてください。そうでないと、だまされてしまいます。

ですから、私たちが受ける冠は「ステファノス」です。主は私たちに栄誉を与えてくださいますが、王にしてくださるわけではありません。王はただおひとりです。

牧師は新約聖書に出てくる冠を一つずつ取り上げていきます。

  • いのちの冠。「試錬に耐える人は、さいわいである。それを忍びとおしたのちに、いのちの冠を受けるからである」(ヤコブの手紙 1:12。ヨハネの黙示録2章10節も参照)。
  • 義の冠。「今からのちには、義の冠が私のために備えられている。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に賜わるであろう。私だけでなく、主の現れるのを慕う者にはすべて、下さるであろう」(テモテへの第二の手紙 4:8)。あなたは主の来臨を慕っていますか。冠はすでにあなたのために備えられているのです。
  • 朽ちない冠。「すべて競技をする者は、あらゆる面で自制するものである。彼らは朽ちる冠を得るためであるが、わたしたちは朽ちない冠を得るためである」(コリント人への第一の手紙 9:25)。
  • 栄光の冠。「そして、大牧者が現れる時には、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」(ペテロの第一の手紙 5:4)。

7. その冠をどうするのか。それは置くためのもの

牧師はほとんどユーモアを交えてこう問いかけます。「その冠をどうするのでしょうか。ショーケースに飾るのでしょうか。いくつも重ねてティアラでも作るのでしょうか。」

そうではありません。「二十四人の長老は御座にすわっているかたの前にひれ伏し、世々限りなく生きているかたを拝し、彼らの冠を御座の前に投げ出して言った、『主なるわれらの神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかたであります』」(ヨハネの黙示録 4:10-11)。

これこそが冠の意味です。冠は、私たちの人生における神ご自身の働きであるがゆえに、私たちに与えられるのです。そして私たちはそれを主にお返しします。栄光は主のものだからです。この報いは、私たちを救い、贖い、変えてくださった主の恵みを示すものです。それはキリストへのあかしとなるのです。

8. 子羊の婚姻:ついに実を結ぶ結びつき

「わたしたちは喜び楽しみ、彼に栄光を帰そう。小羊の婚姻の時が来て、その花嫁はその用意をしたのだから。彼女は、光り輝くきよい麻布を着ることを許された。この麻布は、聖徒たちの正しい行いである」(ヨハネの黙示録 19:7-8)。

ここに注目してください。「彼女は着ることを許された」とあります(花嫁が自分で身にまとうのではありません)。そして「その花嫁はその用意をした」とあります。ここに、背景としてキリストの裁きの座の役割が読み取れます。そこで残らないものはすべて取り除かれ、残るべきもの、光り輝くきよい麻布が現れるのです。

ギリシャ語の細かなニュアンスがあります。これは単なる「麻布」ではなく、しわの寄らない上質の麻布です。普通の麻布はしわが寄ります。上質の麻布はしわが寄りません。主は、永遠のために私たちに最善のもの以外を与えるはずがないのです。

この婚姻は天で行われます。キリストの裁きの座と、主の地上への再臨の間にです。なぜそう分かるのでしょうか。キリストが再臨されるとき(ヨハネの黙示録 19:14)、その花嫁はすでに主とともにおり、光り輝くきよい麻布をまとっているからです。婚約者ではなく花嫁であるということは、結婚がすでに天で行われたということです。

9. 子羊の婚姻と婚宴:混同しないように

「小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」(ヨハネの黙示録 19:9)。ここではもう花婿花嫁ではなく、招待客への招きの話になっています。聖書はこの二つを区別しています。

  • 子羊の婚姻は、キリストとその花嫁に関わるもので、天で行われます。
  • 婚宴は、主の再臨のときに地上で行われるもので、千年王国に招かれるイスラエルと諸国民が関わります(イザヤ書 25:6-7)。

だからこそ、十人のおとめのたとえ(マタイによる福音書 25:1-13)はよく誤解されるのです。おとめたちは花嫁ではありません。彼女たちは、ヘブライの文化的文脈の中では、婚宴のために花嫁に付き添う介添え役です。彼女たちは、すでにそこにいる花嫁とともに、花婿を迎えに行くのです。目を覚ましていることの教訓自体は真実ですが、このたとえが語っていないことを語らせてはいけません。

兄弟姉妹たち、私たちは介添え役ではありません。私たちは花嫁なのです。

10. 聖書における二人の花嫁、混同してはならない

聖書には二つの「花嫁」があります。

  • 神の花嫁はイスラエルです。ホセア書や預言者たちの書を読み返してみてください。
  • キリストの花嫁は教会です。

この区別は非常に重要です。教会そのものは、旧約聖書においては隠された奥義でした。パウロはエペソ人への手紙3章3〜6節でこう明確に記しています。「この奥義は、いま彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに、御霊によって啓示されているように、前の時代には人の子らに対して知らされていなかったのである。すなわち、異邦人が、福音により、キリスト・イエスにあって共同の相続者となり、共同のからだとなり、共同の約束にあずかる者となる、ということである。」

この奥義とは、教会のことです。イスラエルの将来はダニエルに啓示されましたが、教会の将来はそうではありません。まだ啓示された存在としては存在していなかったからです。ですから、旧い契約の預言の中に教会を探そうとしないでください。預言者たちが告げているのはイスラエルと諸国民に関する計画です。旧約聖書の教えはもちろん私たちに語りかけてきますが、教会の時代がそこにそのようなものとして含まれていることは決してありません。

終わりの時に関する実際的な帰結はこうです。教会は携挙されたのち、地上に来るべき大患難にも、これから起こる迫害にももはや関わりません。教会はキリストとともにいるのです。主が戻られるとき、教会も主とともに戻り、主とともに治めるのです。

11. あなたは備えができていますか。それだけが問われる基準です

「キリストの花嫁であるためには、回心していなければならない。新しく生まれていなければならない。」ただ教会の会員であるとか、ただ集会に来るというだけでは足りません。イエス・キリストにある新しいいのちを受けていなければならないのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント人への第二の手紙 5:17)。

あなたは教会にいて携挙されるか、それとも残るか、そのどちらかです。第三の道はありません。もしあなたが備えているなら、今あなたが心を向けるべきことは、できるだけ多くの人をこの救いに導くことです。家族のこと、身近な人たち、同僚、友人たちのことを考え、彼らにキリストのことを語り、招くことです。イエスは「準備しなさい」ではなく「備えていなさい」と言われます。決められた期限などありません。またたく間の瞬間は、今このときかもしれないのです。

覚えておきたいポイント

  1. 携挙は秘密であり、選び分けられ、突然に起こります。前もって告げられることはありません。終わりのラッパが鳴るのを見届けることはできないでしょう。イエスは「備えていなさい」と言われるのであって、「準備しなさい」とは言われません。
  2. キリストの裁きの座は断罪のための裁きではありません。あなたはそこに、救われた者として、栄光の体をもって、明らかにされるために立ちます。明らかにされるのは、あなたの行いの動機です。
  3. 愛からしたことは残り、見られるためにしたことは火に焼かれます。金、銀、宝石は残り、木、草、わらは焼かれます(コリント人への第一の手紙 3:12-15)。
  4. キリストが与えてくださる冠は、栄誉のしるしであって、王権の記章ではありません。ただひとりの王だけがディアデーマを身につけています。私たちの「ステファノス」は、御座の前に置くためのものです。
  5. 子羊の婚姻と婚宴を混同しないでください。前者はキリストとその教会に関するもので、天で行われます。後者はイスラエルと諸国民に関するもので、主の再臨のときに地上で行われます。
  6. 問われる唯一の基準は、新生です。教会の名簿に名前があるかどうかではありません。キリストにある新しいいのちがあるかどうかです。

自分自身への適用

神の前でしばらく時間を取り、次の問いを正直に自分に向けてみてください。

  1. もし主が今夜戻ってこられたら、あなたは携挙されるでしょうか。あなたは新しく生まれていますか。それとも、ただ習慣で教会に通っているだけですか。あなたは今、本当のところキリストとどのような関係にありますか。
  2. あなたが奉仕するとき、教えるとき、ささげるとき、賛美するとき、その動機は何でしょうか。人に見られるためですか。神に喜ばれるためですか。キリストの裁きの座は、この問いをあなたに突きつけます。今のうちに答えを出しておく方がよいのです。
  3. 今はもう話さなくなった兄弟や姉妹、会堂で避けている誰かがいませんか。来週の日曜の聖餐までに、解決しておくべきことは何でしょうか。
  4. あなたは主の来臨を慕っていますか。本当に主の再臨を待ち望んでいますか。それとも、この地上をまるで永遠の住まいであるかのように生きていますか。
  5. あなたの周りで、まだ備えができていない人は誰ですか。手遅れになる前にその人がキリストと出会えるよう、愛し、招き、(たとえ「しつこい」と思われても)絶えず伝え続ける責任を、あなたが負っている相手は誰でしょうか。

引用された聖句

よくある質問

キリストの裁きの座は、私の罪を理由に私を裁くのですか。

いいえ、違います。イエスご自身がこう言われています。「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を得、また、さばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネによる福音書 5:24)。キリストの裁きの座は断罪のための裁きではなく、明らかにされる場です。あなたの罪はキリストにあってすでに赦されています(ローマ人への手紙 8:1)。そこで明らかにされるのは、あなたの行いの動機です。神は価値のないものを取り除き、主への愛から行われたことに報いてくださいます。

ジャン=クロード・ヴィラ牧師は、なぜ「準備しなさい」ではなく「備えていなさい」と言うことにこだわるのですか。

それは、イエスご自身がそのように語っておられるからです。「準備しなさい」という言い方は、まだ時間が残されていることを前提としています。「備えていなさい」という言い方は、その来臨が今この瞬間に起こりうることを前提としています。それはひとつの計画ではなく、ひとつの状態なのです。携挙は「一瞬のうちに、またたく間に、終わりのラッパの響きとともに」(コリント人への第一の手紙 15:52)と描かれていて、前もって告げられることはありません。牧師は、「あとで取り組もう」という考え方から私たちを引き出そうとしているのです。

具体的に、私たちが受ける冠は何のために用いられるのですか。

それは神に栄光を帰すために用いられます。ヨハネの黙示録4章10〜11節はこう描いています。二十四人の長老がひれ伏し、その冠を御座の前に投げ出して、こう言います。「主なるわれらの神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかたであります。」この報いは、あなたの人生におけるあらゆる霊的な実りが神ご自身の働きの結果であることを表しています。私たちはそれを受け取り、それを主にお返しするのです。この報いは、キリストの栄光のために用いられます。

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