はじめに
福音を証しするのに、科学的な証拠や知的な議論は必要でしょうか。John Whitcomb博士は、ロンドンのMetropolitan Tabernacleのポッドキャストで朗読された文章「Apologetics and Gospel(弁証学と福音)」で、この問いを投げかけています。
彼はまず自分自身の歩みから語り始めます。それは1943年2月、プリンストン大学の学生だったときのことです。彼はクリスチャンの家庭で育ったわけではなく、聖書を教える教会に通ったこともありませんでした。ふたりのクリスチャンの学生が、毎週の聖書研究に何度も何度も彼を誘ってくれたのです。数か月その教えを聞いたのち、彼はキリストに従う決心をしました。まもなく、友人たちを救いに導きたいと願うようになりました。そして、まもなく失敗しました。
この失敗から、ひとつの確信が生まれました。人が神に逆らう反抗の根深さを見くびっていたこと、そして、罪を示し心を照らす聖霊のみわざによって力を発揮する神のみことばの決定的な役割を見落としていたことです。John Whitcombにとって、信仰を弁護するとは、まず神に語っていただくことなのです。
メッセージの流れ
1. プリンストンでの失敗と、そこから得た教訓
- John Whitcombの友人は、裕福な家庭で育った知識人でしたが、聖書研究への誘いを断ります。「2000年近くも前に時代遅れになった本」をなぜ学ぶ必要があるのか、というのです。「ここプリンストンには、世界の起源について聖書を真剣に受け取る科学の教授など、ひとりもいない。」
- 信仰を持ったばかりの青年は、進化論に反論するしっかりした文献を探しますが、見つかったのは数冊の小さな小冊子だけでした。友人は礼儀正しくそれを受け取ります。「いつか時間ができたら、目を通してみるよ。」話はそこで終わりました。
- 落ち込んだ彼は、教師にたずねます。「ぼくのどこがいけないのでしょうか。性格の問題ですか。それとも、もっとよい論拠を集める時間が必要なのでしょうか。」教師は弁証学の講義をする代わりに、5か月前に関心カードを書いた学生を訪ねるため、彼を連れて行きます。
- その学生は、もう関心を失っていました。5か月間の学びを通して、聖書は誤りだらけだと確信したのです。その証拠は何か。「ヨナと大きな魚」でした。John Whitcombは、さっそく図書館で鯨に関する本を探し回ることを考えます。
- ところが教師の答え方は違いました。キリスト自身が言及された書であるヨナ書が話題になったことを感謝していると言い、続けて、なぜ自分が聖書を神のことばだと信じているのかを説明してよいかと許可を求めます。そして、自分の根本的な問題は罪だったと神が示してくださった経緯を語りました。
- 「彼が聞いたのは、キリスト教についての科学的、歴史的、哲学的な弁護ではなく、福音にあふれた証しであり、祈りをこめて彼の心に語りかけられたものだった。」質問は無視されたわけではありませんが、どの答えも福音に、そしてキリストに従うようにとの招きに立ち返っていました。ついにその学生は、キリストが主であることを認めました。
2. ふたつの障害:人の心とサタン
- 弁証学の本の多くは、「福音に加えて」、議論の武器庫と、考古学的・歴史的な証拠が必要だと思わせます。しかし聖書は、証拠を受け取りたくてうずうずしている人々の姿を示してはいません。そこに描かれているのは、閉ざされた心です。
- 「クリスチャンでない人の根本的な問題は、単に学問的、知的な問題ではない。それは道徳的、霊的な問題である。」神を求める者はひとりもいません(詩篇10篇4節、詩篇14篇2-3節、ローマ人への手紙3章10-12節)。人は真理を閉じこめています(ローマ人への手紙1章18-20節)。「肉の思いは神に敵する」のです(ローマ人への手紙8章7節)。
- 罪は知性にも及びます。人は罪過の中に死んでおり(エペソ人への手紙2章1-3節)、その知力は暗くなっています(エペソ人への手紙4章17-18節)。しかも、知性と心を切り離すことはできません。悪い思いは心から出てくるからです(マタイによる福音書15章19節)。
- 第二の障害はサタンです。この世の神であるサタンが、不信者の心の目をくらませています(コリント人への第二の手紙4章3-4節、エペソ人への手紙6章12節、エペソ人への手紙2章2節)。「わたしが不信者にキリストのことを語るとき、語りかけている相手はひとりではない。ふたり以上であり、そのうちひとりを除いてみな目に見えない。」種まきのたとえでは、悪い者が心にまかれたものを奪い去ります(マタイによる福音書13章19節)。
- サタンの力を無視する弁証学では、ミカエルとともに「主がおまえを戒めて下さるように」と言うことはできません(ユダの手紙9節)。「今日、わたしたちが切実に必要としているのは、力のある弁証学である。」
3. 人にはできないが、神にはできる
- クリスチャンは、人々を説得して神に向かわせることができるのでしょうか。「聖書の答えは、できない、というものである。」聖書は、それが難しいとは言わず、不可能だと言います。「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない」のです(コリント人への第一の手紙2章14節)。
- 弟子たちが「では、だれが救われることができるのだろう」とたずねたとき、イエスは「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」と答えられました(マタイによる福音書19章25-26節)。John Whitcombにとって、これこそ効果的な弁証学のかぎです。
- もし神が、知的な議論によって失われた人々を獲得することを望んでおられたなら、歴史上のほとんどのクリスチャンは資格を失っていたでしょう。しかし神は、この世の愚かな者を選んで知者を恥じ入らせられました(コリント人への第一の手紙1章26-29節)。
- 聖書の方法は、愛と忍耐と祈りをもって、聖書に従った福音を示すこと(コリント人への第一の手紙15章3-4節)、そして敬虔な生き方の中でそれを行うことです(テサロニケ人への第一の手紙1章5節、2章3-12節)。心を刺しとおすのは、生きた力あるみことばだけであり(ヘブル人への手紙4章12節)、だからこそ栄光は神だけが受けられるのです。
- 回心した人は、ようやく自分の疑問を検討するための正しい視点を得ます。たとえこの世ですべての答えが得られなくてもです。ダマスコ途上のサウロは、疑問のリストを突きつけたりしませんでした。彼は叫びます。「主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか」(使徒行伝22章10節)。すべてを考え直すには何年もかかりますが、彼はただちにキリストを宣べ伝えました(使徒行伝9章20節)。
- パウロはコリントの人々に、みなが預言するなら、入ってきた不信者は罪を示され、心の秘密があらわにされて、神が彼らの間におられることを認める、と語っています(コリント人への第一の手紙14章24-25節)。人間の知恵もしるしも、みことばの明快な宣言に取って代わることはできません。
4. みことばは、それ自体で輝く光
- こういう反論があります。聖書を証明するのに聖書に頼るのは、堂々めぐりではないか。考古学や歴史や科学で聖書を証明するあいだ、聖書をわきに置くべきではないか。「答えはノーである。」
- もしキリスト教が、他の円によって定義される、数ある真理の円のひとつにすぎないなら、それはまったく真理ではないことになります。神のみことばは唯一の究極の円であり、見えるものも見えないものも、不信者も、その人の目をくらませるこの世の神さえも、すべてを包み込んでいます。
- 不信者との共通の土台を見つけるためにみことばの光を消すのは、真理を捨てて、その人と一緒に暗闇の中を手探りすることです。啓示された真理は、光と同じように、自らを証明します。「暗やみに輝くともしび」なのです(ペテロの第二の手紙1章19節)。
- 洞窟のたとえです。ひとりの人が、暗い洞窟の奥で迷っています。友人は、その人と一緒に暗闇に座り込み、迷っているという「共通の土台」を分かち合うべきでしょうか。ともしびのメーカーや大きさや明るさについて議論すべきでしょうか。いいえ。ともしびに火をともして、見るようにと促すのです。
- 人は光を見分けることができるからです。「聞く耳と、見る目とは、ともに主が造られたものである」(箴言20章12節)。キリストはすべての人を照らし(ヨハネによる福音書1章9節)、神について知りうることは、彼らの間に明らかです(ローマ人への手紙1章19節)。
- クリスチャンの役割は、友人がなんらかの形で神のみことばに触れ続けるようにし、御霊が彼に罪を示してくださるように祈ることです。もし彼が特別啓示に応答しないなら、一般啓示の証拠には応答するだろうと言える聖書的な根拠が、どこにあるでしょうか。
5. 悔い改める前に証拠を要求する権利は、だれにもない
- この方法は、クリスチャンからさえ批判を受けます。決断する前に、キリスト教を他の宗教と比べるのは理にかなっているのではないか、と。「ここでも答えはノーである。」イエスは数ある救い主のひとりではなく、ゆっくりと、こちらの条件で吟味してよい方ではありません。
- 探求する人は中立ではありません。神のかたちに造られた人は、そのかたちが堕落で損なわれてもなお残っており(創世記9章6節、ヤコブの手紙3章9節)、心の奥底で神がどなたかを知っています。だから逃げ、身を隠し(創世記3章10節)、光を憎み(ヨハネによる福音書3章20節)、真理を閉じこめるのです(ローマ人への手紙1章18節)。神を知らないと言い張ることはできません(ローマ人への手紙1章21節)。
- 聖霊が心に「主イエスを信じなさい」と語られるとき、ぐずぐずしたり、調べたり、議論したりするのは、命取りになりかねません。「見よ、今は救の日である」(コリント人への第二の手紙6章2節、使徒行伝17章30節)。
- 完全な証明を要求すれば、不条理に行き着きます。すべての事実とすべての選択肢を調べなければならず、決断する前に死んでしまうでしょう。不信者にそれを要求できると思わせることは、「彼を知的、霊的な高ぶりの台座の上に乗せ、そこから決して降りられなくすること」です。
- パウロは、主の僕に対し、すべての人にやさしくし、よく教えることができ、反対する者を柔和な心で訂正し、神が彼らに悔い改めを与えてくださることを待ち望むようにと求めています(テモテへの第二の手紙2章24-26節)。
- 最も役に立つクリスチャンとは、哲学、心理学、歴史、考古学、科学にいちばん詳しい人ではありません。これらはそれぞれの場で大切な分野ですが。「最良の弁証家とは、聖書の最良の学び手である。」真理のみことばを正しく解き明かす働き人であり(テモテへの第二の手紙2章15節)、聖書に強いアポロのような人です(使徒行伝18章24-28節)。
- キリスト教は深く理性的です。神は無限の理性であり、その思いを私たちに伝えることができるからです。福音は滅びゆく者には愚かですが(コリント人への第一の手紙1章18節)、それ自体が愚かなのではありません。ただし、だからといって、合理主義的な方法で失われた人々に福音を伝えられるわけではありません。
6. 心の中でキリストを主とあがめる:ペテロの第一の手紙3章15節
- 「いつでも弁明のできる用意をしていなさい」:ギリシア語ではアポロギア(apologia)という語です。自分の信仰を学問的に正当化するために、啓示の外に出る必要があるのでしょうか。限られた学問しかなかったペテロに、それができたでしょうか。パウロは非常に学識がありましたが(使徒行伝26章24節、22章3節)、「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」以外は何も知るまいと決心しました。それは、信仰が「神の力によるもの」となるためでした(コリント人への第一の手紙2章2、5節)。
- 文脈もこれを裏づけています。ペテロは迫害を受けているクリスチャンに書いています。彼らが恐れたり心を乱したりしなくてよかったのは、議論に勝てるからではなく、心の中であがめるべきキリストに、彼らの確信がかかっていたからです。
- 弁明は「やさしく、慎み深く」、明らかな良心をもって行うべきです(ペテロの第一の手紙3章15-16節)。合理主義的な議論では、答えが正しければ、答える人の信心深さは問われません。霊的な証しでは、これらの条件が不可欠です。
- 主をあがめるとは、人間の理屈によって人を回心させることなどできない自分の無力を告白し、回心させてくださるのは神だけであると認めることです。神が御霊によってみことばを示してくださり、その結果によって栄光を受けられるよう祈ることです。
- 1944年のアルデンヌの戦いのたとえです。John Whitcombは、そこでアメリカ軍砲兵大隊の射撃諸元の計算兵として従軍していました。前進観測員は、敵の戦車が現れたとき、逃げることもできれば、単独で撃つために突っ込むこともできました。どちらも悲惨な結果になります。彼の第三の道は、「砲兵隊を心の中で聖なるものとして」、戦車の位置を電話で知らせ、十二門の105ミリ砲に、自分にはできないことをしてもらうことでした。
- 「サタンと悪霊と堕落した人間の世界における神の前進観測員として、クリスチャンは主であるキリストに呼びかけることを学ばなければならない。」
7. 用意すべき答え:神のみことば
- あなたが用意しておくべき答えは、根本的には神のみことばであり、あなた自身のことばではありません。魂を獲得しようとする真剣な努力の中で、私たち自身のことばは死んでいて精彩がないことにすぐ気づきます。けれども「神の言は生きていて、力がある」のです(ヘブル人への手紙4章12節)。
- キリストは模範を示されました。聖書の正確な引用と「と書いてある」ということばで、三度サタンを打ち破られました。ヨハネによる福音書8章12-59節で、信じないパリサイ人たちに対し、奇跡ではなく父の証しに訴えられ、「これらのことを語られたところ、多くの人々がイエスを信じた」のです(ヨハネによる福音書8章30節)。
- 今日のクリスチャンは、考古学的、歴史的、科学的な発見のおかげで、主や使徒たちや初代教会よりもすぐれた弁証学を持っていると考えているのでしょうか。もしそうなら、心の中で主をあがめていないことになります。
- 彼の結論です。「神のみわざは、神のやり方で行われなければならない。そうしてこそ、神の是認を受けることができる。」
心に留めたいこと
- 不信者の問題は、まず知的なものではなく、道徳的、霊的なものです。その心は閉ざされ、サタンがその知性を暗くしています。
- 人を回心させることは人にはできませんが、みことばと御霊によって働かれる神にはできます。
- 神のみことばは、光と同じように、自らを証明します。ともしびについて議論するのではなく、火をともすのです。
- 最良の弁証家とは、聖書の最良の学び手であり、毎日へりくだって神に従う人です。
- 心の中でキリストを主とあがめるとは、自分の無力を告白して神により頼み、やさしく、敬意をもって、明らかな良心をもって答えることです。
自分への問いかけ
- だれかに信仰について異論を唱えられたとき、あなたはまず適切な論拠を探しますか。それとも、神がその人の心に触れてくださるように祈りますか。
- プリンストンの教師のように、難しい議論を福音と自分自身の証しに引き戻すには、どうすればよいでしょうか。
- 聖書を学ぶ時間は、ほかの場所で答えを探す時間と比べて、どれくらいありますか。
- あなたの証しの仕方は、やさしさと敬意と明らかな良心を特徴としていますか。
- 身近な人のうち、だれのために今週祈りますか。神の御霊がその人の目を開いてくださるように。
引用された聖書箇所
- ペテロの第一の手紙3章15-16節
- 詩篇10篇4節
- 詩篇14篇2-3節
- ローマ人への手紙3章10-12節
- ローマ人への手紙1章18-21節
- ローマ人への手紙8章7節
- エペソ人への手紙2章1-3節
- エペソ人への手紙4章17-18節
- エペソ人への手紙6章12節
- マタイによる福音書15章19節
- コリント人への第二の手紙4章3-4節
- マタイによる福音書13章19節
- ユダの手紙9節
- コリント人への第一の手紙2章14節
- マタイによる福音書19章25-26節
- コリント人への第一の手紙1章18-29節
- コリント人への第一の手紙15章3-4節
- テサロニケ人への第一の手紙1章5節
- ヘブル人への手紙4章12節
- 使徒行伝22章10節
- 使徒行伝9章20節
- コリント人への第一の手紙14章24-25節
- ペテロの第二の手紙1章19節
- 箴言20章12節
- ヨハネによる福音書1章9節
- 創世記3章10節
- ヨハネによる福音書3章20節
- コリント人への第二の手紙6章2節
- 使徒行伝17章28-30節
- テモテへの第二の手紙2章15節
- テモテへの第二の手紙2章24-26節
- 使徒行伝18章24-28節
- コリント人への第一の手紙2章2-5節
- ヨハネによる福音書8章12-59節
よくある質問
キリストに導くために、科学的な証拠は必要ですか。
John Whitcombによれば、不信者の問題はまず知的なものではなく、道徳的、霊的なものです。人にはできないことも、神にはできます(マタイによる福音書19章26節)。心を刺しとおすのは、聖霊によって適用される神のみことばだけです。質問が無視されるわけではありませんが、答えはいつも福音に立ち返ります。
ペテロの第一の手紙3章15節の「いつでも弁明のできる用意をしていなさい」とは、どういう意味ですか。
ペテロが手紙を書いた相手は、迫害を受けている、多くは学問のないクリスチャンたちでした。彼らの確信は、議論の巧みさからではなく、心の中であがめるべき主から来ていました。彼らの弁明は、やさしさと敬意と明らかな良心をもって行われるべきものであり、これは合理主義的な議論とはまったく別の条件です。
聖書を証明するのに聖書を使うのは、循環論法ではありませんか。
John Whitcombは、神のみことばは唯一の究極の真理の円であり、不信者を含め、存在するすべてを包み込んでいると答えています。光と同じように、みことばは自らを証明します。暗い洞窟で迷った人を救いたい人は、その人のともしびについて議論したりしません。火をともすのです。