マタイ5章:イエスは廃止するためではなく成就するために来られた

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はじめに

このメッセージは、Église du Tabernacle が山上の説教を学んでいるシリーズ「À l'école du roi(王の学校で)」の一回です。幸いなる人々(八福)で描かれた御国の民の姿、そして地の塩、世の光として大使の役割を担うことが語られたあと、マタイによる福音書5章17-20節に進みます。

説教者はまず、ある打ち明け話から始めます。2023年に家族とともにパリへ来て、初めて地方選挙で投票したそうです。各候補者の公約を見たとき、最初に目に入ったのは街のビジョンではなく、環状道路の時速50キロ制限をどうするかでした。彼は速度違反の自動取締機に3回撮られており、「たいてい54キロか55キロ」だったといいます。新しいリーダーが現れると、私たちはまず、自分に都合よく何を廃止してくれるのかを探してしまうものです。

ガリラヤの丘に集まっていた群衆も、イエスを前にして同じことを考えていたのでしょう。説教者はこれに二つの答えを示します。王は黒板を消さない。そして、王は要求の基準を下げない、ということです。

メッセージの流れ

1. 「思ってはならない」:群衆が考えていたこと

  • 誰かに「思い違いをしてはいけないよ」と言うのは、相手が何を思っているかを知っているからです。説教者は、お菓子の袋の周りをうろうろしている息子さんを思い浮かべます。イエスは、群衆の心にあることをご存じなのです。
  • イエスは何週間も前から、天国は近づいたと宣べ伝え、病人をいやし、悪霊に命じ、だれにもない権威をもって教えてこられました。
  • 預言者たちは「主はこう言われる」と語り、律法学者たちは「こう書いてある」と語りました。ところがイエスは「まことに、あなたがたに告げます」と言われます。まるで神ご自身が語っているかのようです。「実際に、語っておられるのは神なのです。」
  • 群衆の中には、重荷に感じていた律法をイエスが軽くしてくれるのではと期待する人たちがいました。一方でパリサイ人のように、すべてを廃止されてしまうのではと恐れる人たちもいました。

2. 王は黒板を消さない

  • 「律法や預言者」とは、1世紀のユダヤ人が持っていた書物のすべてを指し、「Aから Zまで」、つまり私たちが旧約聖書と呼ぶ部分のことです。聖書全体の4分の3にあたります。
  • この部分は今も自分に関係があるのだろうかと、多くの人が疑問に思っています。旧約の神は厳しく、イエスのほうが優しそうに見えるからです。旧約聖書は博物館にしまっておけばよいのではないでしょうか。
  • 「廃止する」とは、数学の授業のあとに教室に入ってきた歴史の先生が、スポンジで方程式を消してしまうようなものです。「これは私の教科ではない」というわけです。このギリシア語は「取り壊す」とも訳せる言葉です。
  • イエスは教科を変えるのではありません。授業を続けられます。それが「成就する」ということです。
  • 成就するとは、まず従うことです。イスラエルは荒野で40年間、不平を言い、指導者を批判し、偶像を立てて過ごしました。イエスは荒野で40日間、空腹になり、誘惑を受けながら、そのたびに律法で答えられました。「こう書いてある」と。イスラエルと人類が失敗したところで、イエスは立ち続けられたのです。

3. 点をつなぐ:すべてはイエスを指し示している

  • 成就するとは、満たす、最後までやり遂げる、ものごとを完成に導くことでもあります。説教者は子どものころに聞いた例えを話します。夏休みのドリルにある、番号つきの点つなぎの絵です。最初は何も見えませんが、点をつないでいくと帆船が現れます。
  • 神は律法と預言者の中に点を打ってこられました。預言者たち自身も、自分たちの内にあるキリストの御霊が指し示している時がいつのことなのかを、探り求めていました(ペテロの第一の手紙1章10-11節)。丘の上で、イエスはその線を引かれます。
  • 全体像を見てみましょう。蛇の頭を踏み砕く女の子孫と、イサクの身代わりに献げられた雄羊(創世記)、門の鴨居につけられた血(出エジプト記)、仲介者である大祭司(レビ記)、掲げられた蛇(民数記)、永遠に統べ治めるダビデの子(サムエル記)、神に見捨てられた者の叫び(詩篇22篇1節)、私たちの罪のために傷つけられ、ほふり場に引かれる小羊のように連れて行かれる方(イザヤ書)、雲に乗る人の子(ダニエル書)、注がれる御霊(ヨエル書)、深みの中の三日間(ヨナ書)、ベツレヘムでの誕生(ミカ書)、ろばの子に乗ってのエルサレム入城(ゼカリヤ書)です。
  • 「イエスがいなければ、旧約聖書は線のない点の集まりです。」説教者は、自分も一年の始めに創世記から読み始めて、レビ記で息切れし、3月にはマタイに戻っていたことがあると告白します。
  • エマオへの道で、がっかりしていた二人の弟子は聖書の言葉をよく知っていました。イエスはモーセとすべての預言者から始めて、ご自分について書かれていることを説き明かされます。イエスが点をつなぐと、彼らの心は燃えました(ルカによる福音書24章27、32節)。
  • ある討論の場で、ユダヤ人の神学者がクリスチャンに対して、旧約聖書を「イエスのめがねで」読んでいると非難しました。「そのとおりです。旧約聖書は、あの方のことが書かれているのですから。」イザヤが、イエスより何世紀も前に、これほど正確にイエスについて語っていることは他に類を見ず、信仰を強めてくれます。

4. 一点一画も落ちることはない:ひとつの希望

  • こんなに多くの点がすでにつながれているのなら、なぜ「天地が消えうせるまで」と言われるのでしょうか。それは、まだつながれていない点があるからです。
  • 説教者は三つを挙げます。イエスは再び来られること。世界を義によってさばかれること。すべてのものが新しくされ、神の民が「悲しみも、不安も、恐れも、涙もなく」集められることです。
  • イエスに信頼を置いた人は、義と宣言されます。イエスを望まなかった人は、この地上で選んだもの、すなわち神から離れて生きることの「極み」の中で生きることになります。それを私たちは地獄と呼びます。
  • 戦争や先行きの見えなさ、仕事を奪うかもしれない人工知能に不安を覚えている人に向けて、イエスの言葉があります。「一点一画も落ちることはない。」
  • ひとつ注意があります。旧約聖書を「あの人たちは失敗したが、自分ならできる」と思って読まないことです。イスラエルには律法があり、神殿があり、預言者がおり、レビ人たちの賛美がありました。それでも誰も成し遂げられませんでした。「彼らが私たちより悪いからではなく、私たちと同じだからです。」再び律法の下に身を置くことは、パウロがガラテヤ人への手紙で戦っていることにほかなりません。

5. 律法を道しるべとして読む:食べ物の例

  • レビ記11章は、豚、野うさぎ、えびなど、いくつかの動物を食べることを禁じています。いくつかの宗教運動や、一部のクリスチャンは、この規定に戻ろうとしています。
  • 神はその理由を示しておられます。神は、ご自分の民をほかの民から区別されました。だから、きよいものと汚れたものを見分けなさい、というのです(レビ記20章24-25節)。「神は栄養士ではありません。」それは、食事のたびに思い起こす道しるべでした。
  • マルコによる福音書7章で、イエスはすべての食べ物をきよいと宣言されます。矛盾でしょうか。そうではありません。イエスは何かを廃止するのではなく、その道しるべが何を指していたのかを示されたのです。人を汚すものは、心から出てくるのです。
  • 「イエスは私たちのお皿をきれいにしに来られたのではなく、心をきよめに来られたのです。」この道しるべは十字架を告げていました。十字架で、イエスは私たちを神の前できよい者としてくださいます。
  • 旧約聖書の箇所に向き合うとき、問うべきは「この規定は今も自分に当てはまるのか」ではなく、「この箇所は何を指し示していたのか」です。そして、もしこれらの聖句にいらだつなら、「心の中にある自分の汚れにも、同じだけいらだってください。」

6. 王は要求の基準を下げない

  • すでにこんな反論が浮かんでいるかもしれません。「イエスが私の代わりにすべてを成就してくださったのなら、戒めはもう私の問題ではない」と。しかしイエスは続けて言われます。最も小さな戒めの一つでも破り、そうするよう人に教える者は、御国で最も小さい者と呼ばれる、と。
  • 私たちはたいてい二つのリストを持っています。大切な戒め(「殺さない、盗まない、妻を裏切らない」)と、交渉の余地がある戒めの棚です。不在の同僚について話すときの言葉、夜に誰も見ていないところで何を見るか、疲れているときに子どもや配偶者にとる口調、確定申告、高速道路での運転、借金の返済などです。
  • 流しの下の水漏れのようなものです。一日に三滴だからとボウルを置いておくうちに、ある日、配管工が棚は腐っていると告げます。「最初に崩れるのは、たいてい大きな戒めではなく、小さな戒めです。」
  • すべてが同じ重さではありません。イエスはパリサイ人が、ミントやクミンの十分の一を数えながら、正義とあわれみと誠実をおろそかにしていることを責められました。しかし同時に、ほかのこともなおざりにしてはならないと言われます(マタイによる福音書23章23節)。
  • 従わないことよりも悪いのは、同じことをするよう人に教えることです。クリスチャン同士で、肩をぽんとたたいて「神様はわかってくださるよ、罪悪感を持たなくていいよ」と言うたびに、壁から戒めが一つ外されていきます。

7. 心から出る、もう一つの従順

  • パリサイ人の義にまさる義が必要です。パリサイ人は613の戒め(してよいこと248、してはならないこと365)を数え上げ、そのすべてを守ろうと努力していました。丘の上では衝撃が走ります。「もうだめだ。」
  • 八福で語られたように破産した者でなければならないのでしょうか。それとも、チャンピオンでなければならないのでしょうか。鍵はここです。イエスはもっと多くの従順を求めているのではなく、別の従順を求めておられるのです。積み上げていく義ではなく、内側から出てくる義です。神は人の心をご存じだからです(ルカによる福音書16章15節)。
  • 21世紀に合わせて基準が下げられたわけではありません。結婚前の性についても、結婚についても同じです。神は、一方の聖書では優しく、もう一方では厳しいということはなく、いつも聖なる方です。思いの中までも含めて、誰が立っていられるでしょうか。誰もいません。「こうして私たちは、イエスが語り始められたその場所にいます。破産して、手ぶらの状態です。」それは同じ入口です。
  • 神の要求を成就してくださる方が必要です。それがイエスです。報いを得るための従順は、真実なものではありません。説教者は、洗礼準備のクラスでこんな例を挙げています。一人の子どもはおこづかいをもらうために従い、もう一人の子どもは、すでにすべてを受け取っていて愛しているから従います。あなたは、どちらの関係を望みますか。
  • 1998年、13歳でPSGのファンだった彼は、お金を一銭も持っていませんでしたが、義理の兄がチケット代を払ってくれて、初めてパルク・デ・プランスに入りました。彼は周りを観察し、サポーターに何が求められているかを学び、場違いな振る舞いはしませんでした。チケットはすでに支払われていたので、彼の振る舞いはその贈り物の「当然の続き」だったのです。
  • あなたには、御国の入場料を払うものがありませんでした。イエスが神の要求を満たし、あなたの罪の宣告を負ってくださいました。従順は、すべてを支払ってくださった方を敬いたいという願いに変わります。
  • 多くの人がイエスから離れていったとき、ペテロはこう答えました。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言葉をもっているのは、あなたです」(ヨハネによる福音書6章68節)。説教者は、まだこの決断をしていない人に、もう待たないようにと呼びかけます。「今、人生を変えてください。」

心に留めたいポイント

  • イエスは黒板を消されません。旧約聖書は博物館の展示品ではなく、そのすべてがイエスを指し示しています。
  • イエスがいなければ、旧約聖書は線のない点のように見えます。どの箇所を読むときも、それが何を指し示していたのかを自分に問いかけてみましょう。
  • まだつながれていない点(イエスの再臨、さばき、すべてのものの刷新)も成就します。一点一画も落ちることはありません。
  • 王は要求の基準を下げません。小さな戒めも大切であり、それをないがしろにするよう人に教えることは、さらに重大です。
  • イエスが求めておられるのは、心から出る従順です。その従順が私たちを救うのではありません。御国への入場料を払ってくださった方への応答なのです。

個人的な適用

  • 旧約聖書を読むとき、あなたは当てはめるべき規則を探していますか。それとも、イエスが今どの点をつないでおられるのかを考えていますか。
  • あなたは、どんな戒めを「交渉の余地がある棚」にしまっていますか。同僚についての発言、スマホやテレビの画面、家での口調、税金、運転、借金などではどうでしょうか。
  • 真理を愛をもって語る代わりに、「神様はわかってくださるよ」と言って、兄弟姉妹を安心させてしまうことはありませんか。
  • あなたは、神から何かを得るために従っていますか。それとも、すでにすべてを神から受け取っているから従っていますか。
  • まだイエスに信頼を置いていないなら、何があなたを待たせているのでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

イエスが「廃止するためではなく、成就するために来た」と言われたのは、どういう意味ですか。

廃止するとは、教科を変える先生のように、黒板を消してしまうことです。イエスはそうはなさらず、授業を続けられます。イスラエルが失敗したところで、律法に完全に従われ、そして何よりも、律法と預言者の完成そのものとなられました。旧約聖書は番号つきの点つなぎの絵のようなものです。イエスが線を引かれて、初めてそれがこの方のことだったと分かるのです。

クリスチャンは、レビ記11章の食物規定を今も守らなければなりませんか。

この章は聖書に残っていますが、これらの規定は、イスラエルが選び分けられた民であることを思い起こさせる道しるべでした。マルコによる福音書7章で、イエスはすべての食べ物をきよいと宣言し、汚れは心から出てくるものだと示されました。この道しるべは、イエスが十字架でなさること、つまり私たちを神の前できよい者とすることを指し示していました。これらの章を読むとは、それが何を指し示していたのかを問うことです。

イエスがすべてを成就してくださったのなら、戒めに従うことはまだ意味がありますか。

はい、あります。イエスは要求の基準を下げず、小さな戒めも大きな戒めと同じように大切です。ただしイエスが求めておられるのは、心から出る別の従順です。それは誰も自分の力では到達できないので、御国に入るためにイエスが必要なのです。従順は、救いを得るための手段ではなく、すべてを支払ってくださった方への愛の応答となります。

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