赦しに関する聖書箇所25選

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はじめに

赦しはクリスチャン生活の三つの側面に関わっています。キリストにあって神が与えてくださる赦しを受け取ること、自分を傷つけた人を赦すこと、そして自分自身への恥にもはや捕らわれないことを学ぶことです。このリストは、口語訳による25の聖句を、神が与えてくださる赦し、キリストにおけるその成就、人を赦すようにとの招き、それを受け入れる悔い改め、そしてそれが開く新しい自由という五つの軸でまとめたものです。それぞれの参照箇所は本文全体へのリンクとなっており、これらの言葉を文脈の中で黙想し、暗唱し、あるいは祈りとしてささげることができます。

神が与えてくださる赦し

1. 詩篇103篇12節

東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。

この聖句は神の赦しの大きさを歌っています。私たちと私たちの罪との間には、無限とも言える距離があるのです。これは渋々与えられる部分的な赦しではなく、神のあわれみの豊かさに見合う、完全な引き離しです。この言葉を黙想すると、神が私たちの罪をいつまでも覚えておられないことがどれほど大きな恵みかが分かります。聖書で詩篇103篇12節を読む

2. 詩篇32篇1節

そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。

ダビデはこの詩篇を、幸いの宣言から始めます。咎が覆われた者は、他の何ものにも代えがたい平安を知っているのです。赦しは単なる安堵ではなく、持続する喜びの源です。この聖句は、赦しを当然の権利としてではなく、贈り物として受け取るよう招いています。聖書で詩篇32篇1節を読む

3. イザヤ書1章18節

主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

神はご自分の民を、あたかも結末がすでに定まっている法廷でのように、共に「論じよう」と招かれます。緋のような罪の色が、雪のように白く変えられるのです。これは単なる言い訳ではなく、完全な変化のイメージです。この聖句は、自分の過去が本当に消し去られるのか疑う人々を安心させてくれます。聖書でイザヤ書1章18節を読む

4. ヨハネの第一の手紙1章9節

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

この約束は告白を条件としていますが、その保証は私たちの功績ではなく、神の真実と義に基づいています。告白するとは、神がすでに知っておられることを知らせることではなく、神の前に真実の中に自分を置くことです。この聖句は、繰り返し襲ってくる罪責感と戦うすべての人にとっての錨となります。聖書でヨハネの第一の手紙1章9節を読む

5. ミカ書7章19節

再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ、

そのイメージは鮮烈です。神は私たちの罪を、届かない海の深みに投げ入れられるのです。預言者は、赦すだけでなく咎を完全に取り除かれる神のあわれみを賛美しています。これは、神が沈めてしまわれたものをわざわざ引き揚げに行かないようにとの励ましです。聖書でミカ書7章19節を読む

キリストにおいて成し遂げられた赦し

6. エペソ人への手紙1章7節

わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。

パウロは赦しを、キリストの血によるあがないと結びつけています。それは「代価がない」という意味で無償なのではなく、すでに支払われた代価のゆえに無償で差し出されているのです。神の恵みの豊かさは、私たちに与えられる賜物の大きさによって測られます。この聖句は、赦しを一つの感情としてではなく、十字架という歴史的な出来事のうちに根づかせています。聖書でエペソ人への手紙1章7節を読む

7. コロサイ人への手紙1章14節

わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。

パウロはこの凝縮された一文で、キリストの御業を要約しています。あがないと罪の赦しは、「この御子によって」受け取られるのです。この聖句は、赦しが抽象的な事柄ではなく、私たちがそのうちに含まれる御子という一人の人格であることを思い起こさせます。赦しを自分の努力の中にではなく、一つの関係の中に求めるよう招いています。聖書でコロサイ人への手紙1章14節を読む

8. 使徒行伝10章43節

預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。

ペテロはコルネリオの家で、普遍的な約束を宣言します。イエスを信じる者はだれでも、その名によって赦しを受けるのです。この聖句は、赦しの地平を一つの民族を超えて、キリストに信頼を置くすべての人へと広げます。門を開くのは出自でも功績でもなく、信仰であることを思い起こさせます。聖書で使徒行伝10章43節を読む

9. ローマ人への手紙8章1節

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。

前章で描かれた内なる葛藤の後、パウロは解放を宣言します。キリストにある者には、もはや何の罪の宣告もないのです。私たちを守るのは咎のなさではなく、キリストとの結び合いによる覆いです。この聖句は、絶えず戻ってくる責める声に対する強力な解毒剤です。聖書でローマ人への手紙8章1節を読む

10. ヨハネの第一の手紙2章12節

子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。

ヨハネは信者たちに、イエスの名のゆえにすでに罪を赦された「子たちよ」として語りかけます。ここで受けた赦しは、単なる過去の出来事ではなく、クリスチャンとしてのアイデンティティの土台となります。この聖句は、絶えず赦しを探し求めるのではなく、すでに与えられた赦しに立って生きるよう招いています。聖書でヨハネの第一の手紙2章12節を読む

キリストが赦してくださったように、人を赦す

11. マタイによる福音書6章14-15節

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

「主の祈り」を教えられた直後、イエスは神から受ける赦しと、私たちが人に与える赦しとを明確に結びつけられます。私たちの赦しが神の赦しに値するからではなく、赦すことを拒む心は、自分が受けたはずのものへの門を自ら閉ざしてしまうのです。この聖句は、受けた恵みの光に照らして自分の恨みを吟味するよう促します。聖書でマタイによる福音書6章14-15節を読む

12. マタイによる福音書18章21-22節

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

赦しに妥当な限度があるかというペテロの問いに、イエスはあらゆる計算を超える数字で答えられます。赦しには数える器がないのです。それは到達すべき数字ではなく、限りなく育て続けるべき心の姿勢です。この聖句は、負債の論理から抜け出し、恵みの論理へと入るよう招いています。聖書でマタイによる福音書18章21-22節を読む

13. エペソ人への手紙4章32節

互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

パウロは赦すようにとの勧めを、神ご自身の模範に基づかせています。「神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように」。模範が命令に先立つのです。人は良い人であろうとして赦すのではなく、赦されたからこそ赦すのです。この聖句は、情け深さ、あわれみ、赦しを、同じ一つの恵みの三つの現れとして結びつけています。聖書でエペソ人への手紙4章32節を読む

14. コロサイ人への手紙3章13節

互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。

パウロは互いに赦し合うようにと呼びかける前に、対立が現実にあることを認めています。赦しは傷を無視するのではなく、主が私たちの傷に応えてくださったように、それに応えることを選び取るのです。この聖句は、摩擦が避けられない共同体の人間関係において役立ちます。聖書でコロサイ人への手紙3章13節を読む

15. マルコによる福音書11章25節

また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。

イエスは祈りと赦しを結びつけられます。誰かに対する恨みを抱いたまま、心から祈ることはできません。この聖句は、赦しを待つべき感情としてではなく、痛みが消える前にでも行うべき意志の行為として位置づけています。赦しを、祈りの生活の中で定期的に実践すべきものとするよう招いています。聖書でマルコによる福音書11章25節を読む

16. ルカによる福音書6章37節

人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

イエスは、さばき、罪の宣告、そして赦しを一つの流れの中で結びつけられます。私たちが人に対して用いる秤は、自分自身に返ってくるのです。この聖句は、自分には当てはめない基準を人に求める厳しい心への警告です。判決よりもあわれみを優先するよう励ましています。聖書でルカによる福音書6章37節を読む

赦しを受け入れる悔い改め

17. 詩篇51篇1節

神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。

バテ・シェバとの過ちの後、ダビデは自分の功績にではなく、ただ神のいつくしみと豊かなあわれみにのみ頼って、神に向かって叫びます。この聖句は、どんな過ちも、正直に神の前に差し出せないほど重いものではないことを示しています。神のもとにどう戻ればよいか分からなくなった人々に、言葉を与えてくれます。聖書で詩篇51篇1節を読む

18. 箴言28章13節

その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。

聖書の知恵は二つの道を対比させます。過ちを隠す道は失敗に至り、それを言い表して離れる道はあわれみへと開かれます。この聖句は、神の赦しが巧みな隠蔽ではなく、誠実な告白と結びついていることを思い起こさせます。恐れのゆえに隠れ続けるのではなく、そこから出てくるよう励ましています。聖書で箴言28章13節を読む

19. イザヤ書55章7節

悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。

預言者は悪しき者に自分の道を捨てるよう呼びかけ、「豊かにゆるしを与えられる」神の約束を告げます。この言葉は、神の忍耐を使い果たしてしまったのではないかという恐れを取り除きます。赦そうとする神の姿勢は、決してすり減ることがないのです。この聖句は、何度つまずいても立ち帰ることを励まします。聖書でイザヤ書55章7節を読む

20. 歴代志下7章14節

わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。

神はご自分の民に、へりくだり、祈り、方向を変えることに応えて、赦しといやしを約束されます。この聖句は、個人の赦しと共同体の回復とを結びつけています。悔い改めは、共同体に影響を及ぼさない孤立した行為では決してありません。へりくだりを、いやしへの入り口として招いています。聖書で歴代志下7章14節を読む

21. ルカによる福音書15章20節

そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

放蕩息子のたとえの中で、父は完全な説明を待ちません。息子をまだ遠くに見つけたそのときから、あわれに思って走り寄るのです。この聖句は、求められる前に先んじる赦し、息子の功績ではなく父の愛によって始まる赦しを描いています。「もう遅すぎる」「傷つきすぎている」と恐れる人々を安心させてくれます。聖書でルカによる福音書15章20節を読む

赦しが開く新しい自由

22. イザヤ書43章25節

わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。

神はご自分について一人称で語られます。「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」。神の赦しは受け身の黙認ではなく、ご自分の御名のために下される、神ご自身の積極的な決断です。この聖句は、神が忘れると選ばれたことを、繰り返し思い返すのをやめるよう招いています。聖書でイザヤ書43章25節を読む

23. ヘブル人への手紙10章17節

さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。

エレミヤ書からの引用であるこの約束は、キリストの完全な御業を封印しています。もはや繰り返すべきいけにえはありません。罪はもはや私たちに対して数え上げられることがないからです。この聖句は、旧い契約における繰り返しのささげ物に対するイエスのいけにえの優位性についての長い論証を締めくくっています。それは、過ちのたびに更新される必要のない、安定した平安の土台となります。聖書でヘブル人への手紙10章17節を読む

24. ピリピ人への手紙3章13節

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、

重い過去を背負っていたパウロは、それでも「後のもの」に縛られることを選ばず、「前のもの」に向かって進みます。この聖句は、自分自身を赦すことに苦しむ人々に具体的な道を示します。過去を否定するのではなく、そこにとどまることを拒むのです。まだ走るべき道のりへと目を向け直すよう招いています。聖書でピリピ人への手紙3章13節を読む

25. コリント人への第二の手紙5章17節

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

「キリストにある」ということは、だれもが新しく造られた者となるということです。古いものは過ぎ去りました。この聖句は、このリストを新しいアイデンティティという調べで締めくくります。それは単に負債が消されたということ以上のものです。赦しは、単なる白紙への逆戻りではなく、異なる新しい存在を開くのです。過去のレッテルからではなく、この新しさから生きるよう招いています。聖書でコリント人への第二の手紙5章17節を読む

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よくある質問

あまりにも罪深く感じるとき、どうすれば神の赦しを受け取れますか?

自分の過ちを軽く見たり隠したりせず、正直に告白することによってです。自分の感情にではなく、神の真実さ(ヨハネの第一の手紙1章9節)と、共に「論じよう」と招いてくださる神の招き(イザヤ書1章18節)に頼りましょう。罪責感はしばらく残ることがありますが、それはキリストにあってすでに与えられている赦しという現実を、少しも変えるものではありません。

深く傷つけられた相手を、どうすれば赦せますか?

まず、自分が神から受けた赦し(エペソ人への手紙4章32節)を思い起こすことから始めます。そして、赦しを待つべき感情としてではなく、意志による行為として、回数を数えることなく行うのです(マルコによる福音書11章25節マタイによる福音書18章21-22節)。これは傷そのものを消したり、境界線を設ける知恵を不要にしたりするものではありませんが、人を閉じ込める恨みからは解放してくれます。

この赦しについての聖句リストは、どのように使えばよいですか?

黙想的に読むには、一日一節で十分です。BibleGatewayのリンクからその文脈の中で読み、書き留め、それから自分自身の祈りとして言い換えてみましょう。暗唱するなら、詩篇103篇12節ヨハネの第一の手紙1章9節エペソ人への手紙4章32節のような短く中心的な聖句から始め、その後より長い箇所へと広げていくとよいでしょう。

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